第九百五十一話 反撃(五)
「あれか?」
真っ先に声を上げたのは、真白だった。
オロバス領の北西に広がる山間部、その入り組んだ峡谷の奥深くにぽっかりと穴が開いていた。洞窟の入口にも見えるそこには、二重殻印持ちのウェンディゴが三体、周囲を警戒するようにして立っている。
見るからに怪しさが漂う配置だった。
その穴の奥にオロバスにとってなにか重要なものが隠されているのではないかと主張しているかのような、そんな気配。
真星小隊と城ノ宮明臣の五人は、谷間の岩陰に身を潜めながら、その様子を確認していた。
「うん。あの中だね」
義一が確信とともに断言するのは、真眼で視ているからだ。オロバスの幻躰と繋がる魔素の流れが、洞窟の入り口から内部へと向かっているのが視覚的に認識できている。膨大な魔素の奔流。触れれば、それだけで異常をきたすのではないかというほどに濃密な力の流れ。
だが、真眼の持ち主以外には目視することも、感じ取ることもかなわない。
それが幻躰と殻石の繋がりなのだ。
「スルトと違って守りを固めてるんだね」
「スルトよりは部下を信用してるってことだろうな」
「二重殻印のおかげかも」
「二重殻印の?」
「たぶん、だけどさ。二重殻印は、普通の殻印よりも強力なんだ。それってただ能力が強化されるだけじゃなくて、殻主による支配力も強化されてるんじゃないのかなって」
「ふむ。ありうる話ではあるな」
明は、義一の仮定に興味深げに頷いた。
オロバスが最前線に動員した幻魔は、二重殻印持ちの幻魔ばかりだった。
しかし、オロバス配下の全ての幻魔が二重殻印持ちではないことは、〈殻〉に侵入したことによって明らかとなっている。
二重殻印持ちのほうが戦力になるからこそ動員したのは間違いないが、支配力も強まり、より命令に従順になっているというのであれば、通常の殻印の幻魔を動員する理由はないだろう。
そして、それだけ強力な支配を受けた幻魔ならば、万が一にも殻主を裏切り、殻石を傷つけるようなことはありえないのではないか。
だからこそ、殻石を安置した洞窟の門番として、ウェンディゴを手配しているというのであれば、納得も行く。
「問題は、あれらをどうするかだが」
「二重殻印のウェンディゴだぜ?」
「まあ、なんとかするよ」
「作戦は?」
「ない、かな」
「「はあ!?」」
素っ頓狂な声を上げる九十九兄弟を尻目に、幸多は、岩陰を飛び出すなり、縮地改の全力を発揮した。地面を滑るように疾駆すれば、当然、三体のウェンディゴがこちらに気づく。
重々しい咆哮が山間に響き渡り、四方八方から無数の幻魔たちが姿を見せた。
「お、おい!?」
「隊長!?」
「だ、大丈夫なのかね?」
「わ、わかりませんよ!?」
大量の幻魔が周囲から殺到してくるのを目の当たりにして、千手に捕獲された状態の四人が慌てふためくのは無理からぬことだった。
しかし、幸多は焦らない。
千手の四本の腕は塞がっているが、両腕には二十二式突撃銃・飛電改を抱え込んでいる。装着しているのは武神弐式だが、必ずしも使えないわけではないのだ。もちろん命中精度は大きく低下するが、問題にはならない。
(弾をばらまくだけなら、ね)
四方八方から飛来する無数の魔力体を超高速滑走で躱し、銃口を頭上に向ける。引き金を引き続ければ、乾いた発砲音が連続し、閃光が視界を塗り潰した。だが、幸多の視界は、瞬時に暗視状態に移行しており、閃光弾によって作り出された光の世界に惑わされることはない。
もっとも、ただの閃光弾では幻魔たちには大した効果はない。幻魔の視覚は、魔素を視ているからだ。生物が持つ動態魔素の濃度は、光の中でも闇の中でも変わらない。故に、幻魔は昼間であろうと夜間であろうと変わらず行動できるのであり、人間を取り逃すことなどありえないのだ。
とはいえ、光を認識しないというわけではなく、突然目の前が光に包まれれば、多少の混乱を巻き起こすことはできる。そしてその閃光に多量の魔素が混じっていれば、混乱は加速度的に複雑化するはずだ。
幸多は、右の飛電改で閃光弾を、左の飛電改で残留性魔素拡散弾 を連射し、それによって幻魔の五感を混乱させたのである。
幻魔たちが混乱している隙にウェンディゴたちの足元を通過し、洞窟内に入り込めば、もう巨人たちが追いかけてくることはない。小型の幻魔程度ならば追走してくる可能性もあるが、この洞窟が殻石の安置所に繋がっているのであれば、話は別だろう。
幻魔たちが立ち入れる領域ではない。
幸多は、洞窟をある程度進んだところで背後に向き直り、魔素散布弾と閃光弾を連射した。
