第九百三十六話 氷の女帝と炎の魔女
月黄泉による三度目の時間静止を体感したのは、発動者たる美由理を除けば、幸多以外にはいないだろう。
戦団とオロバス軍が激突し、飛び交う数多の魔法が極彩色に染め上げる戦場の真っ只中、人も幻魔も風も音も、なにもかもが凍りついたかのように動きを止めたのだ。
時の流れをも氷漬けにする究極の氷属性魔法。
それこそが月黄泉なのだ。
だが、この静止した時間、幸多にできることはなにもない。なにをしても意味がないのだから、どうしようもなかった。
仮に、時間静止中、幻魔を攻撃することが可能ならば、損傷させることができるのであれば、多数の幻魔を撃破することも不可能ではないのだろうが。
しかし、現実にはそんなことはできなかった。
月黄泉によって時間を止められたものを傷つけることはできない。人や物を動かす程度のことはできるのだが、それ以上の干渉は許されなかった。
だからというわけではないが、幸多は、止まった時の中でただ師の身を案じた。
美由理の星象現界・月黄泉は、時間を静止する規格外の魔法だ。想像を絶する魔法技量が必要に違いないと、星象現界の使い手たちが口を揃えていうほどだ。そして、それだけの星象現界だからこそ、この上なく頼りになり、戦術や戦略の要にさえなるのだともいう。
龍宮戦役での戦いでも、起点となったのは、月黄泉だった。
今回も、そうなのだろう。
鬼級幻魔を撃滅するための戦術の要。
(師匠……)
幸多は、なにもかもが動かなくなった世界で有象無象の幻魔の群れと、黒天大殺界の巨大な暗黒球を見た。それから数多の同胞たちを見回し、そして遥か彼方を見遣る。
主戦場から遠く離れたオロバス領の奥深くで、美由理たちが戦っている。
幸多は、目の前の幻魔を相手にすることしかできない。それが役割というものであり、それぞれに与えられた役割をこなすことこそが、導士に求められるものなのだ。
(本当に?)
幸多は、考える。考えて考えて考え抜いて、視線を前方に戻した。クニツイクサが張り巡らせた弾幕が、幻魔の群れを撃退する光景が、眼前に展開されている。
この程度の幻魔の相手ならば、自分たちがするまでもないのではないか。
そして、再び時間が動き出したときには、幸多の考えは纏まっていた。
「義一!」
彼は叫び、目の前のバイコーンの首を刎ねた。
「千陸百弐式・無明月影」
時間静止の解除の瞬間、美由理は、真言を発した。高度に組み合わさった律像が星神力とともに拡散し、魔法を発動させる。
龍宮戦役における鬼級との死闘は、美由理にとっても、他の星将たちにとっても、極めて重大な出来事だった。
ムスペルヘイムの殻主スルトは、二体の鬼級幻魔を従えていた。アグニとホオリという名の鬼級である。スルトを含め、三体もの鬼級と激闘を繰り広げることとなった美由理たちは、己の力量不足を実感しなければならなかった。
鬼級一体ならばまだしも、二体、三体の鬼級を同時に相手にする可能性が生じたのだ。
それまでもそのような状況を想定しなかったわけではなかったにせよ、最悪の事態にして、避けるべき状況だということに変わりはない。
龍宮戦役だって、避けられるのであれば避けたかったのだ。
だが、戦わなければならなかった。
たったあれだけの戦力で、どうにかスルト軍を追い払わなければならなかったのだ。
そのために三名の星将が動員されたわけだが、美由理たちは、その戦いの果てに自分たちの魔法技量を見つめ直すという結論に至った。
そして、より鍛錬と研鑽に力を入れるようになったのだ。
軍団長としての職務を全うしながらも、だ。
そうでもしなければ、戦団が打ち立てた恐府制圧計画を果たすことなど、不可能に等しい。
ムスペルヘイムの破壊は、天運が味方した結果としか言い様がなかったし、毎度毎度あんな方法で攻略できるはずもない。
奇跡的に勝利を掴み取ることができただけに過ぎない。
