第九百五十八話 欺くもの
「ふう……助かったぜ」
「良かった……」
「さすがは両副長。見事な手腕だ」
安心感に満ちた声が背後から聞こえてくる中で、幸多は、二人の導士を見つめていた。
二人の副長は、幸多たちを救援するべく、長杖型法機・流星を駆り、空白地帯を全速力でかっ飛ばし、駆けつけてくれたようだった。
平塚光作と八咫鏡子は、ともに戦団有数の魔法士であることは疑いを持つ必要がない。第十、第九軍団の副長である。それぞれ軍団長の右腕、腹心として名高く、次期軍団長候補に上げられるほどの導士なのだ。
第五軍団長の座は、城ノ宮日流子が戦死してからというもの現在も空席のまま、第五軍団副長・美乃利美織が軍団長代理を務めている。いずれ軍団長に就任するのではないかと噂されているのは、それだけの実力者だからだ。
副長とは、将来の軍団長候補筆頭なのだ。
余程のことでもなければ、副長以外から軍団長が選ばれることはないだろう。
つまり、二人の副長は、それほどまでの魔法技量を誇る導士ということであり、事実、妖級を事も無げに撃破し、多数の獣級を蹴散らしていった戦いぶりは圧巻だった。
しかも、八咫鏡子の冷ややかな美貌も、平塚光作の穏和な風貌も、苛烈な戦果には程遠いほどに平然としている。
さすがは副長というべきか。
そして、そんな二人が速やかに近づいてくる様を見て、義一が口を開いた。
「隊長、逃げよう」
「うん」
幸多に異論はなく、副長二人が待つ前方ではなく、大量の幻魔が待ち受ける後方へと逆走を始めた。縮地改ならば、副長たちに目を向けたまま、進路とは逆方向に滑走することも難しくはない。
両側を断崖に阻まれた渓谷の狭間。前方には副長たちが、後方には幻魔たちが立ちはだかっており、逃げ場などどこにもないのだが、ならば、後方の敵を蹴散らして血路を開くしかない。
「へっ!?」
「どうしたの!?」
「なにをしているのかね!?」
義一の予期せぬ発言と、それに疑問もなく応じる幸多には、千手に掴まれた三人が混乱するのも無理はなかった。
だが、義一の目は、副長たちの正体を捉えていたし、幸多もまた、違和感を覚えていた。
違和感。
そう、違和感だ。
見る限りでは、八咫鏡子、平塚光作の二人に異変はない。少なくとも、幸多が知っている通りの二人だ。
開戦前、境界防壁内で直接顔を見ている。軍団が違うということもあり、言葉こそ交わしていないものの、歴戦の猛者たる副長たちの様子を見ることは、幸多にとって至福の時間ではあった。
幸多は、導士たちを一人残らず尊敬しているし、導士たちの日々の様子を見るだけでも嬉しく思えるような人間なのだ。
無駄の一切ない八咫鏡子の佇まいの美しさも、新人導士にも優しく声をかけていく平塚光作の穏やかさも、どちらも記憶に焼き付けておきたいほどに素晴らしいと思えたものだ。
それは、いい。
問題は、いまだ。
いま、目の前に救援に現れた二人の副長に抱いた違和感の正体は、わからない。わからないのだが、しかし、本能が警告を発している。近づいてはならない、受け入れてはならない、気を許してはならない――。
そんな幸多の違和感を肯定するかのように義一が言葉を発したものだから、素直に受け入れ、距離を取った。
すると、平塚光作と八咫鏡子は、多少困惑したような素振りを見せたものの、そんなもので幸多の違和感を拭い去ることはできるものではない。
「あれは、偽物だ」
「偽物だあ!?」
「どういうこと!?」
「あの二人を構成する魔素が完全に一致しているんだよ」
義一は、黄金色の眼を輝かせながら、副長二人を凝視している。
「固有波形なんていうように、魔素の発する波形は人間一人一人、幻魔一体一体異なるものなんだ。本当に微妙な違いだから、余程特異な能力でもない限り把握することなんてできないだろうけど」
「ふむ。きみは、その特異な能力を持っている」
「はい」
明臣は、義一の冷静さに感心しつつ、副長たちを観察した。上空から降下しつつ距離を詰めてくる副長たちは、見る限りでは本人そのものだ。頭の天辺から足の先に至るまで、当人となにひとつ変わらない。
