第九百六十一話 情報子
この手から生じる青白い燐光は、幸多の体内を巡る分子機械と大気中の魔素との摩擦によって生じているものだ。
完全無能者たる幸多を生かすために作られた超分子機機械は、細胞に匹敵するかそれ以上に膨大な数、幸多の体内に存在しているらしい。そして、常に幸多の細胞を大量に生産し続けているのだ。
幸多の体細胞は、常に死に続けている。
それはほかの人間、ほかの生物も同じではあるのだが、魔導強化法よってこの魔界に順応した人間、生物のそれは常識の範囲内のことである。多少の細胞が死のうとも、新たに生まれる細胞が命を維持し続ける。それが生物だ。
だが、幸多の場合は違う。一切の魔素を宿さない完全無能者の肉体は、大気中に満ちた膨大な魔素がもたらす圧力に耐えきれず、瞬く間に自壊し、死滅していくのである。超分子機械が大量に投入され、常に稼働しているからどうにかなっているだけなのだ。
急速に死にゆく肉体を辛くも維持しているのが超分子機械たちであり、それらがあればこそ、幸多は生きていられる。
そして、超分子機械がその機能を最大限に発揮し、表面化することによって、大気中の魔素との間に摩擦が生じ、青白い燐光として見て取れるようになる――らしい。
マモンとの戦闘以来、何度となく発現したそれは、幸多が幻想空間や幻想体への直接的な干渉をも可能とする不思議な力でもあった。
その光を見て、メタトロンが口を開く。
「情報子」
「え?」
幸多は、思わずメタトロンの顔を見た。白銀の天使は、まっすぐに幸多の手を、青白い燐光を見つめている。
「それは、情報子というものだ」
「情報子……」
幸多は反芻し、青白い燐光とメタトロンの顔を交互に見た。情報子という言葉がこの燐光の正式な呼称なのだろうと理解する。なぜそんなことをメタトロンが知っているのかという疑問は、沸かなかった。
そもそも、この光が最初に発現したのは、天使型幻魔ドミニオンから貰い受けた力の影響だったからだ。
天使は、この力を知っている。
そして、この力が悪魔を斃すことができるものなのだ、という。
「この世のあらゆる存在は、魔素によって成り立っている。魔素が、この世界の根幹だ。故に魔素世界、魔素宇宙などと呼ばれていることは、きみも知っているだろう」
「はい」
「情報子は、その魔素の根源といっても過言ではないものだ」
「魔素の根源……」
幸多は、メタトロンの目を見つめていた。情報子と呼ばれた青白い燐光によく似た、青白く輝く双眸。柔らかく、穏やかで、優しげな瞳。見ているだけで心の中の不安という不安が消し飛び、安定していくような感覚があった。
なにも恐れることはない。
「でも、ぼくは、ぼくには……」
「そう、きみには魔素がない」
「だからさあ、さっさと死ぬべきなんだよねえ!」
二人の会話に割り込むようにしてアザゼルが飛びかかってきたものだから、メタトロンが三枚の翼をそちらに向けた。アザゼルの足刀を翼で受け止める。両者の間で巨大な星神力が爆ぜ、轟音が周囲を震撼させた。
アザゼルが飛び退いたのは、そこに無数の光線が降り注いだからだ。
見上げれば、天使の輪がそこにあった。
悪魔の黒環に対応する、天使の光輪。メタトロンの光輪は通常、左手薬指にあるのだが、いまは当然そこには見当たらない。
アザゼルを迎撃するべく、発動したのである。
「邪魔をするな」
「邪魔をしているのは、そっちだろう。おれがせっかく幸福の絶頂で死なせてあげようってのにさ。毎回毎回邪魔をして。きみは、一体なんなんだ?」
呆れ果てたような口調で、アザゼル。軽薄さは変わらないが、重圧は増している。星神力がその全身から溢れていた。
「知っていることを」
「まあ……そうだね。知っているから聞くのさ。きみは、自分を理解しているのか、と」
「しているさ。しているから、ここにいる」
「なるほど。だったら尚更、捨て置けないなあ」
アザゼルは、光輪から殺到する無数の光線を躱しつつ、メタトロンに魔法弾を放った。メタトロンは魔法壁を展開することで魔法弾を跳ね返したものの、頭上から降ってきたアザゼルには、右腕を差し出さなければならなかった。
翳した右腕でアザゼルの踵を受け止めたがために、肘から先が消し飛んだのだ。
即座に幸多を抱えるようにしてその場を飛び離れ、光輪を左手薬指に戻す。
アザゼルは、メタトロンの右前腕を蹴り上げて、手に取って見せた。そして、握り潰す。無数の燐光となって消えていく様を見届ける悪魔の口元は、嗤っていた。
「魔素を持たざるきみがなぜ、万物の根源たる情報子を制御できるのか。まったく理解できないだろう。想像もつくまい。だが、いまはわからなくていい。いずれわかるときがくる」
「いずれ……」
