第九百五十七話 茶番の終わり
「残念。せっかく良い感じだったのに。全部終わってしまったわ」
「アスモデウス……」
ガブリエルは、言葉とは裏腹になんとも思っていないのであろう悪魔の横顔を見つめていた。
エロスの王宮は崩壊し、シャングリラは消滅した。
この〈殻〉に留まっていたエロス配下の幻魔たちは、殻印による支配と抑圧から解放され、自由の身となって野に放たれたということだ。
もっとも、その自由を大手を振って謳歌しようなどと考える幻魔は、限りなく少ないに違いない。
多くの幻魔は、危険に満ちた自由よりも、安定的な不自由を求め、殻主たる鬼級幻魔の軍門に降るのだ。
エロスにせよ、オロバスにせよ、それぞれが支配していた大量の幻魔が、近隣の〈殻〉の戦力として組み込まれることは火を見るより明らかだ。
そして、それによってこの地域一帯が活性化し、より激しい戦いが繰り広げられるようになるのも時間の問題だろう。
その余波が人類生存圏に及ぶ可能性も低くはない。
情勢が、動いている。
この数十年、停滞に近かった央都近郊の状況が急激に変化しているのがわかる。
それは、決して良い傾向ではない。
「茶番だけれど」
「茶番」
「だって、そうでしょう?」
アスモデウスは、頭上を仰ぎ見た。宮殿の天井が取り払われた今、視界を遮るものはなにもない。だが、遥か上天に至るまで見渡すことはできなかった。
視線の先に立ちはだかるのは、膨大な数の天使たちだ。
天軍の尖兵たちが、この空白地帯の上空を旋回している。
ガブリエル指揮下の天使たちだ。ガブリエルの号令を今か今かと待ち詫びているに違いなかった。
「エロスは、オロバスとの縁に縋りながらも、彼を手元に置いておくということすらしなかった。オロバスと従属関係を結ぶだけで満足したのは、鬼級幻魔としての自尊心からでしょうけれど、その結果、大切な半身を失う羽目になっただなんて茶番も良いところ。命よりも大切な存在なら、側に置いておかなくては。大事にしておかなくては。そうは想わない?」
「……否定はしませんが」
「なに?」
「わたくしたちには、関係のないことでしょう」
「……そうね。それも否定はしないわ」
アスモデウスは、小さく息を吐いた。周囲の空間そのものが震えたのは、彼女の魔力が吹き荒れたからだ。
「縁に縋り付くのは、ただの幻魔だからこそ許される行いだものね」
そして、アスモデウスは、ガブリエルに視線を戻した後、背を向けた。視界に横たわるのはエロスの宮殿の残骸であり、舞い散る粉塵の彼方で混乱する幻魔たちの様子だ。〈殻〉の消滅と主君の死を連続的に感じ取った数多の幻魔たちは、いまはただ、混乱するほかないだろう。
この混乱が収まるころには、この地から幻魔の数は減っているはずである。
「ここは、あげるわ」
「はい?」
「どうせ、あなたたちが管理するつもりなんでしょう? そうして、周囲の〈殻〉を牽制するつもりなのでしょう。人類の守護者を気取るには、それくらいのことはしないといけないものね。いいわ。許してあげる」
「……あなたに許されなければならない理由はありませんよ、アスモデウス。わたくしたちは、わたくしたちの使命に従うのみ。それがわたくしたちの全て」
「そう。まあ、そういうことにしておいてあげましょう。悪魔は、情け深いから」
「天使は冷酷ですよ」
「ええ。本当、その通り過ぎて困ってしまうわね」
微苦笑を漏らしたアスモデウスの姿は、途端に虚空に溶けて消えた。空間転移魔法だ。強大な魔力の残滓が、わずかに空間を歪めていた。
ガブリエルは、だれもいなくなった宮殿跡地に留まり、静かに嘆息した。
「終わったか」
ウリエルは、エロスの消滅を確認すると、周囲に視線を巡らせた。
オロバス・エロス連合軍というべき幻魔の大軍勢は、指揮系統の崩壊に伴い、いままさに大混乱に陥っていた。オロバス直属の幻魔たちはとっくにこのハヤシラスから逃げ出していたが、二重殻印持ちの幻魔たちが反応を示したのは、エロスが死んでからだった。
そして、戦場に留まり、天使や人間と戦い続けようとする幻魔は、皆無といってよかった。
殻主が死んだのだ。
殻主の命令ならば従わざるを得ず、逆らうことなどあり得ないのだが、支配から解き放たれれば、幻魔の本能以上にこの混沌の戦場を脱出することを優先するのは、当然の判断だろう。
幻魔は、闘争本能の塊であり、人間と見れば襲わずにいられない習性を持っているものの、とはいえ、自分の置かれている状況を理解できないわけではない。
獣級ですら高い知能を持っている。
