第九百二十九話 星々、瞬く(十)
「ですが……されど……!」
オロバスは、己が魔晶体が急激に復元し、体内に満ちていた冷気という冷気が瞬く間に散逸していく事実を実感しつつ、喜びと驚きに包まれ、恐れ慄いてすらいた。視界を埋め尽くす莫大な霧が、力なく消滅していくのは、より強大な力が出現したからにほかならない。
突如としてこの場に現れ、オロバスを封じ込めた氷の檻を破壊し尽くしたのは、エロスだ。光り輝く長い頭髪を振り乱すことで大氷塊を切り裂き、粉微塵に消し飛ばしたのである。
オロバスの幻躰を身動きひとつ取れないほどに凍てつかせた大魔法も、エロスの大いなる力の前では意味をなさない。
当然の道理だ。
粉微塵に破砕された氷塊は、吹き荒ぶ光熱の嵐によって蒸発し、霧となって世界を覆っている。
その霧の中で、彼は、己が主君の輝かしい姿態に見惚れるほかなかった。
鬼級幻魔エロスは、数多の鬼級同様、極めて人間に酷似した姿をしている。女魔とも呼ばれるように人間の女に似た姿態であり、さらにいえば輝かしいほどの美貌の持ち主だった。そして透き通るような白い肌を一切包み隠すことなく曝け出しているのは、人間のように護る必要がないからだし、羞恥心など存在しないからだ。
豊かな胸も、細い腰も、しなやかな手足も、なにもかも見せつけている。
ただ一つ身につけているものがあるとすれば、白い羽衣であり、それが肉感的な肢体に纏わり付いている様こそ、この世の美の極致といっていい。
長い長い頭髪が眩むほどの光を帯びている。それこそがエロスの星象現界だということは、毛髪一本一本に含まれる多量の星神力からも理解できよう。
愛然女王。
エロスは、オロバスの窮地を察知すると、事態を打開するべく星象現界を発動しながら、彼の魔晶核を経由して、この場に転移してきたのだ。そして、氷牢の中に生じた強大な力は、封印魔法を破壊し、粉砕し、木っ端微塵に消し飛ばしたのである。
降りしきる霧の中、乱反射する光が、エロスの美しさを引き立てていた。
エロスの美貌の前では、オロバスは、無力だ。
思わず傅き、主命を聞くその瞬間を待たねばならないとなるのだが、ここは戦場である。そのようなことをしている場合ではない。
「あなたに抗弁する理由があって?」
エロスは、オロバスが歓喜に打ち震えているという事実を認識しながらも、冷ややかに問うた。そうしている間にも、敵は状況を把握し、態勢を整えようとしているはずだ。
戦況は、一変した。
オロバスを封殺し、追い詰めたはずの人間たちは、エロスの到来によって、逆に窮地に追い遣られようとしているのだ。
その現実を理解しないものなど、この戦場にはいまい。
エロスは、視線をオロバスから頭上へと向けた。相も変わらぬハヤシラスの淀んだ空に人間が二人、こちらを見下ろしている。
両者の間には、膨大な霧が立ちはだかっているが、そんなものは障害にもならない。
ハヤシラスに侵入してきた人間はもう一人いるが、それはオロバスの星霊と激闘を繰り広げている。
それ自体、驚くべきことではあるのだが。
対等に戦っている、というわけではあるまいが、オロバスの星象現界にどうにか食い下がっているというだけでも、驚嘆に値するだろう。
もちろん、人間如きを賞賛するような感性など、エロスは持ち合わせてもいないが。
だが、油断もしない。
オロバスを追い詰めるだけの力を持っているという事実を否定してはいけないのだ。
それになにより、かつて、エロス自身がこの人間たちによって撃破されているのだ。拭いがたい恥辱であり、忘れ得ぬ屈辱――。
「オロバス」
「はい」
「あの人間たちに、あの日の借りを返しましょう」
「仰せのままに」
オロバスは、異論も述べず、首肯した。大地を蹴る。周囲の地面が陥没するほどの力を込めた跳躍は、彼の巨躯を一瞬にして上空へと至らしめる。
蒼秀が振り向き様に雷球を発生させれば、オロバスは、ハヤグリーヴァを相手の背後に転移させた。美由理が割って入ろうにも、その進路を無数の光線によって遮られる。エロスだ。
エロスの光を帯びた頭髪は、どうやらとてつもない力を持っているらしい。光都事変では見なかった攻撃手段。しかも、無明月影を一瞬にして切り刻み、魔法そのものを消し飛ばしてみせた星神力の刃。
「星象現界か」
美由理は、端的に吐き捨て、蒼秀が二色の雷光に包まれる様を視界の端に捉えた。自身は、眼下のエロスに魔法を放つ。
「陸百参式改・雪月花」
突如、猛烈な吹雪がエロスを飲み込んだかに見えたが、つぎの瞬間、その周囲を無数の光線が乱舞した。魔法の吹雪を構成する魔力体の一つ一つを切り刻み、粉々に打ち砕く斬撃の嵐。美由理の魔法は、花開く前に散ってしまう。
そこへ、爆撃が届く。