だが、魔素を誤魔化すことはできない。
魔素が発する固有の波形は、なにものにも偽れるものではないのだ。
そして、義一の真眼を欺くことなどできるはずもなかった。
『現在、平塚光作、八咫鏡子副長がそちらに向かっています! それまで持ち堪えてください!』
「ね?」
「お、おう……」
「本当に……偽物なんだ」
真白と黒乃は、互いに顔を見合わせ、それから副長の偽物に目を向けた。音声に乱れこそあったものの、情報官からの通達を疑う理由はない。
つまり、平塚光作と八咫鏡子は、全速力で真星小隊の救援に向かってくれている最中であり、眼の前にいるのは紛れもない偽物だということだ。
「そして、この固有波形は……アザゼルだ」
「アザゼル……!」
幸多は、即座に背後に向き直ると、飛電改の引き金を引いた。弾幕を張って幻魔の接近を阻み、すぐさま偽物たちに向き直る。
「いやはや、さすがというべきか、なんというべきか。妬ましいったらありゃしない」
聞き知った声が、二人の副長から異口同音に漏れてきたかと思えば、副長たちの両目が赤黒く輝いた。そして莫大な魔力が吹き荒れ、爆圧が幸多を襲った。
『新たな固有波形の出現を確認! アザゼルです!』
「なんやて!?」
情報官の声は、やはり悲鳴そのもののように鋭く、耳朶を引き裂くかのようだった。
朝彦は、衝撃と驚愕の中で、事態がさらに悪化していくのを認めるほかなかったし、だからといってもはや自分たちにできることなどなにもないこともまた、理解していた。
朝彦を始めとする杖長たちは、一カ所に留まったまま、動けずにいるのだ。
目の前にルシフェルがおり、アーリマンと対峙している。
二体の鬼級幻魔の間には、巨大な星神力が、激しく衝突し続けており、その様子を見ているだけでこの肉体が干涸らびるのではないかと思うほどだった。体中が燃えるように熱く、汗が止まらないのだ。
手に汗握るどころの話ではない。
強大無比としか言いようのない力の衝突は、星将たちの訓練とも比較にならないものであり、絶望的な力の差を実感せずにはいられなかった。
正気を保っていられるのが不思議なくらいだ。
常人ならば、気が狂ってしまうのではないか。
それほどまでの力の奔流が、周囲一帯に破壊の限りを尽くすようにして暴れ回っている。
だが、朝彦たちに被害はない。
ルシフェルの力が、朝彦たちを守ってくれているようだった。
「アザゼル……」
ルナは、統魔とルシフェルたちの間に視線をさ迷わせながら、その忌まわしい悪魔の名を口にした。ルナの命を奪おうとしていた悪魔なのだ。ルナにとっては、他の悪魔以上に気になる存在だった。
もちろん、だからといって、いまのルナにできることなどなにもないのだが。
杖長たちとともに天使と悪魔の戦いの行き着く先を見守ることしかできない。
戦いは、終わりに向かおうとしている。
少なくとも、オロバス・エロス連合軍と戦団の戦いは、終結した。
生き残った幻魔の大半は既に戦場を去り、残されたのは、天使と悪魔ばかりだった。
天を覆い尽くさんばかりの天使の群れは、その光でもって地上を照らしている。
その光の下、ルシフェルは、アーリマンを見つめているのだ。
「オロバスが滅び、エロスが滅びた。もはやこの戦いに意味はなく、きみがここにいる理由もとうに失せたはずだ。きみの目論見はすべて、潰え去ったのだから」
「余の目論見を理解できると?」
「できるとも。わたしなら」
「ふむ……」
アーリマンは、ルシフェルに向けていた力を霧散させると、己が影に手を翳した。すると、影が盛り上がり、なにかを形作っていく。それは、古めかしい異形の猟銃に変化すると、アーリマンの手に収まった。
「バルバトスの星象現界?」
「そうみたいやな」
朝彦は、アーリマンが猟銃を掲げ、銃口をルシフェルに向けるのを見ていた。
「つまり、あれがアーリマンの星象現界っちゅうこっちゃな」
「バルバトスのが?」
「ちゃうちゃう。他者の星象現界を模倣するんが、や」
朝彦が断言すると、アーリマンが引き金を引いた。
破裂音が、戦場に響き渡る。