第九百五十四話 反撃(八)
オロバスの死。
殻石の破壊によって起きたその出来事が、この大戦争に重大な転機をもたらすということは、だれの目にも明らかだった。
オロバスの死とは即ち〈殻〉の崩壊であり、オロバス軍そのものの瓦解へと繋がる。
二重殻印持ちの幻魔だけはエロス支配下のままかもしれないが、だとしても戦力が激減するのは間違いない。
そもそもオロバス軍は、それ以前より天使たちの攻撃によって壊滅的な打撃を受けていたのだ。そこへ、指揮官にして王たるオロバスが斃れたとなれば、壊乱するのも当然の結果だ。
〈殻〉というオロバスの魔力に満ちた結界が消え去ると、潮が引いていくようにして、大量の幻魔がこの戦場から逃げ去っていった。
彼らにしてみれば、死に物狂いだったはずだ。
死に物狂いで、自分が生き残るための手段を探し、実行に移したのだ。
目の前の人間や敵対する幻魔との戦闘に命を懸ける理由は、殻主が滅び去ったことによって皆無となった。となれば、生存本能の赴くままに行動するのが幻魔というものだ。
それこそ、道理だ。
力の掟に支配された魔界のありふれた光景そのものだ。
ウリエルは、オロバス領ハヤシラスから逃散していく幻魔を見やり、天使たちに攻撃の手を止めるように命じた。
いまやこの〈殻〉の跡地を埋め尽くすのは、光だ。莫大な光を放つ天使の群ればかりが、瞬く間に空白地帯と化したこの地を白く塗り潰している。
それら天使たちに厳命するのは、人類の守護である。
未だ戦団の導士たちとの戦闘に命を費やさんとするエロス配下の幻魔を殲滅することにこそ、死力を尽くすべきなのだ。
もはや戦意を喪失し、戦場を去ろうというものたちを追撃する必要はない。
殻主の支配から解放され、自由の身となった幻魔たちがこれから先どのような道を歩むのかはわからない。空白地帯に住処を持ち、野良として生きるのかもしれないし、新たな主を探して放浪するかもしれない。いずれにせよ、人類と再び相見えることになる可能性は高いが、いまはどうでもいいことだ。
いま現在、為すべきことはなにか。
「〈殻〉がまた一つ、消えた」
ウリエルは、遥か北西を見遣った。
膨大にして破壊的な魔素の奔流が天を衝く柱の如く聳え立ったかと思えば、それが瞬く間にこの地へと降ってきたのだ。
凄まじいまでの爆圧は、ウリエルすらもその場から吹き飛ばすほどのものであり、直撃を受けた天使たちの大半が、その存在を消し飛ばされかけるほどだった。
だが、滅び去ることはない。
天使なのだ。
天使型幻魔は、通常の方法では滅ぼせない。
故にウリエルは、暴圧に等しい魔素の渦の中で、それを見ていた。
それはエロスの幻躰が崩壊していく光景であり、正真正銘本物のエロスが、頭上から舞い降りてくる様子だった。
星の煌めきを纏った女魔は、絶望と憤怒が入り混じった形相でもって、人間たちを見下ろしていた。
「なんだ? なにが――」
「見ればわかるだろう。幻躰が崩れ、本体が現れたんだ」
「そりゃあ、わかってる」
一目瞭然だと、明日良は言外に告げた。
彼が言いたいのは、そういうことではない。
そういうわかりきったことではないのだ。
星将たちの目の前で、それは起きた。
オロバスの幻躰が消滅し、〈殻〉そのものが崩壊し、オロバス軍が瓦解した。それによって戦況は、戦団側に傾ききったといっていいだろう。天使型幻魔がこちらの味方であると判断した場合に限っては、だが、現状、天使型を敵と見做す理由はなさそうだった。
認めがたく、受け入れがたいことだが、いまは、天使たちの加勢に感謝するしかない。
天使たちの助力があればこそ、圧倒的優位に立てたのだし、オロバスを出し抜くことができたのだ。そして、オロバスは死んだ。
そこまでは良かった。
想定外の連続だったこの戦いの中で、唯一といっていいほどこちらにとって都合の良い展開となったのは、それだけだ。
そこから、また予想外の出来事が起きている。
エロスが慟哭した。
