第九百五十二話 反撃(六)
エロスが姿を消したのは、蒼秀と明日良の二人がかりでようやく追い詰めたと思った矢先の出来事だった。
突如、まさに鬼のような形相になったかと思えば、瞬時に大量の分身を生み出し、二人に突貫させてきたのだ。それこそ、作戦も目的もなにもないただの特攻であり、明日良と蒼秀が軽々と対応できるほどのものだった。
二人の星象現界の前に次々と消し飛んでいく分身たちは、もう数を増やすことはなかった。光り輝く毛髪を切り飛ばしても、灼き尽くしても、増殖することなく消滅していったのだ。
あまりの呆気なさに二人が顔を見合わせたほどだ。
そしてエロスを目で追ったとき、それこそが目的だったことに気づかされたのである。
つまり、時間稼ぎだ。
蒼秀と明日良の注意を少しでも自分から引き剥がすことができれば、それだけで十分だったのだろう。だから、分身たちを意味もなく突撃させた。もはや大した力もない分身たちの猛攻など、二人の星将の前では無意味だということくらい、エロスも理解していたのだ。
だが、それでも時間稼ぎにはなる。
ほんの一秒、わずか一瞬でも、エロスにとっては十分だった。
十分すぎる時間があったのだ。
なにせ、エロスの目的地は、すぐ近くにあったのだから。
「あいつ……!」
「オロバスか」
明日良がエロスにしてやられたことに憤慨する一方で、蒼秀は、その目的がいまいち理解できずに憮然とした。
オロバスの幻躰は、崩壊を始めている。
殻石の破壊が成ったということは、情報官からの報告と、その際聞こえてきた作戦司令室の大歓声もあって確認できている。
そして、オロバスの〈殻〉そのものが消滅し始めていた。オロバスの心臓たる魔晶核を差し出して生み出された巨大な魔力の結界が、音もなく崩れ落ちていく。
もはや、オロバス軍が瓦解するのも時間の問題だ。殻石が破壊されれば、殻主たる鬼級幻魔は死ぬ。
殻主が死ねば、従属していた幻魔たちは庇護も支配も失い、野に放たれるのみだ。
殻主に付き従っている幻魔の大半に忠誠心などはない。
あるのは、力への隷属だけだ。
この力こそが全てである魔界の掟に従っているだけのことなのだ。
故に己を抑圧していた力が消え失せれば、この場に留まる理由はない。見ている間にも空白地帯と化すであろうこの地に残るという選択肢もなくはないが、それよりも新たな主を、己の支配者にして庇護者を探し求めるのが、妖級以下の幻魔の賢い生き方というものなのだろう。
野良よりは、鬼級幻魔の支配下にいるほうがなにかと安全だと本能的に考えている。
ムスペルヘイムの幻魔が、そうであったように。
かつて戦団が制圧した四つの〈殻〉が、そのような末路を辿ったように。
オロバスの〈殻〉もまた、もぬけの殻になること間違いなかった。
オロバスは、滅び去る。
幻躰は、もはや原形を留めて居らず、上半身だけになっていた。それも徐々に形を失いつつあり、手を下す必要など一切なかった。
殻石が破壊されたのだ。魔晶核が。心臓が。
オロバスがわずかでもその幻躰を留めているのは、奇跡的なことといっても良かったはずだ。
そんなオロバスの元へ、エロスが駆け寄っていく。
まるで暴風のように。
眩く輝く頭髪を閃かせ、オロバスの周囲の空間を切り刻みながら、彼の元へと辿り着く。もはやエロスの目には、星将たちの姿など映り込んでいなかった。ただ一点、オロバスの崩れゆく幻躰だけが、彼女の視界を埋め尽くしていた。
幻躰の魔晶核は無事なのに、幻躰が崩壊を始めた。
理由は一つ。
殻石が破壊されたからだ。
「ああああああああああっ!」
エロスは、絶叫した。
絶望的な慟哭は、彼女の力を限界まで引き出し、星象現界・愛染女王の能力を最大限に発揮させる。長い長い黄金色の頭髪が、無限に伸び、無数に分裂し、無量無辺の軌跡を描いていく。
「どうして、どうしてなのっ!?」
