第九百三十三話 縁
「黒天大殺界内にて、新たな固有波形の出現を確認しました! これは……鬼級幻魔!? ア、アーリマンですっ!?」
情報官の報告は、悲鳴を通り越して絶叫に等しかった。戦団本部作戦司令室内に無数の幻板が乱舞し、戦団本部内外に不快極まりない警報音が鳴り響く。
鬼級幻魔の出現に伴う警報は、これで三度目だ。
西方境界防壁を巡る攻防は、当初こそ一進一退といってもいいものだったが、すぐさま状況は変転した。つまり、オロバス軍の優勢となったのだ。だが、それだけで終わる戦団ではなかった。マンティコアと不死者の軍勢が皆代小隊によって殲滅されば、戦況は一変した。
そして、鬼級幻魔バルバトスの加勢、エロスの出現と立て続けに起きた変化にさらなる衝撃を加えたのが、この事態である。
二度に渡る鬼級幻魔の増援を経て、これ以上衝撃的な出来事など起きるわけがないだろうと、だれもが考えていた矢先だった。
自動戦場撮影機は、山王瑛介の星象現界・黒天大殺界が構築した魔法の結界、その内側の様子も撮影し、作戦司令室内に中継している。
作戦指令室内に展開する無数の幻板、そのいくつかが、いままさに暗黒の結界内に起きている最悪の事態を捉えているのだ。
「なんだとっ!?」
作戦部長・稲岡正影が驚きのあまり声を荒げ、椅子から腰を浮かせれば、戦闘部長・朱雀院火留多も目を見開いていた。
漆黒の闇そのものたる鬼級幻魔が、杖長たちの前に君臨するかのようにしてその姿を曝け出していた。
それは、〈書庫〉に記録されたアーリマンそのものの姿であり、観測された固有波形から、バルバトスが擬態した姿などではないことは明白だった。
これまで全く姿を現さず、干渉してこなかった〈七悪〉の一体が、いま、この混沌たる戦場に出現したのだ。
その衝撃たるや、作戦司令室の情報官たちに動揺を与えかねないほどのものだったし、作戦司令室から情報を受け取る戦団本部内の各部署、さらには護法院の老人たちにとっても予期せぬ事態としか言いようがなかった。
「いや、予測して然るべき事態だった」
神木神威は、ヤタガラスが中継する戦場の有り様を睨み据えながら、拳を握り締めた。戦団本部・総長執務室には、彼と副総長・伊佐那麒麟、そして総長特務親衛隊の導士三名の合計五人がいる。
その五人が、作戦司令室からの報告を受け取ったのだ。そして、戦場の中継映像を確認して、衝撃を受けていた。
「バルバトスが関与し、この戦いは起きた。おそらくはそうなのだろう」
「はい、おそらくは、ですが」
「無論、オロバスもエロスも、央都方面への再侵攻を画策してはいたはずだ。だが、光都事変からこの五年間、そのような気配は一切なかった」
神威の断言には、この五年間に渡って戦団が監視の目を強め、オロバス領を睨み続けてきたという自負があった。
光都事変を受け、央都防衛構想を見直した戦団は、人類生存圏の外周を囲うようにして十二の衛星拠点を構築、それぞれに戦力を手配するようになった。それぞれの衛星拠点は、近隣の〈殻〉の動向を監視する役割を持ち、二十四時間、常にその眼を光らせてきたのだ。
〈殻〉の動きに変化があれば、瞬時に察知できるほどの監視網。
オロバス軍の動きなど、手に取るようにわかった。
つまり、オロバスがこの五年間、央都方面への侵攻など全く画策していなかったことも、だ。
それがにわかに方針転換し、突如として軍備を整え始めたのがこの二ヶ月以内の出来事だ。
そして、そうした動きに対応するようにして境界防壁を建造したのが戦団であり、戦力を動かしたのも戦団である。
戦団の想定通り、オロバス軍が動いた。
その突如というべき動きの背後にバルバトスがいたということが判明したのは、この戦いの最中だった。バルバトスがアーリマンの僕だということが確定したのも、だ。
つまり、この戦いは、オロバス、エロスの意志というよりは、アーリマンの意図したものであると考えるべきだった。
アーリマンが、なんらかの目的のためにこの戦いを引き起こさせた。
オロバスもエロスも、そのための駒に過ぎなかったのではないか。
「だとすれば、アーリマンがその目的を果たすべく姿を現したと捉えるべきなのだろうが」
「その目的とは、なんなのでしょう?」
「それは……」
神威は、幻板を凝視し、考え込んだ。
そんなもの、神威にわかろうはずもなければ、想像しようもない。