光と魔素が散乱し、義一の視界はとんでもないことになっていたが、こればかりは仕方がない。
「ええと……先に一言説明しておいて欲しかったな、隊長」
「ごめんごめん、咄嗟に思いついたからさ」
「だとしても、だよ」
「うん。すみませんでした」
「素直でよろしい」
義一は、幸多が進路に向き直るのに合わせて、そちらを向いた。未だ残光が眩しい視界の先にオロバスの魔素が続いている。
「このまま真っ直ぐ行けば、辿り着くよ」
「わかった。しっかり掴まって。飛ばすよ」
「さっきも飛ばしただろーが!」
「吹き飛ばされそうだった……」
九十九兄弟の非難を浴びながら、幸多は、縮地改を作動させた。
洞窟は、決して広くはなかったが、どこまでも長く続いているように感じられた。まるで坑道のようだ。しかし、その長さも、縮地改の全速力ならばあっという間だ。
まさにあっという間に最奥部に到達したのである。洞窟内には、やはりというべきか、オロバスも兵を手配していなかった。いくら二重殻印による支配が強力とはいえ、己が心臓たる殻石の至近距離にはなにものも近づけたくなかったのだろう。
心情としては、幸多にも理解できた。
幸多が立ち止まったのは、坑道の最奥部だ。そこは多少広い空間になっており、祭壇が設けられていた。殻石を安置するための祭壇である。殻石は、ムスペルヘイムで見たものと同じく、紫黒の結晶体だった。透き通った結晶体の内部から、禍々しく、そして毒々しい光が漏れている。それがオロバスの魔力であり、生命力そのものなのだ。
「これが……殻石」
「おっさんは、見るの初めてか?」
「ああ……きみたちの人生の何倍も導士をやっているが、こうして直接殻石を見るのはこれが初めてだよ。そもそも、殻石を見る機会を得られるような導士がどれほどいるものか」
「おれたちは二度目だもんな」
「自慢すること?」
千手に掴まれたままふんぞり返る兄に黒乃が呆れ果てたものの、明臣は、むしろ賞賛するばかりだった。
「自慢したまえ。きみたちは、とてつもないことをやってのけている。だれもができることではないし、真似するべきことではない」
「褒めてんのか?」
「褒めているとも。さあ、破壊しなさい。いますぐに」
「は、はい」
明臣に促されるまま、幸多は、殻石に照準を合わせた。紫黒の結晶体は、脈打つように禍々しく輝いている。そこに銃弾を一発撃ち込めば、それだけで致命的な結果をもたらすはずだ。
ただ引き金を引くだけで良かった。乾いた発砲音が、空間内に反響する。瞬間、殻石の中心に小さな弾痕が穿たれた。
念のために何発も銃弾を叩き込み、殻石を元型を留めないほどに破壊していく。
「……〈殻〉が崩壊を始めたよ」
義一の報告に、幸多は小さく頷いた。
真星小隊は、任務を全うした。
〈殻〉が崩壊を始めたということはつまり、オロバスも死んだということだ。
「馬鹿な……! 馬鹿な! 馬鹿な馬鹿な馬鹿な!」
突如、オロバスが怒り狂ったのはどういう理屈だったのか。
考えるまでもないことだ、と、美由理は火倶夜と目線を交わした。
オロバスの荒れ狂う星神力が、どす黒い力の渦となって全周囲を蹂躙し、破壊の限りを尽くしていく。莫大な星神力の滾りは、命がいままさに燃え尽きようとしていることを示しているかのようであり、事実その通りなのだろうと美由理は確信した。
星霊ハヤグリーヴァもまた、暴走していた。力の限り火倶夜に襲いかかるのだが、ただの力任せの攻撃など、消耗した火倶夜にでも捌ききれる程度のものでしかなかった。
「ありえぬ、ありえぬありえぬありえぬ……! あってはならぬ! このようなこと、あっては――!」
オロバスのそれは、断末魔の叫び以外のなにものでもなかった。星神力が暗黒の渦となって吹き荒び、周囲一帯に壊滅的な被害をもたらしていったのも束の間、オロバスの最期の咆哮とともに全てが失われていった。
ハヤグリーヴァも消えて失せ、残されたのは、オロバスの幻躰、そのわずかばかりだ。
それも、既に消滅しつつある。
「良くやった」
美由理は、通信機越しに幸多たちを褒め称えながら、オロバスの幻躰が消滅していく様を見ていた。〈殻〉そのものが崩壊を始めている。
殻石が破壊されたのだ。
オロバスの心臓たる魔晶核が、だ。
故にオロバスは滅びるのであり、この戦いそのものが終わりに向かいつつあるのだ。
そのときだ。
閃光が、美由理と火倶夜の視界を過った。
『気をつけろよ! エロスがそっちに向かいやがった!』
明日良の警告が聞こえたのは、あまりにも遅すぎた。
気がつくと、エロスがオロバスの幻躰を抱き抱えていたのだ。