第九百三十五話 エロス繚乱
「この程度では、余を斃すどころか、サタンへの復讐という汝の宿願を果たすことなど、到底できようはずもない」
アーリマンは、その手に掴んだ人間の首の細さ、脆さを実感として認識していた。少しでも力を込めれば、それだけで粉々に砕け散ったしまうのではないかと思うほどにか弱く、儚い。
それが人間だ。
人間という生き物の限界なのだ。
魔法という技術を限界に近く鍛え上げ、研鑽と修練の末に磨き抜いた果て、星象現界を会得したとはいえ、所詮は人間の限界を超えることはできないのだ。
幻魔がその等級によって力の限界があるように、人間には決して超えられない力の限界があるのだ。
皆代統魔は、光り輝く衣を纏っている。
万神殿と名付けられた三種複合型星象現界、その星装をだ。首も、星装の装飾によって護られているのだが、しかし、アーリマンもまた、星象現界を発動している以上、そんなものでは彼の力を食い止めることは叶わないのだ。
アーリマンの力は、統魔を遥かに陵駕している。
それれこそ当然であり、必定であり、道理だ。
統魔は人間であり、アーリマンは鬼級幻魔だ。
〈七悪〉の一柱にして、〈傲慢〉を司る悪魔である。
その力がたかが人間一人に劣るはずがない。
ましてや、星象現界を発動し、全身に星神力が満ちているいま、統魔がアーリマンに対抗する方法などあろうはずもなかった。
しかし、統魔は、抗う。もがき、足掻くのだ。
それもまた、当然だろう。
全身から星神力の光を噴出させ、律像を無数に構築し、魔法を散乱させながら、彼は叫んだ。
「サタン……だと……!」
狂おしいほどの憎悪が、輝かしいばかりの憤怒が、統魔の瞳の奥に輝いていた。それこそ、〈星〉のように。
アーリマンがその煌めきを見据えていると、巨大な光芒が彼の全身を飲み込んだ。が、彼の魔晶体をわずかに傷つけた程度に過ぎない。光が消え去れば、それらの傷は瞬く間に再生し、ひとつ残らず消え失せる。
人間でいえば、虫に刺されたほどの出来事でしかなかった。
「サタン。余の大いなる主にして、〈七悪〉の一柱であり、悪魔の中の悪魔。悪魔たちの王にして、魔を統べるもの。万魔の統治者。破壊の権化であり、混沌の具現。殺戮者、滅亡を呼ぶもの、全ての敵対者。汝が怨敵」
アーリマンの声は、耳朶を貫き、鼓膜を突き破るかのように統魔の脳内に響く。重々しく、脳髄に焼き付いていくようであり、魂の深奥にまで到達するのではないかという感覚があった。
「おおおおおおおおおおっ!!」
統魔は叫ぶ。真言を。魔法を。
光が満ちた。
光は、洪水となって統魔の周囲を掻き乱し、破壊の連鎖を巻き起こす。なにもかもを徹底的に破壊し尽くすためだけの魔法の嵐。理不尽極まりない暴圧の奔流であり、ただ、星神力が暴走しているだけといっても過言ではなかった。
だが、アーリマンには通用しない。
星象現界の発動中であり、星神力によって飛躍的に向上した威力の魔法で以てしても、アーリマンを傷つけることしかできなかったのだ。
アーリマン自身もまた星象現界が発動しているということも大きいが、地力が違うということのほうが大きい。
「汝、皆代統魔よ。運命の子よ。余は、汝を知り、汝の力を以て大願を果たそうと考えたが、どうやら見当違いやもしれぬ。汝は、未だ、余に敵うべくもないほどにか弱く、脆い。余の悲願を。余の宿願を果たすには――」
「てめえの願いなら、てめえ自身で叶えろよ」
統魔は、アーリマンのどこか哀れむような眼差しを睨み付け、吼えた。
〈星〉が、瞬く。
羅睺と山雷が巻き起こす巨大な破壊の嵐のただ中で、蒼秀は、エロスの魔晶体に重大な損傷を与えられたことを認めていた。
エロスの艶美なる姿態をずたずたに引き裂くことに成功したのである。
だが、そんなものではこの戦いは終わらない。
その事実もまた、認める。認めざるを得ない。
〈殻〉を主宰する鬼級幻魔が外征において繰り出すのは、幻躰と呼ばれる仮初めの肉体だ。幻躰にも魔晶核が存在するが、その魔晶核は、殻石から複製された代物であり、それを破壊したところで崩壊するのは幻躰に過ぎない。
殻主たる鬼級幻魔を滅ぼすには、〈殻〉に安置された殻石を破壊する以外にはないのだ。
よって、現状エロスを撃滅することは不可能と見なければならない。
エロスの〈殻〉は、このオロバス領より北西に位置している。
エロスをこの場に引き留めつつ、エロスの〈殻〉に侵入し、殻石を探し出して破壊することなどできるわけがなかった。
龍宮事変とはわけが違うのだ。