幸多は、メタトロンの言葉に疑いを持たなかった。メタトロンが懸命に自分を守ってくれているということもあるが、疑う理由が思い浮かばないというのもあった。幻魔は幻魔でも、天使型幻魔に敵意を持つことができない。
ドミニオンといい、ウリエルといい、そしてメタトロンといい、天使型のいずれもが、幸多に味方してくれている。
幻魔は幻魔。人類の天敵であり、滅ぼすべき邪悪だ――というのが、戦団の総意であり、導士のだれもが抱く感想ではあるのだが、とはいえ、幸多には天使に対して悪感情を持つ理由がないというのもまた、事実なのだ。
なにより、メタトロンが側に立ってくれているだけで、幸多には心強かった。
アザゼルが、嘲笑う。
「それっていつの話かなあ! 明日? 明後日? 一年後、それとも十年後かな? いや、百年後かもしれないんじゃないか?」
「そうだな」
「人間、百年も辛抱できると思う?」
「できなくとも、してもらうさ」
「傲慢だね!」
「悪魔にいわれたくはない」
「まったくもって、その通り!」
アザゼルの自嘲にも似た笑い声は、真言そのものだ。周囲に浮かんだ律像が反応し、魔法が発動する。結界が蠢いたかと思えば、漆黒の蔦を伸ばしたのである。
メタトロンは、それら漆黒の蔦を白銀の光線で撃ち貫くと、透かさず前方に光輪を展開した。超高速で殺到してきたアザゼルも、光輪には触れまいと進路を変える。光輪の中心、虚空から放たれた極大の光芒が結界に衝突し、大爆発を起こした。
メタトロンがアザゼルの接近を阻みながら、幸多に語りかけた。
「意識を集中しろ。もっと力を引き出すんだ。情報子は、きみの力だ。きみの、きみだけの、悪魔を斃す力」
「悪魔を斃す……力」
「そうだ。その力を奴に叩きつけろ。情報子による一撃は、悪魔にとって致命傷になる」
「致命傷……」
幸多は、メタトロンにいわれるまま、意識を集中させた。アザゼルの攻撃から身を守るのは、メタトロンに任せればいい。メタトロンならば、必ずや幸多を護ってくれるはずだ。
実際、身を挺して、護ってくれている。
なにも心配する必要はない。疑問もいらない。いまはただ、メタトロンを信じれば良い。
なぜか、そう確信した。
そして、力を込めるとはどういうことなのかと考えた。情報子が、この青白い燐光が、超分子機械と魔素の摩擦によって生じるものである以上、超分子機械に力を発揮させるべきなのだろうが、そんなことが意識してできるものなのか。
拳を握る力を込めるだけでは、燐光は強くならなかった。だから、メタトロンの言葉を信じ、意識を集中する。
ただただ、右手を見つめ、情報子を意識するのだ。
「そういうのを偏向報道っていうんだ。情報子が致命傷になるのは、天使も同じだろ」
「否定はしない。おれもおまえも、同じだ。同じ幻魔で、人類の天敵だ」
「はっ、わかっているじゃあないか」
アザゼルの魔法と体術を織り交ぜた猛攻をメタトロンが捌き続ける。
両者の間に星神力が爆発し、結界内が破壊され尽くしていく。破壊に次ぐ破壊、爆砕に次ぐ爆砕が、結界内の狭い戦場を見るも無惨な有り様へと変えていくのだ。
瞬く間に。
そして、その間に幸多の右手は、より強い光を発するようになった。淡い光ではない。強烈な青白い光。それは幸多の網膜をも青白く塗り潰し、意識を席巻した。
《早いな――》
だから、それからなにが起こったのか、幸多はよく覚えていない。
気がついたときには、アザゼルを見ていた。
アザゼルは、立ち尽くし、右腕を掲げている。肘から先を失った悪魔は、その断面の焦げ付きっぷりを見て、憮然とした様子だった。やれやれと頭を振り、困ったように口の端を歪める。
「面白いよ、面白いね。まったく、想定外の事態になってしまった」
「だが、最初に侵したのは、おまえたちだ」
「まあ、そうだね。アーリマンが〈傲慢〉に純粋すぎたのさ。その結果がこのザマだ。サタン様に怒られろ」
メタトロンは、同僚に悪態を吐く悪魔の姿をただ冷ややかに見据えていた。
幸多は、呆然としている。自分がなにをしたのか、まるで理解できていないからだ。無心だった。無意識だった。
あの光が、あの青白くも強烈な輝きが、情報子が、アザゼルの右腕を消し飛ばしたとでもいうのだろうか。
幸多には、わからない。
ただ、右手を覆っていた燐光が消えているのも確かだった。
まるで、役目を果たしたかのように。
「皆代幸多。きみを救うのはつぎの機会にしよう」
いうが早いか、アザゼルの姿が消えて失せた。
周囲を覆っていた漆黒の結界も消滅し、光が戻ってくる。
頭上には、天使たちがまさに天に昇っていく光景が展開されていた。
膨大な光が星々の如く煌めき、消えていく。
戦いが、終わった。