第九百五十九話 言霊
全身が悲鳴を上げている。
体中の至る所が激痛を訴えてきていて、だからこそ生きているのだと実感するのだが、それを喜んでなどいられなかった。痛みの酷さに、とめどなく涙が零れている。
やがて痛みが引いていったのは、闘衣が痛覚を遮断したからに違いない。
闘衣にせよ、導衣にせよ、戦団技術局が開発した武装は、導士を生存させるための機能が充実している。ショック死を防ぐため、痛みを緩和、軽減する機能も備わっており、場合によっては痛覚そのものを麻痺させることさえ可能だった。
それがいま、幸多の全身に行き届いた。
痛みは、生を実感させるが、同時に行動を鈍くする。
いまのような絶体絶命の窮地において痛みによる行動の遅延ほど致命的なものはあるまい。生き延びられる可能性すらも奪いかねない。
幸多は、口内に広がる鉄の味に苦い顔をした。血反吐を吐く。目を開けば、欠けた視界が霞んでいた。そして横倒しになっていることに気づく。地に倒れ伏している。体がまともに動かないのは、全身を強く打ちつけたことによって機能不全に陥っていることの証明だ。
意識も判然としていない。
まともに状況を把握することもままならなければ、思考もまとまらない。
ただ、黒い足が大地を踏みしめ、歩み寄ってくるのを見ていた。どす黒くも、赤みがかった足。黒光りする靴が、妙に印象に残った。きっと、アザゼルの足だ。
擬態を見破られた以上、隠し通す必要がなくなって正体を現したのだ。
そして、幸多たちを攻撃した。
(それで、やられたんだ)
ようやく頭が回るようになってきて、多少、安心する。脳が深刻な損傷を受けている様子はない。手足も動く。欠損している様子もない。
「頑丈だねえ。さすがは特異点様だ」
アザゼルの声は、記憶にある通り軽薄そのものだった。極めて強大な力を感じるのだが、その力もどうにも上っ面だけの薄っぺらいもののように思えてくる。それは紛れもなく勘違いなのだが。
幸多は、アザゼルが悠然とした足取りで近づいてくるのを見て、素早く起き上がろうとした。だが、手を付き、体を起こしたところを吹き飛ばされ、声が漏れる。
「ぐうっ」
「これでも死なない。本当に頑丈だ。普通の人間なら、いまの一撃で絶命しているはずなんだけどねえ。まあ、どうでもいいか。どうせきみは死ぬ」
「死ぬ……?」
アザゼルの言葉を反芻するようにつぶやきながら、体を起こす。今度こそようやく立ち上がれたのは、アザゼルが攻撃してこなかったからだ。
鎧套は完全に破壊されており、闘衣も体の一部を覆っているに過ぎない。全身、傷だらけだったし、血まみれだった。体の一部でも欠損していないのが奇跡のように思えた。鬼級幻魔の攻撃は、ただの打撃ですら致命的であり、決定的な威力を秘めている。
周囲は、壊滅的な状態だった。オロバス領北西の山間部、その渓谷内。右も左も切り立った崖に阻まれていたはずの領域。それがいまや地形そのものが激変しており、渓谷など跡形もなくなるほどに消し飛ばされていた。
アザゼルの攻撃によって、だろう。
そして、その激変した地形に散らばるようにして転がっているのが、真星小隊の部下たちであり、城ノ宮明臣だった。皆、幸多同様に満身創痍だったし、血まみれであり、意識を失っているようだ。
アザゼルの言動に反応すら見せていない。
真白も、黒乃も、義一も、明臣も、誰一人としてだ。
一瞬、殺されたのかと思い、取り乱しそうになったものの、目を凝らして見れば、胸が上下していることがわかった。呼吸している。生きている。生きていれば、どうにかなる。
どうにでもなる。
(本当に?)