では、この戦いが無意味かといえば、そういうわけではない。
幻躰は、殻石の力によって生み出される代物だ。幻躰を破壊すれば、それだけ殻石の力を削ることができる。幻躰はすぐさま出現するだろうが、その力は、大きく減少しているはずなのだ。
だから、幻躰を斃すことに意味はあったし、蒼秀も明日良も、全身全霊の力を込めて、エロスに立ち向かうのだ。
エロスが身を捩り、大きく飛び退くのを蒼秀は見逃さない。地を蹴り、間合いを詰め、もう一度山雷を叩き込もうとするが、視界を無数の光線が妨げた。エロスの髪の毛だろう。
蒼秀は、構わず山雷を放った。
重ねた両手の先に生じた極彩色の雷光が、視界を埋め尽くす光刃の数々を焼き切り、吹き飛ばす。
その頃には、エロスの幻躰は復元しきっており、美貌には傷ひとつなくなっていた。ただし、頭髪は、短くなってしまっている。
山雷に灼かれたからだ。
そして、エロスは、短くなった頭髪の毛先を撫でるようにした。吹き荒ぶ羅睺の渦の中、笑うのだ。
「髪は女の命……とは、どこの誰の言葉だったのかしらね?」
そんなエロスを警戒するのは、蒼秀も明日良も同じだ。律像を構築しながら視線を交わし、互いに庇い合うように位置取りをする。明日良が吐き捨てるようにいった。
「人間の、どこかのだれかの過去の言葉だろ」
「そうね。結局、人間を劣等種と見下す幻魔も、人間の歴史の上に乗っかっているだけなのよね。本当、馬鹿げているわ。なにをしていても、人間の影がちらつくのよ」
エロスは、髪を撫でる手を止めた。眼差しには、その名に相応しい淫靡さすらあった。事実、とてつもない魔力が込められているのだが、蒼秀と明日良が魅了されることはない。
元より精神制御訓練を受けているが、それ以上に愛の星象現界・愛女神が、二人の精神を保護してくれていることが大きい。
同様に、サキュバスの魅了魔法も、愛女神の結界の中では全くの意味をなさない。
「でも、本当に髪に命が宿っていたら、どうかしら」
「なに?」
それはどういう意味なのか、などと、問う必要はなかった。
山雷に灼かれ、あるいは羅睺に切り刻まれ、舞い散っていたエロスの毛髪が、突如その存在を示すようにして光を放ったからだ。四方八方、あらゆる場所に生じた光は星神力そのものであり、瞬時に膨れ上がり、二人の視界を塗り潰した。
その直後、蒼秀と明日良は、全身、凄まじい激痛に襲われ、意識が吹き飛びそうになった。しかし、瞬く間に痛みが消え去り、視界が安定すれば、状況を理解する。
愛女神のおかげだと感謝している暇もない。
二人の周囲に無数の光線が走っていた。縦横無尽、ありとあらゆる角度、方向から伸びてきたそれらが無数に重なり、絡み合い、一種の結界を構築していた。
二人がまず理解するべきは、それらが自分たちの全身をでたらめに切り刻んだという事実よりも、光線の出所のほうだった。
そう、それら光り輝く髪の毛の数々は、何十体、いや、何百体ものエロスから伸びていたのだ。
「んだよ、こりゃあ……」
「これが奴の星象現界の能力というわけか」
「そうよ。いったでしょう、髪は女の命。これがわたしの星象現界・愛然女王の能力」
エロスは、己の毛髪から生み出した数百体もの分身とともに光り輝く髪の毛を振り乱した。
『平伏しなさい、人間ども。生かしてあげるなんて生温いことはいわないけれど、全身全霊の力で、殺してあげる』
無数のエロスが唱和するように告げてくると、数え切れない大量の光線によって構築された結界が荒れ狂った。
二人は、咆哮した。
「舐められたものだ」
オロバスは、ハヤグリーヴァを己が背後に移動させると、前方を見据えた。
星将が二人、オロバスを斃すための戦力として、寄越されている。二人。たった二人だ。戦団は、鬼級幻魔には、星将を三名当てると決めているという話だったが、いま、彼の目の前にいるのは二人に過ぎない。
さすがに星将というだけあって、並外れた魔素質量の持ち主ではある。
だが、足りない。
少なくとも、オロバスを斃すには至らない。
そんなことは、美由理と火倶夜にもわかりきったことだ。ただでさえ、たった二人で鬼級を相手にするには荷が勝ちすぎているといのに、星象現界を発動しているのである。
力の差は、歴然としている。
だが、それでも、勝たなければならない。
斃さなければならない。
故に、美由理は、告げる。
「火倶夜」
「いわずともわかっているわよ」
火倶夜は、美由理を一瞥するまでもなく、全星神力を燃やした。
律像が、星々の如く瞬き、小さな宇宙を形成する。
そして、時が止まる。