第九十五話 日岡イリア
その日の朝、急な呼び出しを受けた伊佐那美由理は、嫌な予感を覚え、悪寒さえ感じた。そしてそういう自分の嗅覚というのは、やはり正しいものだといわざるを得ないのだと、彼女は、目的地に辿り着くなり実感せざるを得なくなった。
戦団本部技術局棟第四開発室に、美由理は呼び出された。
呼び出したのは、第四開発室の長だ。
技術局とは、戦団における要となる部局の一つである。
戦務局、情報局、そして技術局が戦団の三本柱と呼ばれ、重要部局とされている。が、もちろん、それ以外の部局も戦団を運営していく上で必要不可欠であることはいうまでもない。
中でもより重要度が高いであろう部局という意味で三本柱とされている、というだけのことだ。
実際、戦務局がなければ戦団は意味がなく、情報局がなければ立ち回れず、技術局がなければここまでの成果を上げることができたかどうかも怪しいものなのだから、決して間違いではない。
技術局は、戦団に様々な技術を提供している。幻魔に関する研究も行っていれば、新たな戦闘装備の開発も行っているし、革新的な新技術も、技術局によってもたらされた。
導衣、法機、転身機という戦闘部導士必須ともいうべき装備群を生み出したのも、技術局なのだ。
戦闘部導士筆頭ともいうべき軍団長には、頭の上がらない部局の最たるものといっていい。
もっとも、美由理の場合は、別の理由で頭が上がらないのだが。
「さすがは第七軍団長様。予定時刻より十分も早く到着なさるとは」
本部棟に併設された技術棟の一角にある第四開発室、その白く広い一室に足を踏み入れるなり、美由理の死角から話しかけてきた人物こそ、彼女をこの場に呼び出した人物だった。
「皮肉か嫌味か賞賛か、どう受け取るべきだ?」
美由理は、視線をそちらに向けながら、問うた。視界には、広い室内で様々な作業を行う技術局員たちの姿があり、それらの視線が、一瞬、美由理に集中したことがわかった。が、いつものことだと思ったのか、すぐに元の作業に戻っていく。
彼らにしてみれば、慣れたことだ。
そしてそれは、美由理にとっても同じことが言えた。
慣れたことだ。
突然呼び出され、色々と押し付けられるのには、慣れすぎている。
「いやあねえ、ただの褒め言葉じゃない。素直に受け取って欲しいわ」
などと、いつものような笑顔で美由理に抱きついてきたのは、蒼黒色の頭髪が特徴的な長身の女だ。黒い制服の上に白衣を羽織っているのが、技術局員の通例といっていい。そして、胸元に輝く星印は、技術局を示す黄色を基調とし、五芒星を象っている。彼女の階級も星将だということだ。
名を、日岡イリアという。
美由理よりわずかに背の高い彼女だが、見た目の印象としてはイリアのほうが遥かに華奢だ。当然だろう。彼女は、技術局第四開発室長であり、技術者なのだ。戦闘部の軍団長を勤め、日夜鍛錬に明け暮れる美由理とは異なり、日々頭脳を働かせるのがイリアの職務であり、責務であった。頭脳労働もまた大変な仕事であるということは、美由理もよく知っているし、だからこそ、技術局や情報局の導士たちには頭の下がる想いがするのだが。
とはいえ、今日、突如として呼び出しを受けたことには、内心、なんともいえない、釈然としないものを感じていた。
イリアの呼び出しは、いつも急だったが、たいていの場合、その意図が明かされることもあって、納得がいくものばかりだった。
しかし、今回の呼び出しには、理由が明かされていなかった。
「急に呼び出したのは、どういう了見だ。もしわたしになにか重要な用事でもあったら、どうしていた?」
「どうもしないけど。だって、わたし、室長よ? 室長権限、わかる?」
そういって、彼女は、その右腕に付けた腕章を主張するようにして、美由理の胸に押しつけた。イリアの白衣には、腕章が輝いていた。特別な素材で出来た独特な形状の腕章は、技術局でしか用いられていないものであり、技術局の四人の室長だけが装着可能な代物だった。
そして、四人の室長には、特別な権限が与えられていた。
それが室長権限と呼ばれるものであり、その権限には、総長でさえ逆らえないとされた。
つまり、たかが軍団長の一人に過ぎない美由理には、どのみち従う以外の道はなかったということだ。
だが、そこまでして当日の朝から呼び出された例は過去になかった。
そのことが、美由理をして、イリアに懸念を抱かせるのだ。彼女がなにを考えているのか、ときどきわからなくなる。十年以上の付き合いであり、親友というべき気の置けない間柄だが、その全てを理解しているとは言い難い。
