第九百四十八話 反撃(二)
明臣は、それを見ていた。
突如、眼前に降り立ったそれは、話に聞く天使型幻魔そのものだった。中でも最高位の天使型であることが一目で理解できたのは、彼が情報局副長であり、職務上、戦団が管理するあらゆる情報を掌握していたからに違いない。
妖級以下の幻魔がそうであるように、天使型の大半には個性というものがなかった。獣級や妖級という等級の中に、ガルムやケットシー、サキュバスやウェンディゴといった種属こそ存在するものの、それら幻魔は、個々に異なる性質を持たないことが大半だった。
余程力を持った幻魔には、獣級であろうとも妖級であろうとも、多少なりとも個性を獲得できるようだが、稀有であり、例外的な存在である。戦団の〈書庫〉を漁っても、妖級以下の個性的な幻魔は数えるほどしか確認出来ないだろう。
幻魔とは、そういう生き物だ。
鬼級以上になってようやく、確固たる自我を獲得できるようなのだ。
天使型の大半に個性がないのも、そのためだ。
また、天使型は、天軍九隊とも呼ばれる天使の階級に対応しているのではないか、と考えられており、下位三隊の天使、大天使、権天使は獣級幻魔相当、中位三隊の能天使、力天使、主天使は下位妖級幻魔相当、上位三隊の座天使、智天使は上位妖級幻魔相当だと推測されている。
そして、おそらくだが、最上位の熾天使は鬼級相当の力を持っているのだろう。
推測は、当たった。
いままさに明臣の眼前に降り立った天使型幻魔の魔素質量が、鬼級に相当するものだったからだ。
ノルン・システムが即座に計測し、彼に伝えている。それは報告であり、警告だ。今すぐその場を離れなければ、命の安全を約束できないという叫び。
だが、彼は、それを聞くまでもなく理解していた。感覚だけで、わかってしまった。
その天使は、多くの鬼級と同じく極めて人間に酷似した姿をしていた。
鬼級幻魔の証の一つが、それだ。
人間に似ているか、否か。
琥珀色に輝く衣を纏った天使は、灰色の頭髪を持ち、透き通った碧い瞳を持っていた。天使型特有の青く輝く瞳は、幻魔との唯一の違いといっていい。だが、その構成魔素の傾向は幻魔そのものであり、天使型が幻魔とは異なる生物であるとは認められなかった。
本荘ルナという、人間とも幻魔とも異なる例外中の例外の存在がいる以上、あらゆる可能性を探られたものの、天使型は幻魔の一種であると断定された。
ではなぜ、天使型が他の幻魔と異なる眼を持っているのかは不明だが、そういう種なのだろうと考えるほかなかった。
そして、そんなことは、明臣にはどうでもよかった。
彼にとって重大なのは、その天使の顔立ちだった。
「ああ……」
エロスの分身によって切り刻まれたカラキリから投げ出され、地面に叩きつけられた明臣は、全身の痛みなど忘れ去ってしまうほどの衝撃を受けていた。
可能性は、あった。
しかし、考えたくはなかった。
だが、こうなってしまった以上、認めるしかあるまい。
いま、目の前にいる天使こそが、琥珀色の異形の槍を構える女性型の天使こそが、ウリエルこそが――。
「だ、大丈夫ですか?」
不意に声をかけられて、明臣は、思考を切り替えた。駆け寄ってきたのは、幸多だった。エロスの攻撃によって鎧套を完膚なきまでに破壊されただけでなく、満身創痍といった有り様の彼は、当然のように明臣のことをこそ、心配しているようだった。
「あ、ああ……全身を強く打ったがね。大したことではないよ」
「痛むところはありませんか?」
「気にするほどのものではないさ。急ごう。ここは、天使に任せるんだ」
「天使に……」
「ああ。彼女ならばきっと、我々の助けになってくれるはずだ」
「……そうですね」
幸多は、明臣の結論に疑問を持たなかった。幸多の脳裏には、主天使の姿が過っていたのだ。
幸多にマモンと戦うための力を与えてくれた主天使は、最期まで彼に協力的だった。
命を懸けて助けてくれたという事実は、幸多に幻魔が必ずしも人類の敵だけではないのだと教えてくれるようだった。
幻魔は滅ぼすべき敵だが、しかし、中には人類に友好的な存在がいたとしてもおかしくはないと考えられるようになったきっかけが、ドミニオンだった。
龍宮のオトヒメやマルファス、あるいはオトロシャ軍のオベロンのような、人間に利用価値を見出し、故に協力を惜しまない幻魔程度ならば、いくらでもいるのではないか。
ドミニオンほど献身的かつ自己犠牲的に助けてくれるものなど、そうはいないだろうが。
