第九百二十七話 星々、瞬く(八)
「おおおっ!」
天地を震撼させる雷鳴のような雄叫びが蒼秀の喉から溢れた。翳した手の先に形成した巨大な雷球は、オロバスの巨躯に直撃すると、星神力同士の反発と摩擦が閃光と爆発を巻き起こす。
一秒にも満たない衝突の後、雷球がオロバスを大地に叩きつけ、その勢いのまま押し潰していくかのように膨張する。
八雷神発動中の土雷は、その威力、精度、範囲いずれもが通常時とは比較にならないほどのものとなっている。星神力を用いただけの魔法とも比べようのない強化倍率といっていい。
星象現界なのだ。
星象現界とは、星の象を世界に現すと書く。
星とは、魔法士のだれもが持つ魔法の元型のことであり、元型を形ある象とする究極魔法こそ、星象現界なのだ。
魔力を次なる次元へと引き上げたのが星神力ならば、星象現界は、魔法そのものをさらなる次元へと引き上げた技術といっても言い過ぎではない。
オロバスがその両手に束ねた星神力でもって極大の雷球を受け止めながら、大地に両足を突き刺し、踏ん張ると、それだけで周囲の地形が激変した。星神力の絶え間ない衝突が、周囲一帯の魔素を撹拌
《かくはん》し、破壊と創造を繰り返すかのようだ。
戦場は、空白地帯から〈殻〉へと移った。
オロバスが主宰する〈殻〉ハヤシラスである。
人間にとっては異形としか言いようのない幻魔造りの建物が乱立する領域は、オロバスによって統治される幻魔の都市であり、王国であった。オロバスは、この王国の王そのものなのだ。そして、動員された幻魔たちは、国民というべきものたちである。
だが、当然ながら、オロバスに国民を庇護し、その安全に全力を尽くすなどという意志はない。むしろ、国民こそが死力を尽くして王命に従うべきだというのが、幻魔社会の基本構造なのだ。
故にオロバスは、咆哮する。
ハヤシラス内に待機していた全幻魔を招集したのである。
ようやく大雷球を弾き飛ばし、空を仰ぐ。どす黒い瘴気に満ちたハヤシラスの中では、人間たちもその本領を発揮することはできないはずだった。
おそらく、人間どもは、オロバスとの戦闘に味方を巻き込んでいる事実に気づき、咄嗟の機転で戦場そのものを移動させたのだろう。このハヤシラスの奥深くならば、どれだけ星象現界で暴れ回ろうと、〈殻〉の外に影響は出ない。
それによって全力を発揮できると結論付けたのは、笑止千万と言わざるを得ない。
(人の子、愚かなり……!)
最前線から大きく離れてしまったものの、これはこれで、オロバスにとって好都合だ。
〈殻〉は、殻主たる鬼級幻魔の結界である。その結界には、阻害効果が付与されるものであり、阻害効果を回避するには、殻印を刻まれる以外に方法はない。
いままさに人間たちは、阻害効果に苛まれていることだろう。
オロバスは、星霊ハヤグリーヴァを己の背後へと転移させると、上空の人間たちを見据えた。
たった三人。
されど、三人。
かつてオロバスの幻躰を破壊し尽くしたのは、十二人の人間だった。それらが用いた星象現界は、忘れもしない。記憶に焼き付き、細胞に焼き付き、魔晶核に焼き付いている。
故に、オロバスは、人間たった三人といえど、手を抜くことなどはしない。
全身の星神力という星神力を練り上げて、魔法を想像する。それが律像として周囲に展開する様を見ている暇もなく、頭上から降ってきたのは、巨大な氷塊だ。
雨霰と降り注ぐ氷塊の数々が、ハヤシラスの一角を押し潰し、壊滅的な被害をもたらすのだが、オロバスには届かない。
オロバスは、その場を飛び離れていたし、ハヤグリーヴァが彼への致命的な攻撃を受け止めている。馬頭人身の星霊は、虚空を滑るように移動し、星将へと殺到する。
爆炎が、星霊の前方を遮った。
「さすがとしか言い様がないな」
蒼秀は、紅蓮の炎を全身に纏った火倶夜が、まさに燃え盛る猛火の如き苛烈な連撃を星霊に叩き込み、吹き飛ばす様を見届けていた。
「ああ。イリア様々だよ」
美由理も頷き、〈殻〉上空を飛翔する。
戦場をオロバスの〈殻〉内部へと移動させたことそのものは、決して想定外の事態ではなかった。そもそも、オロバスが軍を起こしたからといって、オロバス自身が前線に出てくる可能性というのは、限りなく低いものだ。
殻主にして指揮官たるオロバスが、わざわざ前線に出てくる状況があるとすれば、余程、オロバス軍が追い詰められるようなことがなければありえない。
