第九百四十七話 反撃(一)
頭上に光が満ちたのは、いつだったのか。
そもそも、雲霞の如く押し寄せる幻魔の大群を相手に戦い始めて、どれほどの時間が経過したのかすら判然としていなかった。いや、もちろん、作戦司令室は理解している。
戦場にいる導士たちには、経過した時間を想像し、認識できるほどの精神的余裕などないということだ。
一時間、二時間どころではあるまい。
もっと長い時間、戦い続けていた。
この戦場に動員された総勢二千八百名の導士の内、いまもなお戦い続けているのは二千五百名余り。百五十六名が命を落とし、百四十名ほどが重傷故に後方に下がっている。
もっとも、重傷者は、傷が回復次第、戦線に復帰する手筈になっているし、そのために境界防壁本陣では医務局の導士たちが全力で治療に当たっていた。
多少の負傷ならば戦場で治療できるため、後方に送らなければならないほどの重傷となると、それこそ体の一部を欠損するほどのものである。それも、戦闘に大きく影響すると判断されるだけの負傷でなければ、医務局の治療を受けることはできない。
真のように右手薬指が吹き飛ばされた程度では、後方に下がることなどありえず、彼の部下、布津吉行のように左足の膝から下を失うほどの負傷をしてようやく後退するように指示が出た。
その吉行も、既に戦線に復帰しており、攻手として幻魔との死闘に身を投じているのだから、凄まじいとしか言い様があるまい。
彼だけではない。
だれもが、そうだ。
この戦場に投入された全ての導士が、命を懸けて、魂を燃やして、戦っている。戦い抜いている。全身全霊、力の限りを尽くさなければ、これだけの大軍勢を跳ね除けることなどできるわけがない。
いや、そこまでしたとしても、ふとした拍子に大怪我を負い、あるいは命を落としかねないのがこの戦場なのだ。
敵は、数百万もの幻魔の大群。
その大半が霊級とはいえ、圧倒的な物量の前では、多少の力量差など意味をなさない。
量より質の戦団に対し、質より量、さらに質というのが幻魔の軍勢なのだ。
獣級以下が量を担当し、妖級以上が質を担当する。
そして、それらが組み合わされば、戦団側に勝ち目があるのかと疑問が沸くだろう。
実際、真は、これほどまでに苛烈な戦闘に身を投じたのはこれが初めてであり、死を極めて身近なものとして感じていた。
どれだけ幻魔を撃破しても、次々と新手が沸いて出てくるのだ。
真一人で千体以上の霊級、百体以上の獣級を撃破したはずだが、それでも一向に減る気配がない。
それもそのはずだ。
そもそも、戦団約三千人に対し、オロバス軍は数百万もの大軍勢なのだ。百倍どころか、千倍以上もの物量差がある。
これらを覆すには、導士一人当たり千体以上の幻魔を斃さなければならない。その上で、妖級以上の幻魔も撃滅しなければならないのだから、不可能に近いのではないかと悲観的に考えるものが現れたとしてもおかしくはなかった。
それでも、真たちは戦い続けている。
第十軍団の一員として、大量の幻魔を相手に奮戦しているのだ。
二転三転する戦場のただ中に在って、絶望的な情報が飛び交っていても、真たちのような末端の導士は、戦い続ける以外に道はない。
特別指定幻魔四号が現れただの、エロスが現れただの、アーリマンが現れただの、そんな情報に振り回されていられるような状況ではないのだ。
最前線においては、目の前の敵を斃し尽くすことに集中するので手一杯だった。
そんな戦況が大きく変化したのは、真が左前腕を切り飛ばされ、激痛が意識を席巻する最中のことだった。血飛沫が視界を紅く濡らしたつぎの瞬間、頭上に光が満ちた。
「今度はなんだよ?」
吉行が唸りながら飛び退き、サキュバスの攻撃を躱す。
真の腕を切り飛ばしたのも、サキュバスだった。サキュバスは上位妖級幻魔だ。しかも二重殻印によってその能力を大きく底上げされている。その力は、獣級とは比較にならない。
油断はできないし、全力で戦っても負傷するのが当然の相手だった。
草薙小隊は、一体のサキュバスを相手に一丸となって立ち向かわなければならなかったし、そうして妖級幻魔を撃破してきたという実績もある。とはいえ、だからこそ、だれもが手傷を負い、重傷者も続出する羽目になっているのだが。
そんなときだった。
突如、暗澹たる魔界の空が、白く染まったかに思えた。眩いばかりの光が頭上を純白で塗り潰し、導士たちも、幻魔たちもがそれに気を取られ、空を仰ぎ見た。
サキュバスすらも、だ。