この状況下で戦い続けることの無意味さを本能的に理解すれば、脱兎の如く逃散するのは正しい判断だ。
戦団の導士たちはといえば、戦場から脱出しようとする幻魔を追撃し、殲滅しようなどとはしていない様子だった。
それもまた、道理だ。
導士たちは、長時間に及ぶ戦闘で消耗しているのだ。立ち向かってくる相手ならばまだしも、戦意を喪失し、撤退を始めた連中を攻撃する必要はない。それがたとえ人類の天敵であり、滅ぼすべき存在である幻魔だとしても、だ。
余計な損害を出すよりも、この勝利を喜ぶべきだろう。
だからこそ、戦団は、オロバスの死によって戦線が崩壊すると、防御を固め始めたのだ。
後は、エロスだけだった。
そして、エロスは、星将たちならば斃せると踏んだに違いない。
アーリマンは、ルシフェルと睨み合いを続けていることもあり、討伐対象にはならなかったのだろう。もし仮にアーリマンまでも斃さなければならないとなれば、戦団は、多大なる損害を覚悟しなければならなかったかもしれない。
だが、その心配はいらない。
ともかく。
戦いは、終わった。
ウリエルは、ルシフェルとアーリマンが未だに睨み合っている様を見て、それから、真星小隊を探した。
この戦いに勝利をもたらしたのは、紛れもなく彼らだ。
彼らの活躍があればこそ、オロバスは滅び去り、エロスの暴走と相成ったのだ。そして、エロスが激情に駆られたからこそ、星将たちが付け入る隙を見出すことができたのである。
そんな勝利の立役者たちは、ハヤシラスの跡地たる空白地帯において、幻魔に取り囲まれているようだった。
殻石の破壊によって、戦況は激変した。
オロバスが死に、オロバスの〈殻〉が消滅、オロバス配下の幻魔たちが戦場を去っていったからだ。それでもまだ、戦場に残り続けるものたちがいて、それらは二重殻印により、エロスの支配下にあるものたちだったらしい。
それも、いまや逃走を始めているという報告が届いている。
エロスが、死んだ。
幻躰ではなく、本体が、だ。
オロバスを失ったことで、エロス本体が戦場に現れ、星将たちと激闘を繰り広げたのだという。そして、斃されたのだと。
五星杖の面目躍如というべきか。
さすがは五星杖と称賛するべきか。
いずれにせよ、光都事変の英雄たちは、五年前の借りを返すことができたようだった。
情報官からの通信によって状況の変化を理解した幸多たちだったが、そのことであれやこれやと話し合っている場合ではなかった。
殻石を破壊した一同は、速やかにその場を脱出しなければならなかった。そしてそれこそが、最大の難題といってよかった。
洞窟を駆け抜け、地上に出た五人を待ち受けていたのは、オロバスの支配を脱却した幻魔たちの群れである。
指揮系統の崩壊によって混乱のただ中にいたウェンディゴたちは、真星小隊を発見するなり、咆哮した。地を揺るがすような上位妖級幻魔の雄叫びは、周囲の幻魔たちも呼び寄せることとなり、大量の幻魔が幸多たちを取り囲んだのだ。
「オロバスは死んだってのに、律儀な奴らもいたもんだぜ」
「ただの本能でしょ」
「だとしても、だな」
「そんなことを言い合っている場合なのかね?」
「そんな場合じゃありませんね」
明臣からの苦言に苦笑を返し、幸多は、武神弐式をかっ飛ばした。殺到してきた攻撃魔法の雨霰を躱し、幻魔の群れを突破していく。
回避しきれなかったとしても、問題はない。真白が構築した光の天蓋が、滝のように降り注ぐ魔法の数々を撥ね除けていく。
黒乃と義一が《ぎいち》攻型魔法を連射し、獣級を掃討するとともに妖級の足止めを行う。
幸多は、逃げの一手だ。四人を千手で抱え込んでいる以上、攻撃に専念することなどできるわけもない。武神弐式で撃式武器を使うことも不可能ではないが、命中精度が極端に落ちるのは間違いなかったし、かといって白式武器を振り回せるような状態でもなかった。
どうにか渓谷を抜け出そうとしても、さらに多数の幻魔が押し寄せてきたものだから、立ち止まらざるを得なくなる。
エロスの死を知ったのは、それら幻魔との交戦中のことである。
二体の鬼級が討伐されたのだ。
戦団にとって大勝利に間違いなかったが、真星小隊は苦境に立たされていた。
その矢先。
幸多の進路に立ちはだかったウェンディゴの巨躯が真っ二つに両断されたかと思えば、その周囲に浮かんでいたサキュバスたちが魔晶核を氷の槍に貫かれ、絶命していった。
「間に合ったようだね」
「無事ですか? 真星小隊の皆さん」
周囲の幻魔を撃破しながら幸多に合流したのは、第十軍団副長・平塚光作と第九軍団副長・八咫鏡子の二人だった。