故にこそ、星将たちは、星象現界のさらなる可能性を追求した。
無明月影も、そうした研究の成果だ。
美由理は、これまでも月黄泉の静止時間を利用することで、戦闘を有利かつ一方的なものにしてきた。時が止まっている間、他者を攻撃することはできないが、律像を構築することはできるからだ。
時間静止中に多種多様な魔法の発動準備を整え、時間静止の解除と同時に魔法を発動する。
そうすれば、相手はなにが起こったのかわからないまま、魔法の直撃を受けざるを得ない。
律像という、魔法士の周囲に半ば自動的に出現する複雑怪奇な紋様は、本来隠し得ないものだ。どれほど優れた魔法士であっても、たとえ鬼級幻魔であっても、律像を隠したり、欺瞞することは難しい。
そして、律像の形から魔法の傾向を把握し、対応することは、高度な魔法戦では当たり前のことだった。
幻魔は、生粋の魔法巧者といっていい。魔法生物、純魔法生命体などとも呼ばれるように、生まれながらにして魔法を使いこなす怪物なのだ。
その中でも鬼級に区分される幻魔ともなれば、律像から魔法を分析し、把握、対応してきたとしてもおかしくはなかったし、これまで何度となくそのような光景を目の当たりにしていた。
ならばこその月黄泉である。
月黄泉の静止時間を認識できるのは、現状、美由理と幸多の二人だけだ。
つまりこの静止時間は、他者からすれば存在しないも同然なのだ。
どのような律像が組み上げられたのかなど、把握できるはずもない
静止時間を最大限利用して編み上げた律像は、超高密度で複雑怪奇な幾何学模様だったが、それを見たものは美由理以外にはいなかった。時間静止の解除と同時に魔法が発動したからだ。
そして、天を衝くほどに巨大な氷の牢獄がオロバスとハヤグリーヴァ、そして周囲一帯に迫っていた大量の幻魔を一瞬にして凍てつかせた。オロバスが抗おうとする暇もなかったはずだ。魔素をも凍てつかせ、その熱を奪い続けていく氷結地獄は、鬼級幻魔にも通用する。
直後、真紅の火の粉が美由理の視界を掠めた。
火具夜だ。
そして、オロバスが対応しようとしたのは、まさに火具夜に対してであることは、星霊の動きからも明らかだった。それはすなわち、火具夜の律像から魔法の構造を把握したということだろう。
だが、体の芯まで氷漬けにされてしまえば、律像を見抜き、反応しようとも意味はない。
火倶夜が、星象現界・紅蓮単衣鳳凰飾の全火力を発揮すれば、太陽の如く輝いていた。そのまま太陽が形を変えるかのようにして一対の巨大な翼を広げていけば、様々な神話における太陽の化身を連想させた。
火倶夜は火の鳥のようであり、炎の化身そのものでもあった。そして、燃え盛る炎の翼を羽撃かせれば、火の尾を曳きながら、遥か上天から地上へと急降下していく。
火の鳥が、大気中の魔素を燃焼させ、灼き尽くしながら、無明月影へと突っ込んでいけば、直撃と同時に超絶的な星神力の爆発が起きた。爆砕に次ぐ爆砕の連鎖は、オロバスの〈殻〉を根底から破壊し尽くしてしまうのではないかというほどのものであり、美由理も、自身を護るための魔法壁を展開する必要に迫られた。
超絶的な爆発の圧力が、衝撃波が、天地を震撼させ、〈殻〉全土を撹拌させていくかのようだった。無数の断末魔が爆音の中に掻き消え、吹き荒ぶ業火がなにもかもを飲み込んでいく。
オロバスの怒号が聞こえた気がした。
しかし、そんなものはどうでもよくなった。爆砕の連鎖は、終わらない。
大地を氷漬けにした無明月影、その残滓を一片残らず灼き尽くすまで、爆砕は続く。
〈殻〉の中心部から広範囲に渡って飲み込んでいく超爆発は、蒼秀と明日良の戦場にまで影響が出るのは明白だったが、そんなことを気にしている場合ではない。
美由理たちが滅ぼすべきはオロバスであり、そのために全力を尽くしたまでだ。
なにより。
(愛がいる)
