第九百二十六話 星々、瞬く(七)
鬼級幻魔による星象現界の修得。
それは当初、当然のことながら戦団にとって予期せぬ事態であり、魔法史上最悪の出来事といって過言ではなかっただろう。
恐府攻略の前哨戦の折、鬼級幻魔トールが星将・城ノ宮日流子との戦いの中で、突如として天啓を得たかのように発動して見せたのが最初だ。
雷霆神皇宮と名付けられた星象現界は、雷神とも呼ばれる北欧神話の神トールを名乗る鬼級に相応しいものではあっただろう。
だが、それによって第五軍団長の命が絶たれたという事実は、戦団に関わるものたちにとって許し難く、認め難いものとなった。
まさか、幻魔が成長するなど、そんなことがあっていいものなのか。
「良いはずがない」
統魔の冷徹な言葉には、深い怒りが込められていた。断じて受け入れることなどできないといわんばかりの強い意志が、その声音に、その表情に強く現れている。
「おう、皆代くん。きみの任務は、マンティコアの掃討やろ」
「はい。ですから、つぎの任務を聞きに参った次第で」
「はあ?」
統魔の星霊による傷の手当てを受けながら、朝彦は、思わず間の抜けた顔になるのを自覚した。統魔の返答の意味が、一瞬、理解できなかった。
統魔は、バルバトスを睨み付けている。
青ざめた鬼級幻魔は、古めかしい猟銃を統魔に定めてこそいるものの、その引き金を引けば、撃ち抜かれるのは、統魔の星霊だった。
統魔の肉体に直撃しているはずなのだが、ダメージは、彼の星霊に現れていた。星霊が肩代わりしているということなのだろう。
故にバルバトスは、さらに引き金を引いた。まずは星霊を撃滅しようというのだろう。だがしかし、星霊の腹を撃ち抜こうとも、頭を貫こうとも、人間ならば心臓がある位置に弾痕を刻みつけようとも、痛撃にすらならなかった。
星霊に痛覚などはなく、星霊に与えた損傷も瞬く間に復元してしまうため、完全に討ち斃すには、使い手の意識を断つ以外に方法はない。
そのため、バルバトスが再び統魔に狙いを定めるまで、さほどの時間もかからなかった。その間、バルバトスは杖長たちからの猛攻をしのぎ続けている。
「マンティコアは斃し尽くしました」
「なんやて? ほんまかいな……」
「杖長命令を遂行したまでのこと。大したことはありませんよ」
統魔は、バルバトスの秀麗な顔立ちを睨み据えながら、告げた。実際、統魔にとっては大したことではなかった。想定以上に素早く与えられた任務を完遂できたからこそ、このような無茶を通すことができている。
この広大な戦場からマンティコアだけを探し出すのは困難かと思えたが、戦場を蹂躙すれば、死骸を操作するために黒い霧を吐き出すというマンティコアの習性が理解できれば、決して不可能ではなかった。
皆代小隊と八体の星霊で戦場を飛び回り、手当たり次第獣級幻魔を撃破していけば、どこかしこに黒い霧が発生したのだ。霧の発生源には必ず二重殻印のマンティコアがいる。それを撃破すれば不死者ともどもに殲滅できた。
いうには容易いが、並大抵のことではあるまい。
朝彦は、統魔率いる皆代小隊の戦力を過小評価していたのではないか、と、戦慄さえ覚えながら認めた。
皆代小隊は、大隊に匹敵するかそれ以上の戦力であると考えるべきであり、これから先、そのように運用するべきだろう。
「援護は、不要ですか?」
「……いや、必要や」
朝彦は、秘剣陽炎を軽く構え直しながら、いった。幻想的な光を発する刀身が、淡く揺らめく。
統魔と八体の星霊がこの戦いに加わったことで、状況は一変したといっていい。
六名の杖長だけではバルバトスの星象現界に対応することすら困難だったが、戦力が倍増したいま、打開策すら見えてきそうだった。
「皆代統魔、大隊長命令や。きみは、おれらと一緒にバルバトスを討伐するんや。ええな」
「了解」
統魔の声音がわずかに喜びに震えたのがわかったのは、この場にいる杖長の中で、朝彦だけかもしれなかった。朝彦以上に彼と付き合いの長い杖長はいないのだ。統魔が幻魔への復讐心を糧に戦い抜いてきたことは、よく知っている。
そして、彼の悲願を果たすには、鬼級幻魔と戦えるだけの力が必要不可欠なのだ。
だから、統魔は歓喜する。
統魔は、拳を握りしめ、虚空を蹴って飛び出した。すかさず、バルバトスが引き金を引く。けたたましい発砲音とともに生じたどす黒い閃光は、やはり、つぎの瞬間、女神の如き星霊の額を撃ち抜いただけで終わる。
直後、そんなバルバトスの銃を掲げる右腕を撃ち抜くものがあった。バルバトスによく似た影法師が、長銃を掲げていた。
神明真緒の星象現界・暗夜の死徒。化身具象型でありながら、真緒本人のものというよりは、対象そのものを星霊化する星象現界というべきかもしれない。
対象の影から生み出された星霊は、対象の能力をそっくりそのまま再現する。その能力というのは、真緒が認識し、理解できる範囲でしかない。故に交戦当初に出現した影法師が、バルバトスの真価を発揮できないまま撃退されるのも当然だった。