エロスが怒り狂ったかのように、力任せに、感情の赴くままに星神力を放出する様には、星将たちにも理解が及ばなかった。
「なんだ? なにがいったい、どうなって……?」
「どういうことなのかしら……?」
美由理と火倶夜は、目の前で行われる無意味としかいいようのない行動に呆然とするしかなかった。エロスの攻撃は、二人を狙ったものでもなければ、他の星将に向けられたものでもなかったのだ。
ただ、エロスを中心とする全周囲を斬り裂き続けている。広大な空間を切り刻む無数の光刃は、まるで光の結界を構築しているようでもあった。
おいそれとは近づけないし、魔法で攻撃したところで切り刻まれて無力化されるのが落ちだろう。
なにより、消耗してもいた。
オロバスとの二対一(星霊を含めれば二対二だが)の戦闘は、想定された星将と鬼級の戦いとは大きく異なるものだ。
本来ならば、星将三名で一体の鬼級に当たることになっている。それほどまでに強力無比なのが鬼級なのだから当然だったが、今回は、動員できる戦力を鑑み、このような形式となったのだ。
そして、当たり前のことだが、この形式では、星将一人にかかる負担は、想像以上のものがあった。
愛がいてくれたからこそ、愛女神の影響下で戦えたからこそどうにかなったものの、そうでなければ、オロバスに一方的にしてやられ、斃されていた可能性も少なくない。
いや、そもそも、オロバスを斃せたのは、美由理たちが時間稼ぎに徹したからだ。
オロバスを斃すのではなく、オロバスとエロスの注意を自分たちに向けさせることだけに集中したのである。
その結果が、これだ。
オロバスの殻石が、真星小隊によって破壊された。
故にオロバスは滅びていく。
この〈殻〉とともに、この世界そのものから完全に消えてなくなるのだ。
気になるのは、エロスだ。
エロスがもはや頭部だけとなったオロバスの幻躰を抱え上げる姿は、まるで泣き崩れているかのようであったし、悲嘆に暮れる表情も、この世に絶望している女性そのものだった。
「幻魔が……幻魔の死を惜しむ?」
火倶夜の疑問に答えられるものは、この場にいなかった。
幻魔の世とは、魔界とは、力こそが唯一無二の絶対の法であり、感情の介在する余地などどこにもないというのが、定説だった。
龍宮の殻主オトヒメのような博愛精神の持ち主という例外を目の当たりにし、彼女のために尽力するマルファスの存在を認識したことで、鬼級幻魔の中には力以外を美徳とし、行動原理とするものがいることも明らかになっていたが、しかし、だからといって大多数の幻魔は、魔界の理に従っているに違いないと誰もが考えていた。
エロスとオロバスの関係も、そのようなものだと思っていた。
力による主従関係。
だからこそ、オロバスはエロスの命令に従い、行動を起こしたのではないか。
軍を起こし、央都方面へと侵攻したのは、エロスの指示があればこそだ。
そしてエロスも、オロバスを手足のように扱っていたのではないか。
(いや……)
美由理は、脳裏を過った光景によって、前言を撤回した。
エロスがこの戦場に現れた瞬間のことを思い出したのだ。
エロスは、最初からこの戦いに参加していたわけではない。オロバスが窮地に陥ったとき、突如として姿を現したのだ。
いまにして思えば、オロバスを窮地から救うためだけに参戦したのではないか。
だとすれば、理解ができる。
オロバスの滅びを目の当たりにして、ただ絶望するエロスの反応、その全てに納得が行く。
「どうなってやがる?」
「これは?」
「なにがなんだか、さっぱりわからないね」
明日良と蒼秀、そして愛が、美由理たちに合流し、それぞれに目線を交わした。
オロバスの幻躰が完全に消滅すると、その頭部を抱えていたエロスの両腕が空を切った。自分自身を抱きしめるような格好になった鬼級幻魔は、そのまま泣き崩れるようにして、額を地面に擦りつけていく。
その間も、愛染女王は荒れ狂っている。
光の嵐が、天地を蹂躙しているかのようだった。