第九百二十三話 星々、瞬く(五)
エロスは、黙考する。
〈殻〉シャングリラの中心に聳え立つ絢爛たる真愛宮、その玉座の間にあって、ただ一人、考え込んでいる。
状況が、動いた。
いや、時代が、というべきか。
人類にとって早すぎた魔法時代の到来がいまや遠い過去のものとなり、幻魔の誕生によって訪れた幻魔戦国時代もまた、いまや彼方に過ぎ去ってしまった。
今現在。
幻魔大帝を名乗ったエベルは、魔天創世のために命を落とした。
エベルによって行われた幻魔一統は、エベルの死によって瞬く間に瓦解し、一部の遺臣以外は、エベルの遺志に従うこともなく、再び訪れた乱世に身を躍らせていった。
エロスも、そんな幻魔の一体だった。
鬼級幻魔ならば、ほとんど全てがそうだったはずだ。
エベルによる幻魔一統に従ったのも、エベルが余りにも強大過ぎたからだ。世界を変革するほどの力を持っていたのだ。勝てる見込みなどはなく、戦ったところで滅ぼされるだけだ。ならば、付き従う振りをして、寝首を掻く機会を待つのが正しい鬼級の在り方だろう。
エベルに従属した鬼級幻魔の大半が、エロスと同じような考えを持っていたに違いない。
そしてそれをエベルが認めていたからこそ、エベルの時代が訪れようとしていたのだ。
そしてエベルが健在であれば、魔天創世によって命を落とすようなことがなければ、エベルの治世は何事もなく長らく続いたに違いない。
エベルの作り上げる新世界秩序が、この地球を中心とする宇宙全域を掌握していくのも時間の問題だったのではないか。
それほどまでに圧倒的にして絶対的だったのが、エベルだ。
しかし、幻魔大帝は、みずから命を落としてしまった。
それが幻魔の世界を作るためだというのであればなにもいうことはないし、実際のところ、魔天創世以前と以降を比較した場合、幻魔にとって住みやすく生きやすい環境に変わったのは間違いなかった。
地球は、人類ではなく、幻魔のものとなった。
魔天創世は、幻魔を除く、ありとあらゆる生物を滅ぼしてしまったからだ。
まさに幻魔の世界、魔界と成り果てた地球では、再び幻魔が領土争いを繰り返すようになっていったのは、自然の成り行きだろう。
鬼級幻魔とは、そういう生き物だ。
生まれ持った本能が、領土を欲している。
エロスにせよ、配下のオロバスにせよ、意識の奥底では、領土的野心が炎の如く燃えており、いまにも溢れ出しそうになるのだ。
それを抑え込むのが理性なのだが、その理性も、目の前に好機が転び込んでくれば、どうなるものか。
もっとも、どれだけ領土的野心を燃え上がらせようとも、〈殻〉を拡大するのは簡単なことではない。
周囲の〈殻〉を攻撃し、その領土を切り取ろうにも、相手もまた鬼級幻魔である。生半可な戦力では、決定的な機会を作ることすらままならない。
故に、目を付けたのが、央都である。
かつて、幻魔大帝の寵姫として名を馳せた鬼級幻魔リリスが、バビロンなる〈殻〉を開いていた場所に突如として出現した人間の領土。滅び去ったはずの人類が再び現れ、復興を始めたという事実を知ったのは、いつだったか。
人類がその領土を拡大し、いまや複数の〈殻〉を制圧、それらを人間の都市へと作り替えたという事実を知れば、エロスがそこにこそ己が領土拡大の可能性を見るのは、当然の帰結だった。
よって、エロスは、オロバスとともに軍を動かした。
そして、光都と呼ばれる人類の都を攻撃し、壊滅的打撃を与えたのも束の間、オロバスは手痛い反撃を受け、その幻躰を破壊されるに至った。
エロスは、オロバスの幻躰に身を潜めていたが、オロバスの幻躰が破壊されたことで、人間たちと相対することとなり、死闘を演じた。
その結果、エロスまでもがその幻躰を破壊される羽目になるとは、想定外も甚だしかったのはいうまでもない。
まさか、人間如きに遅れを取るなどとは、想像しようもないことだ。
拭いがたい屈辱であり、恥辱の極みだ。
「だから、彼の提案に乗ったのでしょう?」
不意に聞こえてきた声に、エロスは、顔を上げた。壮麗にして輝きに満ちた宮殿、その絢爛豪華な玉座の間にあって、不純物が入り込んできている。
どす黒い邪悪そのもののような鬼級幻魔。