となれば、戦団の主戦力が敵陣後方に向かうしかなく、その結果、オロバスが〈殻〉内へと移動したとしても不思議ではない。
〈殻〉は、ただ敵地というだけではない。
〈殻〉に属する幻魔にとって、様々な面で有利なのだ。
殻主の魔晶核を元にした殻石によって生み出される結界であり、強大な力が働く領域。属するものたちにとって有効的な力が働き、部外者にとって不利な力が作用する。そうした力をを強化効果、阻害効果と呼ぶ。
これまで、阻害効果は回避しようのないものだった。
〈殻〉に侵入し、内部で戦闘を行うということは、常に不利を背負うということであり、多大な消耗を強いられるだけでなく、敗北の可能性が常に付き纏うほどのものだったのだ。
元より、幻魔との戦いは死と隣り合わせだ。人類が有利に立てたことなど一度だってなかったし、常に存亡の危機に瀕しているのは人間側なのだ。〈殻〉に飛び込むというのは、さらなる不利を背負いにいくというものであり、死地に赴くというよりは、死にに行くのと同義だった。
だが、今回は違う。
美由理たちは、オロバス領の阻害効果をほとんど受けずに、〈殻〉の上空を移動しているのである。
オロバスが配下の幻魔を呼び寄せるのを認めつつ、そんなものでは足止めにもなりはしないといわんばかりに美由理が猛攻をしかける。
蒼秀もまた、虚空を蹴って、オロバスとの距離を詰めた。
「戯けどもが」
オロバスが嘲笑う。オロバスに肉迫した蒼秀を、四方八方から黒い霧に包まれた幻魔の群れが襲った。
先程美由理が撃滅した幻魔たちが、マンティコアによって不死者と化したのだろう。
だが、蒼秀は、一瞥すらくれない。
オロバスに拳を叩きつけるとともに雷光を拡散させ、余波だけで不死者を殲滅してみせた。雷光が黒い霧を伝い、発生源たるマンティコアを絶命さえたのである。
「雑兵など、足止めにもならんぞ」
「確かに。だが、これならばどうだ?」
蒼秀が続け様に繰り出してきた蹴撃を弾き飛ばし、雷撃を躱して見せると、オロバスは、眼前にハヤグリーヴァを転移させた。ハヤグリーヴァが双眸を輝かせ、蒼秀に突進する。
オロバスは、上空から次々と降り注いでくる巨大な氷柱を避けながら、ハヤグリーヴァの猛攻が蒼秀を圧倒する様を見て、ほくそ笑んだ。
星象現界は、圧倒的だ。
人間如きの星象現界がオロバスとエロスの幻躰を破壊するのであれば、オロバスの星象現界は、どうか。
人間など、取るに足らないのではないか。
月が、煌めく。
「星象現界……ねえ」
アスモデウスがため息交じりにつぶやく様を、エロスは横目に見ている。
この玉座の間に当然のように入り込んでいる部外者は、エロスの権限を以てすれば排除するのは容易いのだが、彼女はそうはしなかった。
部外者だが、利用価値のある部外者だ。なんの価値もない、妖級以下の幻魔とはわけが違う。
少なくとも、エロスはそう思っている。
「あなたは、どう思っているのかしら?」
「どう……とは?」
「不愉快に感じているんじゃないかと思って。違うのかしら?」
妖艶な笑みを向けてくる女魔に対し、エロスは、異論も反論も述べなかった。それが答えとして受け止められたとしても、仕方のないことだ。
確かに、その通りだった。
人間を斃すために魔法技術を磨くなど、不愉快極まる事態だった。しかも、それが人間の技術を学ぶことだというのだから、到底、認め難いことだ。
だが、バルバトスがいったとおりでもあった。
『力がなければ、なにも為し得ない。違いますか?』
アーリマンの使いとしてこの宮殿を訪れた蒼白の鬼級幻魔は、慇懃無礼という言葉を体現した存在だった。
そして、バルバトスは、エロスとオロバスに星象現界を伝えた。
星象現界を得たエロスは、確かに強くなった。
この力があれば、近隣の〈殻〉を制圧し、女王として、いや、女帝として君臨することも難しくないのではないか、と思えてならなかった。
それがアーリマンの思惑通りなのだとしても、だ。
「あなたはどうなの? アスモデウス」
「わたくし? わたくしは……どうでもいいわ。ただ、あのひとのお手伝いをしたいだけ。あのひとはきっと、わたくしの縁だから」
「縁……」
エロスは、そういったときのアスモデウスの横顔がどうにも寂しそうに見えたのが不思議でならなかった。
〈七悪〉を、悪魔を名乗る、傲岸不遜極まりない鬼級幻魔たちにあるまじき振る舞いではないか。