〈七悪〉の目的は、〈七悪〉に相応しい七体目の悪魔の誕生であり、〈七悪〉が勢揃いした暁にこそ、人類を滅ぼすことである――という。
であれば、いまも〈七悪〉に相応しい悪魔を誕生させるために動いていると見るべきか。
魔像事件によって誕生した鬼級幻魔バルバトスは、どうやら〈七悪〉には相応しくなかったようだ。故にアーリマンの僕としての役割を果たし終えたのだろう。
いまや、バルバトスの固有波形は観測されない。
滅び去ったからだ。
神威の竜眼が疼いた。
アーリマンの魔力は、戦場から程遠いこの葦原市にまで届いているのだ。
「エロス。それがあなたの選択だというのであれば、わたくしも応援しましょう。それがきっと、あなたがこの世界で唯一信じられる縁なのでしょう」
アスモデウスは、だれひとりいなくなった宮殿のただ中で、戦場の光景を見ていた。
オロバス率いる大軍勢と、寡兵としか言いようのない人類側の軍隊、戦団の導士たちが激突する戦場の模様は、まさに混沌としていた。
オロバスは、決して窮地に陥ったわけではあるまい。
確かに軍団長が三名、星象現界を用い、オロバスに大打撃を与えつつあった。しかし、それでもなお、鬼級幻魔の生命力は膨大だ。生半可な攻撃では撃破することも叶わず、仮に撃破できたとしても、幻躰であればなんの意味もない。
殻石を破壊しなければ、オロバスは無限に復活し、無限に戦い続けることができるはずだ。
戦場は、オロバスの〈殻〉ハヤシラスへと移っている。
〈殻〉があるということは、殻石があるということだ。そして殻石があるということは、戦っているオロバスは幻躰であり、仮に斃されてもなんの支障もないはずなのだ。
なのに、エロスは、オロバスを救援した。
いままさにエロスが星将たちを相手に大立ち回りを演じる様を見れば、彼女がオロバスに対し、並々ならぬものを抱いていることは疑いようがない。
エロスは、オロバスを家臣としている。
鬼級が鬼級を支配することそのものは、決して珍しいことではなかった。
鬼級同士の戦いは、そう簡単に決着がつくものではなく、どれだけ力量差があろうとも何十時間、何百時間と戦うことになりかねない。
いや、もっと長く戦うことだって少なくなかった。
その結果、〈殻〉を別勢力に攻め落とされ、殻石を破壊されて命を落とす鬼級もいるほどだ。
それほどの長時間の戦いをするくらいならば、実力差を見せつけ、臣従を求めるほうが余程効果的というべきだろう。
事実、そのようにして勢力を広げる鬼級は数多とおり、今は亡きムスペルヘイムのスルトや、恐府のオトロシャなどがその好例だ。
かつてこの魔界を統一せしめた幻魔大帝エベルもまた、そのようにして勢力を拡大したという。
しかし、エロスのようにただ臣従させるだけでなく、配下の鬼級を愛でるものは、そうはいない。
幻魔の世界は、力こそが唯一無二の法であり、理であり、掟なのだ。
己より力の弱い存在を寵愛するなど、ありえないことだった。
ならば、エロスはなぜ、オロバスを寵愛するのか。
理由はただ一つ。
「縁」
つい先程までエロスが腰を下ろしていた玉座に座りながら、この宮殿の主を気取るようにして、彼女はつぶやく。
魔法で映しだした戦場には、さらなる変化が訪れていた。
アーリマンが、バルバトスの魔晶核を介して戦場に現れたのだ。
「あなたがサタン様を越えたいと考えるのもまた、そこに帰結するのでしょうね。わたくしがあなたを支えたいと感じるのも、せめて、あなたの望みがわずかでも叶うことを願うのも、全て」
アーリマンの暗黒そのものの姿を見つめながら、アスモデウスはその目を細める。
「縁なのでしょう」
幻魔は、普通、魔法士の死によって生じる莫大な魔力を苗床として、誕生する。その際、幻魔は、魔法士の記憶を、魔法士が記憶した情報を受け継いだ新たな生命体としてこの世に生を受ける。
そこに連続性はない。
人格も性質も嗜好も、なにもかも異なる存在である以上、苗床となった魔力の持ち主とは全く別の存在と考えるべきだ。
だが、しかし、時に鬼級幻魔ですらどうしようもないものがある。
それが、縁だ。
先程、エロスがオロバスを救援したように。
アーリマンがサタンの命令を無視して行動を起こしたように。
全ては、縁を起因として紡ぎ出された事象であり、故にこそ、アスモデウスは、ここにいる。
それもまた、縁だ。
縁が、この世を巡る。