第九百五十話 反撃(四)
アーリマンは、まさに無明の闇を人の形に凝縮したような姿をした怪物だった。
鬼級幻魔に類別されるものの、その魔素質量は、エロスやオロバスとは比較にならないほどのものだったし、それが星神力となって吹き荒れれば、それだけで巨大な重力場が形成されるのも当然の帰結なのだろう。
圧倒的で絶対的な力が、眼前に君臨している。
ルナがその姿を知っているのは、記録映像で見たからだ。
幸多の目の前に現れた〈七悪〉の記録。
幸多の記憶を通して戦団への宣戦布告を行った六体の悪魔たち。
そのうちの一体、アザゼルがルナの命を奪おうとしていたのではないかと考えられているものの、それが〈七悪〉の総意だったのかどうかは不明だ。少なくとも、あれ以降は〈七悪〉から攻撃されるようなこともなかったため、真意すらわからないままだった。
ただ、悪魔が自分の敵であることに疑いは持つ必要はない。
そしてそれは、天使も同じなのだ。
もう一体の鬼級幻魔にも、ルナは警戒を隠さなかった。
それは曙光の塊が人間を模したような幻魔であり、天使型幻魔に分類される存在だ。
情報官からの話によれば、ルシフェルというらしい。
その名から、天使たちの長ではないかと考えられているが、現状、推測の域を出ない。とはいえ、アーリマンに匹敵する魔素質量の塊であり、鬼級の中でも特に凶悪な存在であることは間違いない。その全身から発する黄金の光は、神々しくも凄まじい圧力を伴っている。
離れているというのに全身が強張り、冷や汗がとめどなく流れた。
それほどまでの圧力が、二体の幻魔から発せられている。
よくその側まで接近し、統魔を確保できたものだといまさらのように思うのだ。
一心不乱だったからこそ飛び込めたのであり、少しでも冷静さを保っていれば、途中で躊躇していたのではないか。そして、その躊躇が命取りになった可能性は高い。
今現在、両者の星神力がぶつかり合っているだけだというのに、天変地異にも等しい戦闘が行われているのがわかる。
間に入れば最後、両者の星神力に蹂躙され、粉微塵に消し飛ばされるだろう。
ルナの特異性をもってしても、生き残れる保証はない。
「統魔は、無事だよ。生きてる」
ルナは、皆代小隊の面々に報告しつつ、アーリマンとルシフェルの周囲を見回した。
二体の幻魔を中心とする巨大な空白地帯には、幻魔も導士も一切立ち入ることができないでいる。元々、黒天大殺界が形成されていたこともあるだろうが、星域が崩壊したことによって、さらに近寄りがたくなったのは間違いない。
杖長たちも、二体の鬼級幻魔を前に手を出し倦ねている。
「本荘くん、こっち来ぃ」
「は、はい!」
朝彦に呼ばれて、ルナは即座に彼の元へと向かった。
朝彦は秘剣陽炎を構えつつも、ルシフェルとアーリマンの睨み合いを見つめているだけで精一杯といった有り様だった。
バルバトスとの激闘、そしてアーリマンとの死闘の連戦続きで消耗してもいたのだが、それ以上に天使と悪魔の対峙に圧倒されていたのだ。
そんな中、ルナが戦場に飛び込んできたかと思えば、地面に放り出されていた統魔をかっ攫っていったものだから、呆気に取られたのは必然というべきか。
そして、ルナが統魔を抱えて朝彦の側に降りてきた。
「大隊長!」
「本荘くん、お手柄や」
「お手柄?」
「せや。きみの介入はさすがの悪魔も想定外やったんやろな。虚を突けたんや。おかげでこうして皆代くんを確保することができたわけやから、お手柄もお手柄、大手柄やで」
「確かにお手柄だけどね。一歩間違えたら死んでたかもしれないよ」
とは、瑠衣である。瑠衣は、星霊たちととも防型魔法を駆使し、杖長たちを護るための魔法壁を展開している最中だった。
そうでもしなければ、ルシフェルとアーリマンの戦いに巻き添えになりかねない。
いや、十重二十重に構築された魔法壁すらも次々と破壊されているのだ。そのたびに新たに魔法壁を作り出すことで、ようやく自分たちを護ることができている。わずかでも気を抜けば、その瞬間、天使と悪魔の衝突に巻き込まれ、致命的な結果になりかねない。
「構わないよ」
「え?」
