第九百五十三話 反撃(七)
エロスの慟哭が聞こえる。
世界の残酷さに、運命の苛烈さに、現実の冷厳さに打ちのめされ、絶望してしまったかのような声は、そのまま彼女の激情を現実のものとする真言として、戦場に響き渡っている。
悲嘆が想像を加速させ、想像が律像となり、律像が真言によって現実化する。
よくあることだ。
実にありふれた喜劇の一幕に過ぎない。
「エロスのこと、可哀想だと想う? ガブリエル」
「……あなたは、なにを考えているのですか? アスモデウス」
ガブリエルは、アスモデウスの質問に対し、素直な疑問をぶつけた。悪魔の反応は、まるでこの状況をこそ待ち望んでいたとでもいわんばかりだ。それが、ガブリエルには理解できない。
エロスが絶望に暮れているらしいというのは、わかる。だが、エロスは幻魔だ。しかも高度な知性を持ちながら、我利我欲の塊でもある鬼級幻魔の一体であり、広大な領土を持つ殻主である。
領土的野心という生まれ持った本能に従うのが鬼級幻魔の大半であり、そのためにあらゆる手段を用い、狡知謀略を巡らせることもある。
たとえば、戦いの果てに下した別の鬼級幻魔を配下に迎え入れるのも、そうだ。
目的のための手段に過ぎない。
エロスにとってのオロバスとは、そのようなものではなかったのか。
哀しみ、嘆き、泣き叫びながら魔法を乱舞させるエロスの有り様は、ガブリエルの理解からかけ離れたものだった。
「冗談でしょう?」
アスモデウスは、エロスの悲鳴とともに震撼し始めた〈殻〉の様子に目を細めつつ、ガブリエルを見た。水を司る熾天使がこの期に及んで冗談をいうわけもなければ、嘘を付くはうもない。
天使なのだ。
真実と愛の使徒である彼らが、そのようなくだらないことをする理由がない。
たとえ、悪魔に対しても、だ。
「あなたなら理解できると想うのだけれど」
「わたくしに?」
「だって、あなたがここにいるのも、きっと彼女と同じ理由だもの」
「同じ理由……」
ガブリエルは、アスモデウスの言葉を反芻するようにつぶやきながら、考える。いや、考えるまでもない。アスモデウスの発言に嘘偽りがなければ、それ以外には考えられない。
「縁……ですか」
「御名答。そう、縁よ」
アスモデウスは、いまや己を抱きしめたまま慟哭し続けているエロスに視線を戻した。その絶望が幻躰から力を噴出させ続けている。それこそ、力の限り、全てを破壊し尽くさんばかりに、だ。
これでは、人間たちも手の出しようがあるまい。
攻撃を試みたところで、エロスの力に圧倒され、掻き消されるだけだ。
後先など一切考えていない全身全霊の力の放出。
故に、このエロスの〈殻〉シャングリラそのものが鳴動している。
まるで、エロスの絶望に共鳴しているかのように。
いや、違う。
共鳴しているのは、幻躰のほうだ。
「エロスとオロバスの間には、縁があったのよ。だからエロスは、オロバスを屈服させ、臣従させた。オロバスはなぜなのか理解していなかったでしょうけれど、まあ結局、魂の奥底では認識していたのでしょうね。だから、エロスに付き従うことにした」
エロスが、立ち上がった。
このシャングリラ全体を覆う鳴動は、高まるばかりだ。加速し、激化し、大地のみならず、天をも騒がせている。〈殻〉という巨大な結界そのものが綻び始めているのだ。
「エロスにとって、オロバスはまさに半身のような存在だった。オロバスと相対したとき、長らく失っていた半身をようやく発見した気分だったというわ。本人から聞いたわけではないけれど、きっと、そうなのよ。そして、オロバスを側に置くことによって、エロスの心は安定した。満たされていたのよ。もうなにもいらないくらいに」
エロスが、人間たちを睨み付ける。その眼差しには怒りが満ちていた。赤黒く瞳の奥底に〈星〉が煌めき、星象現界の力を限界まで引き出していく。星神力が洪水のように吹き荒れて、膨大な髪が嵐を巻き起こすかのようだ。