オロバスの幻躰を抱き、悲嘆に暮れるようにして泣き叫び、絶望的な声を上げたのだ。幻魔が、まるで人間のように振る舞うものだから、明日良たちも半ば呆然とするしかなかった。
攻撃を叩き込む絶好の機会だった。
だが、付け入る隙はなかった。
隙だらけに見えるのだとすれば、それはエロスの力量を測りきれない愚か者だけだろう。
幸いにも、星将たちに愚者はいなかった。護りを固め、吹き荒ぶ星神力から自分たちの身を守ることに専念できたのも、正しい判断だ。
エロスの幻躰から壊滅的な力が渦を巻くようにして溢れ出したの束の間、それが起きた。エロスの妖艶なる姿態が影すら失うほどに崩壊し、天から光が降ってきたのである。まるで〈星〉そのもののように光り輝くそれこそがエロスの本体だということは、だれの目にも明らかだった。そして、幻躰とは比較にならないほどの魔素質量には、明日良の全身から汗が噴き出すほどの重圧を感じたものだった。
物凄まじい圧力は、エロスがいまのいままで本当の力を隠していたことを示している。
姿形は、変わらない。
だが、その女神の如き美貌の内側から溢れ出る星神力の質も量も、幻躰を圧倒的に上回っていた。
幻躰は所詮幻躰。
殻石が生み出す分身であり、本体となんら遜色ないというのは、過言なのだ。やはり、殻石が〈殻〉を形成し、維持するためには相応の力を割かなければならず、その状態で生み出す幻躰が本領を発揮することなどありえないということだろう。
エロスが、殻石を己の心臓たる魔晶核へと戻すことで、本来の力をいままさに見せつけてきたのだ。
事実、明日良たちは、エロスの星神力に巨大な重力すら感じていた。
「わたしからオロバスを奪ったあなたたちは、一人残らず殺し尽くしてあげる。それをせめてもの手向けとし、わたし自身への慰めとするわ」
それでも許せるものではないといわんばかりに、エロスが、全身から星神力を放出する。全周囲に煌めいたのは無数の律像であり、それらはエロスの咆哮とともに魔法となった。
純白の光の波動が、エロスを中心とする超広範囲に壊滅的な被害をもたらす。
この戦場は元より壊滅的な状態だったのだが、エロスの魔法の直撃を受けたことによってさらに酷く、致命的なものとなっていく。
明日良たちは、即座にその場を飛び離れ、空中に結界を構築することで事無きを得た。が、それも一瞬にして水泡に帰す。
無数の光線が、魔法壁を切り刻んだ。
エロスの星象現界・愛染女王が、その破壊力をさらに増幅させた形で発動したのだ。
「オロバスの敵討ちってか?」
「悪い冗談だ」
「本当にね」
「敵討ちは、こちらの話だろうに」
「そうさね。先に手を出してきたのは、どっちだって話さ」
五星杖《ごせいsじょう》たちは、口々に幻魔への怒りを露わにしながら、目線だけで考えをぶつけ合った。そして、瞬時にその場から飛び離れると、エロスの目標を分散させた。
愛染女王は、頭髪に宿る武装顕現型星象現界だ。頭髪の数だけ攻撃することが可能であり、頭髪の長さだけ射程が長く、範囲が広い。そして、頭髪は伸縮自在であり、無数に分裂し、際限なく攻撃対象と射程範囲を増やしていく。
その威力もまた、頭髪の数だけ増すと見ていい。
また、髪の毛一本でも切ってしまえば、それがエロスの分身となる。分身自体も愛染女王を繰り出すため、できれば分身を生み出さないように立ち回りたいところだが、そんなことはいってはいられないだろう。
「分身は、増えれば増えるほど能力が落ちるぜ」
「聞いている」
「でも、増やすのも問題よね?」
「ああ、大問題だ」
「じゃあ、どうするんだい?」
「さて、どうしたもんかね」
明日良は、前方に暴風の障壁を生み出し、光刃の嵐を受け止めながら、考え込んだ。
エロスの力は、先程とは比較にならないほどに強大無比だ。
元より鬼級幻魔。
星将一人ではどうしようもない相手ではあった。
だが、いま、エロスを相手にしている星将は、五人だ。
五対一。
勝算は、ある。