わかり合えていると断言できたのなら、どれだけ気が楽だったか。
美由理は、イリアが見せつけてきた腕章の相も変わらず訳のわからない形状を見つめながら、そんなことを想う。
「室長権限、か。めずらしいこともあるものだ」
「せっかくの権限なんだし、たまには行使しないと、もったいないじゃない」
「まさか、それだけか? それだけの理由で、権限を駆使したのか?」
「そうだけど」
「な――」
平然と言ってのけるイリアに対し、美由理は絶句するほかなかった。イリアは、しれっとした顔で続ける。
「だって、別に権限なんて行使しなくたって、あなたは来てくれるでしょ」
「それは……そうだが」
否定しようのない事実を突きつけられたものの、美由理は、如何ともしがたい理不尽さを感じたのだった。理不尽と書いて、イリアと読む――とは、星央魔導院時代から変わらない一つの真理といっていい。
いつだって彼女は理不尽で、天災のような人だった。
「ところでどうなの? 弟子くんとは。上手くやってる?」
「……いきなりその話か」
こうなることは想定通りではあったが、美由理は、イリアを睨まずにはいられなかった。イリアはへこたれることなく、続けてくる。
「ほかにどんな話があるのよ」
「多忙なわたしを呼びつけた理由に関する話があるだろう」
「わたしは超多忙だけど」
当然のように断言してくるイリアには、美由理も頭を抱えたくなってくる。
「だったらさっさと目的を話せ」
「まあまあ、ついてきなさいよ。そして教えなさいよ、弟子くんとの甘々な日々を」
「甘々……?」
美由理は、ようやく歩き出したイリアの後に続きながら、小首を傾げた。なにをいっているのか、意味がわからない。
イリアは、きょとんとして見せた。
「でしょう? 違うの?」
「わたしがどんな理由で弟子を取ったと――」
「一目惚れしたから」
「……きみがわたしをそんな人間だと想っているとは、知らなかったよ」
「冗談よ。決まってるでしょ」
涼しい顔で本気とも冗談ともつかないことをいってくるのが、イリアという人間だ。そんなことはわかりきっているからこそ、美由理も憮然とするほかないのだが。
「……なら、いい」
「でも、知りたいのは、本当。彼とは上手く行っているの?」
それは、イリアなりの親心だった。親友として、美由理の人間関係が少しでも上手く行くことを心底祈っている。
美由理は、昔から人付き合いが下手だった。学生代など特にそうだった。イリアと妻鹿愛がいなければ、魔導院で孤立していたのではないかと思えるほどだ。もっとも、そうはならなかった。
イリアも愛も、彼女を心底愛しているからだ。
美由理は、イリアの軽妙な足取りに機嫌の良さを感じ取りながら、いった。
「上手くもなにも、入団式の時に少し話をしただけだ」
「え? 嘘でしょ」
「師弟として動き出すのは、次の月曜日と決めている。そのほうが色々と都合がいいのではないかと思ってな」
「なるほど? その理屈はまったくもって理解できないけど、理解したわ」
「してないだろ」
「してないけど、まあいいのよ、わたしの感情なんてどうだって」
「……なんなんだ」
美由理は、頭痛さえ覚えるような気がして、頭を振った。イリアとのやり取りはいつもこうだ。なにがなんだかわけがわからない。
「なあんだ。てっきりとっくに始動してるものだと思ってたわ、あなたの指導」
「……突っ込まんぞ」
「ケチね」
「氷の女帝だからな」
「冷血鉄面皮でしょ」
「……ああいえばこういう」
「こういえばそういう」
「変わらないな」
「人間、そう簡単に変われるものですか」
「……まったく、その通りだ」
美由理は、この上なく巨大な実感とともにイリアの意見に頷いた。イリアが不思議そうな目で美由理を見たが、美由理は意に介さなかった。
変わらない想いがあり、その想いが美由理の全てといっても過言ではなかった。それこそが、伊佐那美由理という存在を貫いている。
だかこそ、ここにあるのだ、と、いままさに確信している。
「ついたわよ。入って」
イリアは、第四開発室内の入り組んだ通路の先にある一室に辿り着くなり、扉を開いた。
その部屋の扉には、幻創機調整室とだけ張り出されており、美由理にはそれがなにを意味するのか、これから何が行われるのか、皆目見当もつかなかった。
どうせろくなことではない、と、これまでの経験がそう警告してくるのだが、だからといってどうにかできるわけもなく。
美由理は、幻創機調整室に足を踏み入れた。