ウリエルは、どうか。
ドミニオンと同じ天使型幻魔ではあるものの、その力は、圧倒的に上だ。鬼級に匹敵する魔素質量を秘めていることを戦団の女神たちが算出していた。
振り向けば、ウリエルが大槍を振り下ろし、エロスの分身を両断したところだった。そして、周囲の大地が激しく揺れ動いたかと思えば、無数の岩塊が突出し、エロスの分身たちを打ちのめしていく。鋭利に研ぎ澄まされた岩塊は、巨大な槍そのものといっても過言ではなく、分身の肉体を容易く貫いて見せる。
無数の分身が、ウリエルの攻撃によって瞬く間に撃破されていけば、エロスも憤激を露わにした。光り輝く髪を振り乱し、無数の光線でもってウリエルを包囲していく。
そんな中、幸多は、鎧套・武神弐式を着込むと、さらに千手を装備した。千手の腕で明臣を抱えると、部下三人も次々と抱え上げていく。
黒乃が機械の腕にしがみつきながら、つぶやく。
「ムスペルヘイムと同じだ」
「こうなった以上、こうするのが手っ取り早いからね」
「護るのに集中できるから楽でいいぜ」
「ぼくも、集中できる」
義一は、エロスの集団の遥か彼方へと視線を向けていた。
オロバスである。
この〈殻〉の主たる鬼級は、美由理、火倶夜という二人の星将と激闘を繰り広げている。星象現界がぶつかり合い、攻撃の度に地形が激変する様は、神話の光景を目の当たりにしているようだった。
もちろん、義一が注目するのは、美由理の戦いぶりではない。
オロバスの幻躰と結びついている魔素の流れであり、その終着点だ。
この〈殻〉の力の源にして、オロバスの命の場所。
義一の真眼だけが、その在処を認識する。
「急ごう、隊長。あっちだ」
幸多は、義一に指示されるまま、〈殻〉の中を駆け抜けていく。
「いくら天使型が戦団に協力しようが、おれだけは信用しねえからな」
吐き捨てるようにいいながら、明日良は、エロスに視線を戻した。吹き荒ぶ電熱の嵐が、エロスの分身という分身を破壊し尽くしている。
エロスの星象現界・愛染女王は、無限に近く分身を生み出した。その結果、明日良と蒼秀の敵ではなくなったのだ。
分身も百体程度ならば、それなりの力を発揮し得たのだろうが、あまりにも数を増やしすぎた。どんなものにも限界はあり、果てはある。鬼級幻魔といえども、魔力を無限に生み出せるわけではないのだ。分身を生み出すために力を分割する必要があるのであれば、無限に近く分身を増やし続ければ、むしろ弱体化するのは道理だった。
もちろん、その弱点を突くことができたのは、明日良と蒼秀だからこそだ。
明日良の星象現界・阿修羅と蒼秀の星象現界・八雷神、そして、愛の愛女神があればこそ、苦境を打破できた。
「奇遇だな。おれも同じ気持ちだ」
蒼秀もまた、空を覆う天使の群れからエロスへと視線を移した。
「へえ。珍しいこともあるもんだな」
「姿形などいくらでも偽れる。それが幻魔だ。天使を名乗り、天使のような姿をしていようとも、その本質までは変わりようがない」
「おう、その通りだ」
明日良は、蒼秀に同意しつつも、この状況が天使たちの介入によって生じた好機だという事実を認識してもいた。
エロスの星象現界が完全に無力化されたのは、天使たちの降臨によるところが大きかったのも否定しがたい現実なのだ。
突如、なんの前触れもなく、大量の天使型が舞い降りてきたことにより、エロスは、それらにも対応しなければならなくなったのだ。そしてついにエロスは、本体のみを残すところとなった。その表情は、溢れんばかりの怒りに満ちている。
「人間風情が、忌々しいっ……!」
「おうよ、おれたちゃ人間よ」
「その人間に敗れ去るのが、おまえだ」
明日良は、阿修羅の力を限界まで絞り出すようにして、六本の腕を掲げた。
「羅睺」
彼が再び六つの黒い竜巻を生み出し、周囲に解き放てば、それらは天地を攪拌するかのように旋回し、渦を巻いた。
「天雷」
蒼秀が発動したのは、八雷神のさらなる力にして、最大威力の攻型魔法である。両手と額に刻まれた魔法の同時発動によって紡ぎ出されるそれは、白銀の雷光となって天に昇った。
そして降り注いだかと思えば、六つの竜巻に絡みついたのだ。
白銀の雷光を帯びた竜巻が、周囲一帯を破壊し尽くすようにしてエロスへと殺到していく。
エロスの怒号が聞こえた。長い長い頭髪が無数の斬撃を虚空に走らせ、明日良と蒼秀の魔法に対抗する。星象現界同士の激突が、世界を震わせるようだった。
そのときだ。
エロスが、突如、血相を変えた。