第九百四十四話 渦巻く(八)
アーリマンは、左手に握った矛を軽く振るって見せた。ただそれだけで周囲の地形は激変し、地獄の様相を呈していく。
星象現界・天之瓊矛は、見ての通り大地を支配する権能を持つ。矛に支配された大地は、使い手の意のままに形を変え、敵を攻撃する刃となり、あるいは身を守る盾となった。
岩壁が迫り上がって人間たちの魔法の数々を防ぎきれば、つぎの瞬間には、破壊的な攻撃が乱舞するように繰り出されるのだ。
地面に巨大な亀裂が生じ、地上の人間を飲み込もうとするが、それが失敗に終われば、多量の土砂が噴出し、渦を巻いた。ただの土砂ではない。星神力を多量に含んだ砂嵐は、尋常ならざる破壊力を見せつける。
大地の力そのものが荒れ狂い、人間たちを攻め立て、アーリマンとの距離を引き離していく。
その間、アーリマンは、統魔だけを見ていた。
皆代統魔の首に食い込んだ指先から血が流れ落ち、黒く変色した皮膚を伝って星装を濡らしていく。光り輝く星装。アーリマンの闇とは正反対の性質の、光そのものたるそれは眩く、神々《こうごう》しい。
だが、そんなことよりも重要なのは、統魔の星象現界がいまもなお保ち続けているという事実だろう。
星象現界は、いうなれば究極の魔法だ。
魔法の一種であって、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、究極というだけあって、他の魔法とは一線を画すほどの力を持っている。次元が違うといっても過言ではない。
とはいえ、魔法である以上、使い手が意識を失えば、その力を失うはずだ。
星装も、星霊も、星域も、ありとあらゆる星象現界は、使い手の意識によって維持されるものだ。無意識的に、意識のない状態で維持できるはずがない。
では、なぜ、統魔の星装は消えないのか。
ではなぜ、統魔の星霊たちは、いまもなお、アーリマンに攻めかかってくるのか。
アーリマンは、考える。
皆代統魔が特別だから、というのは、ありきたりな結論だ。
ありふれた、あたりまえの解に過ぎない。
なぜ、彼は特別なのか。
いや、それも知っている。
知りすぎるくらいに知っていて、だから、こうしてここにいるのだ。
不意に、アーリマンの背後に気配が湧いた。振り向かず、矛で受け止めた瞬間、剣閃が視界を過る。灼熱の閃光。
味泥朝彦の星象現界・秘剣陽炎、その太刀筋は複雑かつ不安定だ。そして、その斬撃が切り裂くのは、天之瓊矛ではなく、自分自身。
朝彦の姿が陽炎の如く消えて失せると、アーリマンの頭上から無数の雷光が降り注いだ。アーリマンは、矛を翳し、岩の盾を頭上に形成したが、雷の雨は魔法盾を通過し、アーリマンの肉体に直撃した。強烈な電熱が魔晶体を灼く。
佐比江結月の星象現界・雷神弓だろう。
「ふむ」
さすがに星象現界だけあって、鬼級にも通用する威力があった。だが、つぎの瞬間には、アーリマンの魔晶体は完全に復元しているため、意味を為さない。時間稼ぎにもならないし、気を逸らすこともできないのだ。
なんといっても、アーリマンは、人間たちを敵として認識していなかった。
ただ、統魔だけに意識を割いている。
アーリマンの指先から広がる黒い波紋は、やがて統魔の首から頭と胴体へと広がっていき、皮膚そのものを黒く染めていく。
「なんやねん、あいつ!」
「あれでも全く効かないなんて……!」
「効いてないはずがないだろ。ただ、回復するのが早すぎるだけさ」
「それ、効いてないっていってるようなものじゃ?」
「まあ、そうだね」
瑠衣は、アーリマンへの攻撃が全く意味を為さないことを認め、歯噛みした。瑠衣だけではない。この場にいる杖長の全員が、口惜しくて仕方がなかった。
鬼級幻魔と対等以上に戦うには、星将級の力が必要なのはわかりきったことだ。それも星将が一人ではまともに戦えず、三人以上でどうにか戦えるというのが定説なのだ。
杖長六人では、星将三人には敵わない。
わかりきったことだ。
そこに統魔という規格外の星象現界の使い手が加わり、どうにかバルバトスに対抗できたのも束の間、アーリマンが現れ、統魔が無力化されてしまったのが現状である。