疑問が、幸多の脳裏に浮かび上がったが、一瞬だった。そんなものに囚われている場合ではない。
どうにかしなければ、ならない。
「そう、死ぬ。今日、ここで、いま、死ぬ。むしろ今日までよく生きてこられたものだと感心するよ。きみの悪運の強さは、お世辞抜きに素晴らしいものだ。名は体を表すとはよくいったものだけれど、本当にその通りだ。皆代幸多」
アザゼルに目線を戻せば、以前に見た通りの悪魔の姿がそこにあった。全身が暗紅色で塗り潰されたような、人間に酷似した外見の怪物。長身痩躯。すらりとした肢体を覆うのは、暗紅色のスーツであり、その背中からは三対六枚の翼が生えていた。漆黒の翼は、黒い光を帯びているように見える。
頭髪は真っ白でぼさぼさだ。手入れなどしていないのだろうし、必要もないのだろう。つぎに目に行くのは、目元を覆う黒い輪だ。両目は、その黒い輪の向こう側に隠れているため、その目線はわからない。ただし、黒い輪に視界を遮られていてもなんの問題もないことは明らかだ。
幻魔である。
人間やその他の生物とは、なにもかもが違うのだ。
「せめて、幸多からんことを――きみの両親が、完全無能者として生まれ落ちたきみの人生を哀れんでつけた名だ。そしてその名は、祝福ではなく、呪縛となった」
「呪縛……」
「言霊って知ってるかな? 古来、人間は言葉には力が宿るものだと信じてきた。まあ、中にはそんなものはただの迷信であり、信じるものは馬鹿しかいないなんていう輩もいたようだけれど、魔法の発明が言葉の力を確かなものにした。真言がそれだ」
アザゼルは、幸多との距離を少しずつ詰めながら、言葉を並べていく。空疎で、実体を伴わない言葉の羅列。そこに意味を見出す必要はないのだろうし、聞き届ける意味もない。
幸多は、呼吸が荒くなるのを抑えつけながら、どうにか冷静さを保とうとした。いついかなるときでも冷静でなければならない。
それこそが師の教えであり、導士の基本中の基本だからだ。
冷静でありさえすれば、どのような苦境でも、打開策を見出すことができる――可能性がある。
もちろん、現状幸多が置かれている状況が絶体絶命の窮地であるという事実もまた、冷ややかに受け入れなければならないのだが。
全てを理解し、把握し、受け入れた上で、考える。
この苦境を打破する方法――。
「真言が魔法を実現するように、言葉もまた、そこに込められた願いや祈り、望みを実現しうる力を持つ。それが言霊だよ。きみの名に込められた望みは、今日まで十分に果たしてきたはずだ。本来ならば即死して然るべき完全無能者が十六年も生きられたんだ。もう、十分だろう?」
「まるでぼくのことをなんでも知っているみたいにいうんだな?」
「知っているさ。知っているとも。きみのことで知らないことはないよ」
アザゼルは、当然のように言ってのけた。
「きみが生まれた理由も、きみが存在する意義も、きみに与えられた使命も、なにもかもすべて、知っている」
大袈裟なまでの身振り手振りが、アザゼルの言葉の軽薄さを際立たせていく。
「だからさ。こうして逢いに来たんじゃないか。まさに逢魔が時、というわけだね」
「なにを……」
いっているのか。
幸多の疑問は、声にならなかった。
アザゼルがただ無意味に言葉を並べ連ねているのだとしても、理由がわからなかったし、仮にその言葉がなにかしら真実に触れているのだとしても、幸多にはなにがなんだかわからないというのが本音だった。
アザゼルがなにを言いたいのかわからないし、わかりたくもない。けれども、胸がざわつく。
異様なまでの違和感が、幸多の意識を席巻している。
「よく言うだろう。冷酷無比な天使と違って、悪魔は情に厚く、慈悲深いと。これも慈悲深さ故の行動なんだよ。きみを救いたいんだ。きみを苦しみから解放してあげたい。ただその一点だけが、おれをここに辿り着かせた」
「ぼくを救う?」
「そう、きみを――」
その言葉だけは、軽薄にも空疎にも聞こえなかったのは、気のせいだったのか。
幸多には、なにも理解できないまま、状況は激変した。
突如、光が降ってきたのだ。
幸多の眼前に降り注いだ白銀の光が、アザゼルをその場から飛び退かせれば、無数の光線が悪魔を追撃した。アザゼルは、虚空に波紋を浮かばせることでそれら光線を弾き返し、白銀の光柱に目を細めた。
「せっかくいいところだったってのに、きみって奴はさあ」
神々しいとしか言い様のない白銀の光に人影を見出し、アザゼルが口の端を歪めた。
そして、光が人の形へと収斂し、白銀の熾天使メタトロンが出現すれば、両者の間に凄まじいまでの力が満ちた。
互いの星神力が、ただただ激突したのだ。それだけで天地を揺るがすほどの爆風が生じる。
幸多は、唖然とするしかなかった。
眼前に見たこともない天使が現れただけでなく、悪魔との間で高次元の戦いを始めたからだ。
莫大な星神力の激突は、幸多の網膜にも煌めいていた。