「それで満足していれば良かったのに。オロバスに打ち明けずとも、ただ一緒にいるだけで良かったのに。全く、幻魔というのは度し難いわね。そう想うでしょう? ガブリエル」
「あなたは……なにを」
「一般論よ。結局、生まれ持った性分を、領土的野心を捨てきれなかったエロスは、命よりも大切な半身を、縁を失ってしまった。せっかくの愛も、これでは意味がない」
「愛……」
「ねえ、愛の天使様。あなたならこの状況を上手く収められるのかしら?」
アスモデウスの質問は、〈殻〉の崩壊に飲み込まれていった。
宮殿の地下深くから沸き上がってきた莫大な星神力の光が、シャングリラ全体を覆っていた全ての力を吸い上げて、飛んでいったのだ。
シャングリラが、地上から消滅した。
オロバスの〈殻〉が崩壊を始めれば、既に壊滅的な打撃を受けていたオロバス軍もまた、当然のように瓦解を始めた。王にして支配者たる殻主が滅びたのだ。指揮系統は乱れに乱れた。
末端の兵隊たちは、己の行動を支配する殻印の消滅を認識するも、目の前の敵をどうするべきか考えなければならなかった。
幻魔の本能は、戦闘の続行を要求する。
一方で、すぐにでもこの場から逃げ去るべきだという考えがもたげてくるのも、当たり前だっただろう。
なんといっても、オロバス軍は、戦団のみならず、天軍の総攻撃を受けていたのだ。天使たちの数は、オロバス軍の総数を遥かに上回るほどであり、オロバス軍が壊滅するのも時間の問題かと思えるほどだった。
そんな最中、オロバスが死んだ。
殻石を破壊され、〈殻〉が消滅し、殻主が死亡した。
兵隊として動員された幻魔たちは、その瞬間、自由の身となった。
そうなれば、人間はともかく、天使を名乗る幻魔たちと相争う理屈も必要性もなかった。
一刻も早く戦場から抜け出そうという動きを見せる幻魔も少なかったし、そうした幻魔を背後から攻撃するのは天使型ばかりだった。導士の大半は、オロバス軍が瓦解していく様を見届けているだけだった。
導士たちは、消耗しすぎていた。戦線を維持するだけで手一杯という状況だったのだ。天軍の介入がなければ、戦団はとてつもない損害を負っていたかもしれない。
それほどまでの戦況だった。
その戦況が、覆った。
天軍の、天使たちの介入によって。
「さて。どうする?」
「それはこちらの台詞だ」
アーリマンは、ルシフェルを睨み据え、告げた。
両者の間に吹き荒れる星神力は、破壊的な魔法攻撃の嵐そのものだ。虚空で激突し、爆砕の乱舞を巻き起こしては、周囲一帯に壊滅的な被害をもたらし続けている。
互いに睨み合ったまま、一歩も動かない。動かずとも、生まれついての魔法士たる幻魔である以上、攻撃も防御も可能なのだ。
体内の魔素を意のままに操り、魔力を練成し、星神力へと昇華するという一連の流れも、無意識的に行えるのが鬼級幻魔というものだ。
「状況は、決した」
ルシフェルは、アーリマンを見つめながら、別の目で戦場の彼方を確認している。つまり、主戦場だ。オロバスとエロス、そして人間側の主力が死闘を繰り広げていた場所。つい先程までハヤシラスという名の〈殻〉だった領域の中心部。
オロバスは、斃れた。
ムスペルヘイムのときと同様に、人間たちの機転によって殻石が破壊されたからだ。
そして、それこそが、人間側が〈殻〉を攻略するために取れる数少ない手段であり、最良の選択肢であろう。もちろん、そのためには〈殻〉の深部に潜り込む必要がある上、場合によっては殻主と対峙する可能性もあり、必ずしも絶対に成功するものではあるまいが。
だが、戦団は、この方法で人類の領土を広げてきたのだし、幻魔に打ち勝ってきたのだ。
今回も、成功した。
オロバスは滅び去り、敵は、エロスだけとなった。
アーリマンは、彼らの敵にはなり得ない。
現状、ではあるが。