火倶夜が火の鳥となってエロスの頭上を駆け抜ければ、その周囲一帯の地形が激変するほどの爆発が連続的に巻き起こったのだ。地上波火の海となり、火気が世界を塗り替える。すると、さしものエロスも地上にはいられないといわんばかりに飛び上がった。しかし、その絹のような裸体には傷ひとつついていない。
さすがは鬼級幻魔というべきだろうか。
入れ替わるようにして、蒼秀が地上へと落下していく。オロバスとハヤグリーヴァが、彼を追った。すると、雷の雨が天から降り注ぎ、雷の嵐が地上から沸き上がった。オロバスたちを挟撃する。
オロバスが吼え、その頭上に暗黒球が出現すると、雷の雨の尽くを吸い寄せてしまった。オロバスの目が蒼秀を嘲笑う。ハヤグリーヴァが、地面に激突した蒼秀の胸を踏みつけたのだ。一瞬、蒼秀の呼吸が止まった。それほどの衝撃が胸を貫いていた。そして、ハヤグリーヴァが掲げた右手に星神力を凝縮し、闇の槍を具象する。
蒼秀は、そんな星霊の馬面を見据える。双眸から漏れる禍々しい光は、幻魔そのものだ。幻魔の星霊なのだから当然だ。
そんなどうでもいいことが脳裏を過ったのは、きっと死を感じなかったからに違いない。
大気が、轟と唸った。
蒼秀の腹に深々と埋め込まれていたハヤグリーヴァの足が引き剥がされるようにして、その巨体が吹き飛んでいった。颶風が、蒼秀すらも弾き飛ばすほどに顔面を撫で付ける。
「よお、蒼秀。おれらも借りを返しにきたぜ」
天空地明日良の声を聞きながら、蒼秀は、そちらを一瞥もしなかった。素早く跳ね起き、飛び退く。オロバスが降ってきたからだ。
オロバスの太い脚が、大地に大穴を開けた。
避けなければ、踏み潰されていた。
「運命だと」
統魔は、バルバトスを睨み据え、吐き捨てた。
バルバトスは、まるで統魔のことを知っているような素振りでいってきたのだ。いや、知っているのは間違いない。
バルバトスの説明通り、長田刀利の記憶の一部を引き継いでいるというのであれば、戦団や導士について、多少なりとも詳しくてもおかしくはない。
なにより、アーリマンの僕だという。
央都の陰に日向に暗躍してきた〈七悪〉に従属するというのであれば、央都に関連する様々な情報を持っていてもなんら不思議ではなかった。
だが、バルバトスの言い方には、引っかかりを覚える。
(運命)
銃声が響き、星霊が吹き飛ばされる様を目の当たりにする。バルバトスが手にする猟銃、その銃口は、全く別の方向に向いていた。射線上にはなにもなく、故に当たるはずはないのだが、しかし、統魔を護る星霊の一体がその額を撃ち抜かれたという現実は覆せない。
(なんだ?)
統魔が考えていると、その肩に触れる手があった。
「皆代くん、幻魔の言葉に惑わされたらあかんで」
「わ、わかってます」
「ほんまかいな」
「ほんまです!」
「せやったらええねんけどな」
朝彦《あさひおk》は、統魔の肩を掴むと、彼ごと秘剣陽炎の能力で包み込んだ。虚空に姿を隠し、バルバトスから遠ざかる。
統魔は、朝彦に抗わなかった。朝彦に声をかけられた瞬間、冷静さを取り戻せたということも大きい。兄弟子の声には、安心感すら覚えるものだ。
「あいつの銃は、星象現界や」
「星象現界……道理で」
「能力は、狙いを定める必要なく百発百中の命中精度を誇るっちゅう感じやな。しかも弾丸を発射してるわけやなくて、目標座標に転移させてるっちゅうとんでもない代物や。あの銃には防型魔法もほとんど役立たん」
朝彦は、統魔に説明しつつ、バルバトスが銃を撃つ様を見ていた。引き金が引かれ、発砲音が鳴り響けば、つぎの瞬間、だれかが直撃を受けている。空間内に張り巡らされた魔法壁も、黒天大殺界の能力も完全に無視していた。
朝彦の推察通りの能力なのだろう。
もっとも、いまや直撃を受けても、致命傷にはならなかった。既に全員が対策しているからだ。
バルバトスの銃撃対策は、全身を防型魔法で覆うことだ。
空間内に展開し、設置する魔法壁は無視できても、肉体そのものを包み込む防型魔法を貫通することはできないようなのだ。
つまり、完全な転移ではないということになるのだろうが、そこらへんは面倒なので説明しなかった。説明するまでもないことだ。
統魔ほどの魔法士ともなれば、見ればわかるだろう。
「やたらめったら撃ちまくってるし、弾数制限なんかもなさそうや。星神力が尽きたらその限りやないんやろうけど、あいつは鬼級や。あいつの星神力が尽きる前にこっちの星神力が尽き果てるわ」
「でしょうね」
統魔は、朝彦の意見に静かに頷くと、自身の星神力が消耗し続けているという事実を認識した。
星象現界の発動以来、そうだ。
星象現界の発動と維持には、多大な魔力が必要であり、星神力が不可欠なのだ。消耗し続ければ、勝算もなくなる。
いや、そもそも、鬼級相手に杖長と統魔だけで勝てるのかどうかという問題があるのだが。
そんなことは、いまさら考えるべきではあるまい。
倒すべき敵を眼の前にして、考えることは一つしかない。