真の生み出した炎の太刀がサキュバスの魔晶核を貫いたのは、サキュバスが光に意識を向けた隙を突けたからにほかならない。
サキュバスが断末魔の叫びを上げようとしたのも束の間、光が、雨のように降り注いだ。
頭上から降り注ぐ光の雨、その一つ一つが幻魔だということを認識したとき、導士たちに動揺が走ったのはいうまでもない。それはさながら波紋のように広がり、津波の如く戦団の導士たちを飲み込んでいく。
『戦場上空全域に幻魔が大量に出現!』
『天使、大天使、権天使を中心とする天使型の軍勢です!』
『各員、備えてください!』
情報官からの通達は、悲鳴そのものといっても良かった。当然だろう。導士たちは、いま眼前のオロバス軍との戦闘で手一杯なのだ。
そんな状況下で第三勢力が乱入してきたとなれば、混乱するほかなったし、対応のしようもない。
情報官たちも備えろというしかなかったのだ。
「備えろたって、どうしろっていうのさ?」
「さてね?」
「隊長?」
「どうもこうも」
真は、羽張四郎が治癒魔法で左腕を接合してくれるのを待ちながら、前方を警戒しつつも空を仰いでいた。綺麗に切断された部位ならば、このように魔法でどうとでもなる。医務局の世話になるほどの損傷とは、余程のものだということだ。
ともかく、天使である。
頭上を埋め尽くす天使たちが、神々しいばかりの光を撒き散らしながら舞い降りてくる様は、神秘的であり、幻想的な光景といわざるを得なかった。
天使型幻魔が確認されるようになって、半年近くが経過している。
最初に目撃されたのは、英霊祭の最中だったか。それ意向、度々目撃されるようになり、主に空白地帯において野良幻魔や殻印持ちを攻撃しているところが確認されるようになっていた。その際、戦団の導士たちが遭遇しても攻撃してくることはなかった。
ドミニオンと呼ばれる天使型幻魔が、マモンを撃退するために幸多に協力したという話もあった。
天使型幻魔は、人類に友好的な幻魔なのではないか――などと、一部ではまことしやかに囁かれている。
そんなはずはない、そんなことがあっていいはずがない、と、戦団に所属する導士の大半は考えるのだが。
幻魔は、所詮、幻魔だ。
どのような姿形をしていようとも、本質に違いはない。そもそも、天使のように神々しく美しい姿をした幻魔など、数多といる。
龍宮のオトヒメなど、良い例だろう。
美しい女神のような姿をした幻魔であろうとも、一皮剥けば人類の天敵であり、破壊と殺戮の化身であることに変わりはない。
だれもが、そう思っていた。
しかし、天から降り注いだ天使の軍勢は、人間たちには目もくれず、オロバス軍を一方的に攻撃し始めたのだ。
天使の軍勢は、権天使を隊長とする部隊を組んでいるようであり、権天使一体に付き、大天使三体、天使九体という編成であった。
天使型幻魔は、天軍九隊とも呼ばれる九つの階級に分類されており、天使、大天使、権天使は下位三隊に区分される。いずれも一対の翼を持ち、純白の衣を纏い、光の輪を頭上に掲げているところは変わらないが、階級が上がるごとに重武装になっていっているのがわかる。権天使と天使を見比べれば一目瞭然だ。
そんな権天使の号令によって大天使たちが天使たちを展開し、天使たちがまず光の矢を放つ。降り注ぐ無数の光の矢が、オロバス軍の幻魔だけを攻撃していくものだから、幻魔たちの怨嗟に満ちた咆哮が天地の狭間に氾濫するかのようだった。そしてそれは真言であり、魔法が炸裂した。
「どうやら……おれたちは攻撃対象ではなさそうですが」
真は、天使たちの斉射によってオロバス軍の陣形そのものが大きく乱れる様を見遣りながら、いった。頭の中では、天使型が人類に友好的かどうかという論争が巻き起こりかけたが、そんなものに割いている時間はない。
「信用はできませんけどねえ」
「不安だが、まあ、守りを固めるという点に変わりはないか」
「そうだね。いまするべきは、目の前の敵の対処であることに変更はないさ」
草薙小隊一同、うなずき合うと、眼前の敵に意識を集中させた。
そのような光景が、戦場のそこかしこで起きていた。
あらゆる大隊、あらゆる小隊が、天使の軍勢の介入によって、多生の混乱を来しながらも、オロバス軍の勢いが大きく減衰する様を目の当たりにしたのだ。
天使たちは、オロバス軍の幻魔だけを攻撃した。
一方、オロバス軍の幻魔たちは、戦団の導士だけでなく、天使の軍勢にも対応しなければならなくなった。
数的優位が崩壊し、戦線は、激変を始める。
戦団が、反撃を始めたのだ。