そして、そのような能力なのであれば、星象現界ごと再現した影法師が誕生するのも道理であろう。
バルバトスは、そちらを一瞥することなく左手を掲げると、衝撃波を放った。影法師は、対象の影から離れることができないがために避けきれず、直撃を受けて崩壊した。一度影法師が破壊されると、再出現するまでに多少なりとも時間が必要だった。そして、そのたびに膨大な星神力を消耗することになるため、真緒は、慎重にならざるを得なかった。
無闇にやたらに影法師を生み出しては、そのたびに破壊され、消耗していくだけだ。それでは、バルバトスをこの場に足止めするという任務すら果たせない。
そんな真緒の負担は、統魔の合流によって大きく減っただろう。影法師にも勝るとも劣らない八体の星霊が、この結界の中を飛び回り、バルバトスを攻撃し、あるいは杖長たちを補助してくれているのだ。
頼もしいことこの上なかったし、皆代統魔が次期杖長候補筆頭に上げられているのも理解できるというものだった。
彼一人が、戦況を激変させた。
朝彦が、陽炎の能力を発動する。己の姿を風景と一体化させながら、統魔を追った。
統魔は既にバルバトスを眼前に捉えている。手には、光の剣。
「皆代統魔だろ、あれ」
「彼なら問題ないでしょう。しかも彼の星象現界は、規格外です」
「それはまあ、そうか」
山王瑛介は、神明真緒の説明に大いに頷くと、律像を構築し始めた。彼の星象現界・黒天大殺界は、バルバトスには大した力を発揮できていない。
本来ならば対象をこの結界の中心に拘束し、被拘束者の遠距離攻撃魔法を本人に向けるというとんでもない能力でもって、圧倒するのだが。
バルバトスの星象現界・星を射落とすものは、銃弾を飛ばしているわけではないが故に、黒天大殺界の影響を受けないようだった。弾丸の目標座標への空間転移こそ、サジタリウスの能力なのだ。
佐比江結月の雷神弓が唸りを上げ、雷の矢を連射すれば、宮前彰の氷形剣が膨大な冷気を渦巻かせ、バルバトスを包み込もうとする。そのただ中へと飛び込んだのが統魔であり、星霊たちだ。
「バルバトス!」
統魔が叫ぶと、蒼白の幻魔は、その赤黒い双眸で彼を見た。
「初めまして、ですね。皆代統魔」
「おれを知っているのか!」
「知らないわけがないでしょう」
バルバトスは、慇懃な態度で告げながら、右腕を復元した。猟銃を掲げ直す。引き金を引けば、雷鳴のような発砲音が響き渡る。しかし、弾痕は、統魔には刻まれない。統魔に随行する雄々しき星霊の胸を貫いただけだ。
そしてそれは、一瞬にして復元してしまう。
バルバトスは、目を細める。
「あなたほどの有名人ならば、わたしのような最近生まれたばかりの鬼級が知らない道理がない。幻魔とはなにか、あなたがた人間は散々に調べ尽くしたはず。それこそ、人道を踏み外すような実験すらも数え切れないほどに行って、ね」
「だったら、なんや」
朝彦の冷厳な声は、バルバトスの背後からだ。バルバトスは振り向かず、口の端を歪めるに留めた。なぜならば、背後から立ち上がったのは、暗夜の死徒であり、バルバトスそっくりの影法師だからだ。サジタリウスを撃ち放ち、暗夜の死徒を沈黙させれば、閃光が視界を灼いた。前方から統魔の斬撃が迫り来れば、背後から朝彦の剣撃が殺到する。
「悪くはありませんね」
バルバトスの声は、周囲に届いたのか、どうか。
統魔が全力で振り下ろした光剣は、しかし、バルバトスの猟銃に受け止められ、火花を散らした。破壊的な音が響き渡る。朝彦の秘剣はといえば、バルバトスの左手に掴まれ、手のひらに切り傷を作ったに過ぎない。
バルバトスが銃を撃てば、朝彦が苦痛に顔を歪ませながらその場を飛び離れ、星霊が彼を保護した。
朝彦たちが認識しているサジタリウスの欠点があるとすれば、連射が効かないことだ。一発撃つごとに数秒程度の間があり、その間こそ、こちらの付け入る隙となる。しかし、撃たれたら最後、どこに弾痕が刻まれるのかわからない以上、対処のしようがなかった。
統魔が狙われれば、星霊が請け負ってくれるようだが、バルバトスは、もはや統魔を狙おうとはしないのではないか。
「苗床となった人間と、苗床から誕生した幻魔の間になんの連続性もありませんが、しかしながら、多少なりとも受け継ぐものがあるのですよ。たとえば、そう、記憶。長田刀利の記憶が、情報が、わたしの頭の中に在る。ときにそれを己の存在意義、存在理由だと勘違いするものもいるようですが……まあ、わたしはそうではなかった。わたしはバルバトス。アーリマン様第一の下僕にして、あなたがたの敵」
バルバトスは、サジタリウスを振り上げ、統魔の光剣から切り抜ける。その場から飛び退くなどということはできないが、しかし、問題はなかった。左手を翳し、衝撃波を放つ。
統魔が、重武装の星霊を盾にして距離を取った。
「皆代統魔。あなたとは、いまここで逢いたくはなかったが……これもまた、運命なのでしょう」
バルバトスは、アーリマンからの使命を思い出して、告げた。