故に、美由理も火倶夜も全身全霊の力を込めて戦えるのだ。
愛の治癒魔法があればこそ、星象現界があればこそ、星将たちは死力を尽くすことができる。
紅蓮の猛火が大輪の花を開かせるようにして、地上を、天空を埋め尽くす。爆煙が視界を塗り潰すまで時間はかからなかったし、膨大極まりない星神力が、なにもかもを席巻していくのもあっという間だった。
大量の幻魔が死んだだろう。
オロバスにも大打撃を与えられたに違いない。致命傷にすらなったはずだ。
美由理は、爆砕が止むのを待って、地上に降り立った。爆煙がなにもかもを隠してしまっているが、火倶夜の星神力は感じられる。火倶夜は生きている。無事だ。それだけで胸を撫で下ろすが、安心するのはまだ早い。
(オロバスは……)
むせ返るような熱気と黒煙の中、美由理は、確かに見た。
それは地面に倒れ伏したオロバスの姿であり、上半身の大半が消し飛び、故に魔晶核が露わになっているという有り様だった。火倶夜の右足が力強く踏み潰す瞬間も見逃さなかった。
魔晶核は、幻魔の心臓だ。そして、魔晶核は、どれほど強大無比な力を持った幻魔であろうとも、決して堅牢強固たりえず、脆弱である。
故に、火倶夜が踏みつけるだけで砕け散り、オロバスが絶命したのだ。
「もちろん、幻躰だけどね」
火倶夜がうんざりするように美由理を振り返ったのは、結局、幻躰などいくら斃したところで大きな意味がないことくらいわかりきっているからだ。
だが、美由理には確かな手応えがあった。
美由理が編み出した魔法・無明月影と、火倶夜が新たに生み出した魔法・緋凰絶翔は、二人の星象現界の新たな可能性として、確かに結果を出したのだ。
「しかし、通用した」
「そうね。わたしたちの猛特訓は無駄じゃなかった――」
「いいや、無駄だ……!」
オロバスの怒気に満ちた声がどこからともなく聞こえてきたかと思えば、その大きな手が火倶夜の首を握り締めていた。
「なにもかも無駄だ、無駄なのだ! 貴様ら人間がどれだけ強くなろうとも、我らには敵わぬ! 敵うわけがなかろう!」
馬面の悪鬼は、傷ひとつない肉体を見せつけるかのようにして、この熱気に満ちた戦場に君臨していた。充溢した魔力が急速に星神力へと昇華していく様には、だれであれ圧倒されかねない。
それがオロバスの新たな幻躰だということは、瞬時に理解できた。
美由理は、透かさず月黄泉を発動しようとしたが、火倶夜に目で制され、止めた。火倶夜の火の尾がオロバスの右腕に絡みつき、燃え上がるも、幻魔は表情ひとつ変えない。
「我らは幻魔! 万物の霊長にして、全生命の頂点に君臨するもの。進化の最終到達点! 人間などに我らを越えられるはずもない!」
オロバスの咆哮とともに星象現界が発動し、星霊ハヤグリーヴァが具現する様を見届けたのは、そうする以外になかったからだ。
とはいえ、オロバスの力が全く衰えていないわけではないのは明らからだ。本来のオロバスの全力ならば、火具夜の首を掴んだ時点で勝負は決まっているはずだ。
だが、火具夜は、生きている。
しかも火倶夜は星神力を極限まで引き上げ、オロバスの右手首を吹き飛ばすほどの爆発を巻き起こして見せた。火倶夜自身も損傷を負うほどの爆発である。吹き飛ばされ、空中に投げ出された彼女の体は美由理によって受け止められた。爆発による傷痕は、そのときにはなくなっている。愛女神による回復力は、人間を超人に変える。
もっとも、回復力に関しては、幻魔も酷いものだが。
オロバスの右手首など、瞬時に復元していた。
いや、そもそも、オロバスの幻躰そのものがあっという間に復活しているのだ。
殻主を討滅するには、方法は一つしかない。
「ああ、そうだな」
「え?」
美由理は、火具夜が怪訝な顔をしてくるのにも構わず、通信機越しに聞こえてきた幸多の声に小さく微笑んだ。そして、オロバスを睨み据える。
「絶望など、している暇はない」