「統魔のいない世界なんて、ありえないもの」
決然としたまなざしでアーリマンを睨み据えるルナの横顔を見て、瑠衣は、気圧されるような気分だった。
彼女がただ者ではないことは、もちろん、把握している。人ならざる、幻魔ならざるもの。特異点。だからといっても、導士であり、部下である以上、無茶をさせたくないというのは上司たる杖長として当然の考え方だ。
所属する軍団は違えども、杖長は杖長らしく、導士たちをより良い未来に導かねばならない。
「そうかい。だったら、もっと強く手綱を握っておくんだね」
「手綱?」
「そうさ。皆代統魔が暴走しないように、しっかりとね」
「手綱……」
「もののたとえや。なにもほんまに手綱に繋がんでもええからな」
「え、あ……はい」
「冗談や」
「冗談なんていってる場合?」
真緒が朝彦を睨み付けたのは、ルシフェルとアーリマンの対峙を見守っていることしかできない己の不甲斐なさへの憤りもあった。
彼女だけではない。
杖長たちのだれもがそうだ。
現状、彼らはなにもできていない。
ルシフェルが降り立ち、アーリマンと対峙を始めてからというもの、杖長たちには介入する余地がなかったのだ。
最初、ルシフェルなど無視してアーリマンを攻撃したのだが、容易く対処された上、手痛い反撃を受けたがために万全を期そうとした。
そうするうちに始まったルシフェルとアーリマンの対峙は、ただ睨み合っているだけだというのに、高次元の戦闘が繰り広げられているのがわかってしまった。
星神力の激突は、それだけで凄まじい力を生み、余波が周囲を破壊し尽くしていったのだ。大地を、天を、黒天大殺界を、崩壊させた。
統魔がアーリマンの手から解放されたのは、そのときだった。
そして、アーリマンが手にしていた天之瓊矛も消えて失せている。
ルシフェルがなにかをしたのか、それとも、アーリマンが手放したのか、朝彦たちにはわからない。
ただ、黄金の光と無明の闇の衝突を見ていることしかできないのだ。
そんな杖長たちの気持ちなどつゆ知らず、ルシフェルは、アーリマンを見据えている。超高密度の星神力がその周囲に渦を巻き、無数の律像を構築し、幾重にも変化させ、様々な破壊の形を想像していく様は、見るものによっては絶望的かもしれない。
ルシフェルは、絶望しないが。
「契約を違えることは許されない。決して、何者にも」
「汝がいうか」
「きみだけにはいわれたくないからね。アーリマン。これは重大な契約違反だ。だから、わたしたちはここに降りてきた。その意味を理解してもらいたいな」
「……くだらぬな」
アーリマンは、一笑に付した。
「汝が降りてきた理由はただ一つ、縁であろうに」
「それをきみがいうかな」
ルシフェルは、苦笑とともにアーリマンの顔を見た。闇そのもののような悪魔の顔は、どこか見覚えがあった。
ないはずがなかった。
あまりにも知りすぎたその顔を忘れる理由がなかった。
「だれもが縁に縛られている。人も、幻魔も、天も、地も。この世の全てが因と縁によって結ばれ、律によって紡がれた果てへと至る。それが運命。それが、物語。わたくしたちの。あなたたちの。人々の」
アスモデウスが謳うようにいってきた言葉の意味は、ガブリエルにも当たり前のように理解できた。
悠然かつしなやかに玉座から腰を上げた悪魔は、その燃え盛る魔力を火柱の如く聳え立たせていく。轟然と燃え立つのは、魔力ではなく、星神力だ。
超高密度の魔素が、その圧倒的な質量を見せつけるかのようにこの宮殿に壊滅的な打撃を叩き込んでいく。
「ここで相対するのが運命ならば、それも良いわ。そう思わない? ガブリエル」
「思いませんよ、アスモデウス。わたくしたちが対峙するべきは、今ではありません」
「契約に従うべきと?」
「それがあなたたちの存在意義でしょう?」
「あなたたちの、ね」
「否定はしません」
とはいえ、ガブリエルが星神力でもって対抗しなければならないのもまた、事実だった。
アスモデウスの黒い炎が眼前まで肉迫してきたからであり、ガブリエルは、星神力の激流でもって押し返すことで対抗した。
そして、エロスの宮殿が消滅するほどの破壊が起きたのだった。