統魔の星霊たちはまだ存在し、戦闘に参加してくれてはいるものの、圧倒的な戦力差を感じざるを得ない。
アーリマンは、どういうわけが日流子の星象現界・天之瓊矛を使っているのだ。正真正銘本物の天之瓊矛などであるはずもないが、それでも、相応の力を発揮しているのは疑いようがなかったし、星象現界発動中の鬼級幻魔の力が凶悪無比なのはいわずもがなだ。
どうにか隙を作って攻撃を叩き込んでも、瞬く間に回復されてしまう。
どうにかしてアーリマンの手から統魔を奪還したいのだが、現状、打つ手がない。
黒天大殺界も、暗夜の死徒も、燃えろわたしの反骨魂も、氷形剣も、雷神弓も、そして秘剣陽炎も、決定打になりえない。
それら全ての力を結集してもなお、アーリマンは遥か上を行く。
認めるしかない。
それが動きようのない現実であり、厳然たる事実なのだ。
圧倒的に、力が足りない。
すると、アーリマンが矛を振るい、大地が揺れ動いた。二重三重に大地の城塞が構築され、朝彦たちの接近すら許さないといわんばかりに立ちはだかった。
それが、朝彦たちには疑問となった。
「なんや……なにがしたいんや、あいつ」
「幻魔らしくはないね」
人類の天敵たる幻魔ならば、すぐにでも統魔を殺し、朝彦たちをも殺しに来るはずだ。
統魔の首を絞め、意識を失わせただけでそれ以上に傷つけているようには見えないのは、異様だった。
なにかしようとしているのは間違いなさそうだが、それがなんなのか、まるでわからないし、幻魔の習性からは考えられなかった。
幻魔は、人間と見れば襲いかかり、殺しにかかるものだ。
人間が死ねば莫大な魔力を生み出すことを知っているからであり、その魔力を取り込むことによって腹を満たせるからだ。
だが、しかし、アーリマンには、その様子は一切見られなかった。
それが、おかしい。
そのように朝彦たちが考え込んでいた矢先だ。
天に、光が満ちた。
「なんや!?」
「今度はなに!?」
「光!?」
一瞬にして頭上を埋め尽くした光が収斂し、極大の光芒となって降り注ぐと、朝彦たちの前方に聳え立つ大地の城塞を根底から吹き飛ばしていった。爆砕の嵐が巻き起こり、朝彦たちは自分の身を護る必要に迫られたが、それも不要になった。
統魔の星霊たちが杖長たちを護るべく、魔法壁を構築してくれたからだ。
アーリマンの城塞は、瞬く間に崩壊し、跡形もなく消滅した。
そして、光の柱もまた消え失せたものの、光そのものは地上に残り続けた。より強烈で鮮明な光は、神々しくも目に痛いばかりだった。網膜を灼き、脳髄をも焦がすほどの閃光。
思わず目を背けたくなったが、そういうわけにはいかない。
新事態だ。
『魔素質量を確認! 二体の鬼級幻魔です!』
「鬼級が……!?」
「二体やて!?」
朝彦たちが驚愕するのも当然だったし、情報官の報告が悲鳴そのものだったのも当たり前だっただろう。
既に戦場には都合四体の鬼級が出現していたのだ。そこにさらに二体の鬼級が現れたとなれば、事態は悪化の一途を辿っているといっても過言ではない。
「あれは……」
「天使かい?」
脳内を混乱が席巻する中、瑠衣は、それを目の当たりにしていた。前方に降臨した光源の中心。鬼級幻魔相当と測定された魔素質量の塊。
大地の城塞を破壊するために拡散していた光が次第に収束していくに応じて、その姿がはっきりとしていく。
人によく似た姿形をした、人ならざる怪物が光り輝き、そこに立っていた。全身を黄金色の装束で覆い、背からは六枚の翼を生やしていた。さらに大いなる光の輪を背に負う様は、まるで伝承上の天使そのものといっても過言ではあるまい。
それも極めて高位の天使だ。
黄金の頭髪が、太陽のように輝いて見えるのは、気のせいではないだろう。
それは、闇そのものたるアーリマンと対極を成しているかのようだった。
完全無欠の光と絶対不変の闇が、対峙している。
「ルシフェル自ら動くとは、どういう了見か」
「それはこちらの質問だよ。これはサタンの差し金かな? アーリマン」
ルシフェルと呼ばれた天使型は、莫大な星神力の光でもって、アーリマンと対峙した。