「アスモデウス……」
エロスは、その女魔の妖艶な微笑を見据え、目を細めた。
まるでこちらの考えなどすべてお見通しと言わんばかりの態度が、気に食わなかった。
「星象現界やと!」
朝彦が悲鳴にも似た叫び声を上げたのは、至極当たり前のことだった。
バルバトスが真言を唱えるとともにその全身から満ち溢れたのは、星神力以外のなにものでもなかったし、超高密度の星神力の拡散が、強大な爆発となって黒天大殺界そのものを吹き飛ばしたのだ。
杖長たちは、想定外の事態に驚愕しつつもの、冷静さを失ったわけではない。
即ち、山王瑛介は、即座に黒天大殺界を再構築し、バルバトスを暗黒の結界に閉じ込め、神明真緒が暗夜の死徒を発動したのだ。
バルバトスの星神力に圧倒されてもなお荒井瑠衣の歌唱は途切れず、魔法の乱射は続いたし、宮前彰の氷形剣も鋭い斬撃とともに猛烈な吹雪を起こした。佐比江結月の雷神弓から放たれた無数の矢には、無数の稲妻が降り注ぎ、嵐を起こす。そして、朝彦の秘剣・陽炎もその真価を発揮した。
まさに陽炎の如く揺らめいて姿を消した朝彦が、再びバルバトスの背後を取ったのだ。
そして、吹き飛ばされる。
バルバトスは、銃を手にしていた。長大な銃身を持つそれは、異形感こそ極めて強いものの、古めかしい猟銃のような形状だ。しかもそれが星神力の塊であり、物質化した代物だということは疑いようがない。
つまり、武装顕現型の星象現界ということだ。
そして、朝彦が吹き飛ばされたのは、右肩を撃ち抜かれたからだった。
「ちぃっ」
激痛に顔を歪ませながらも朝彦は陽炎の力で姿を消すと、瑠衣の側へと移動した。
瑠衣は、即座に魔法を使い、朝彦の傷を癒やした。瑠衣は、攻手であり、攻型魔法を得意とするが、星象現界発動中に限っていえば、あらゆる型式の魔法に精通した、いわば万能手ともいうべき存在となった。
補型魔法で朝彦の傷を癒やしたように、防型魔法を幾重にも張り巡らせることで、バルバトスのつぎの攻撃に対応する。
瑠衣の二体の星霊が常に無数の律像を編み上げ続けているのも、そのためだ。攻型、防型、補型の三形式の魔法を状況に応じて使い分けられるようにしているのだ。
だからこそ、朝彦は瑠衣を頼り、瑠衣も言われるまでもなく彼の傷を癒やして見せた。
長年培われてきた戦闘経験が、そのような連携を可能としているのである。
そんなことはお構いなしに、バルバトスが、引き金を引く。銃を構えもせずに、だ。すると、撃発音とともに杖長のいずれかが撃ち抜かれていた。
透かさず、瑠衣が治癒魔法を発動することで事なきを得るが、その直後にはまた誰かが狙撃されている。
バルバトスは狙いを定めなければ、視線も不確かだ。見ている相手とは全く別の杖長が狙撃されるのだから、視線を追っても無駄と言うべきか。
その上、魔法壁を張り巡らせても、意味がなかった。
魔法壁の内側から、撃ち抜かれている。
「百発百中かいな!」
「まったく、厄介だね」
「星象現界って時点で厄介極まりないってのに」
「黒天大殺界でも防げないしな」
杖長たちは、とにかく飛び回りながらバルバトスの狙撃を逃れようとしたのだが、しかし、幻魔が引き金を引く度にだれかが傷を負った。ただし、致命傷には程遠い。
腕や足、腹や肩を撃ち抜かれても、死にはしないのだ。治癒魔法さえ間に合えば、だが。幸いにも、バルバトスの銃は、連射が効かないらしく、その点だけは杖長たちにとって有利といえた。
(有利ってなんやねん)
内心、吐き捨てるようにいいながら、朝彦は柄を握り締めた。秘剣・陽炎の力を使い、その姿を空間に溶け込ませる。光の屈折を利用した透明化は、万能には程遠い。
だが、これほどまでに膨大な魔素が乱れ飛ぶ空間ならば、朝彦の姿は完全に近く透明になれる。
ただし、先程は、撃たれた。
(つまり、や)
朝彦は、バルバトスが引き金を引いた瞬間、その懐に迫った。すると、バルバトスの目が、こちらを見ていた。
(視えとるな)
朝彦は、苦い顔をしながら、大刀を振り上げた。火花が散り、衝撃が両手に走る。バルバトスの猟銃が、陽炎を受け止めたのだ。
そして、銃弾が朝彦の右脇腹を貫いた。