第九百十九話 星々、瞬く(一)
『特定四号、荒井大隊の前方に出現しました!』
通信機から聞こえてくる切迫した情報官の報告は、予期せぬ事態だった。
特別指定幻魔四号がこの戦場に出現したことそのものが想定外の出来事なのだが、それどころか、特定四号が最前線に出張ってくるなど、予想できるはずもない。
だが、動揺している場合でもない。
美由理は、冷ややかに問うた。
「瑠衣、聞いたな?」
『それどころか、目の前にいますよ!』
「ならば、きみに任せる。杖長とともに特定四号を対処せよ」
『了解!』
荒井瑠衣からの反応には、逡巡というものが一切なかった。即断即決でもって、彼女は事態に対応するべく動いたに違いない。いや、そもそも、対応しようとしていたところに軍団長からの連絡があったと見るべきか。
美由理は、荒井大隊を後方に見遣り、すぐさま視線を前方に戻した。
戦況は、大きく動いている。
オロバス領西方から西方境界防壁へと雪崩れ込んでいる数百万単位の幻魔の大軍勢は、およそ三千名あまりの導士たちと激突し、一進一退の攻防を続けていたのだが、その様子が激変しようとしているのだ。
それもこれも、皆代小隊の活躍があればこそだろう。
マンディコアと不死者による消耗戦が、あっという間に崩壊を初めた。となれば、オロバスも動かざるを得ない。
妖級幻魔をこそ、最前線に突出させつつあるのがその現れだ。そして、それによって、戦団側が押され始めているのである。
どす黒い津波が、じわりじわりと境界防壁へ押し寄せている。
辛くも食い止めているものの、このままでいつ飲み込まれ、押し潰されるのかわかったものではない。
元より、物量差が圧倒的だ。
たった三千人にも満たない人数でここまで持ち堪えられたことを褒め称えても、罰は当たるまい。
無論、ここでオロバス軍に敗北しては意味がないのだが。
そんなことは、この戦場に立っているだれもが理解している。
だからこそ、美由理は、前方に意識を集中するのだ。
「特定四号が動いたのは、そちらに戦力を割かせるためと見るが、どうだ?」
美由理は、冷徹な眼差しを戦場の一点に注いでいる。禍々《まがまが》しくもどす黒い、雲霞の如き大軍勢の真っ只中、ただ一体、悠然と進軍する幻魔がいる。
鬼級幻魔オロバスが、異形の幻魔に跨がり、前進を始めているのだ。大身の槍を掲げる姿は、戦国武将のようですらあった。
「だろうな」
「恐らく、だけど……オロバスが動いたのは、特定四号から情報を得たから、じゃないかしら」
「特定四号から?」
「特定四号は、央都生まれ央都育ちの幻魔よ。幻魔は、苗床とした人間の記憶の一部を生まれ持つというわ。職業柄、長田刀利が記憶していた膨大な情報、そのうちのどれだけを受け継いだのかは想像しようもないけれど、オロバスやエロスよりは余程物知りでしょうね」
「つまり、特定四号が戦団に関する情報をオロバスに伝えた、と? なんのために?」
「さあ? そんなこと、知らないわよ」
「それはそうだろうな」
蒼秀は、苦笑とともに告げ、練り上げた魔力を星神力へと昇華させた。
火倶夜も、美由理も、同様だ。
全身に満ちた魔力をさらに凝縮し、つぎなる段階と昇華することによって、星神力は生まれる。充ち満ちた星神力は、五感を鋭敏化させ、戦闘能力を飛躍的に向上させていく。
膨大化した意識が、戦場の隅々にまで行き渡るかのような感覚は、星神力の領域に到達したものだけが実感できるものに違いない。
そしてそれによって、鬼級幻魔二体の莫大極まる魔素質量を肌で実感するのであり、全身が総毛立つのだ。幻魔への本能的恐怖は、星神力に到達し、星象現界を修めた身の上であっても、決して消え去ることはない。
いや、むしろ、より強まったというべきか。
幻魔の破滅的な力の一端を全身で受け止めるのだ。
より一層、滅ぼすべき存在として認識せざるを得ない。
幻魔を肯定するなど、ありえない。
あってはならない。
「征くぞ」
「ええ」
「ああ」
美由理が告げ、火倶夜と蒼秀が頷く。
魔法が飛び交う戦場上空を超高速で飛翔すれば、眼前にオロバスの巨躯を捉えた。オロバスが狂暴な馬面を頭上に向け、赤黒い双眸を輝かせる。周囲に律像が瞬いた。複雑怪奇な魔法の設計図。
「来たか」
オロバスのその一言が真言であり、周囲の空間がねじ曲がって爆散した。オロバスとともに進軍していた幻魔たちが吹き飛ばされることなどお構いなしだった。
そもそも、オロバスは、愛馬トライコーンによって幻魔が踏み潰されることを意に介していないのだが。
爆風が、遥か上天へと達する。
「見覚えのある顔だ」
オロバスは、三方に飛んで魔法を回避して見せた人間たちをぐるりと一瞥した。
「光都事変。そう名付けたそうだな。光都。確かに光り輝く都だった。都というにはあまりに小さく、あまりに儚い場所だったが」
オロバスが大槍を振り翳し、星将たちを睨み付ければ、四方八方から幻魔たちの大音声が聞こえた。霊級、獣級、妖級――多種多様な幻魔が、一斉に攻撃してきたのだが、美由理たちは黙殺した。星将たちの周囲には、超高密度の律像が完成している。
「千陸百壱式・月黄泉」
「百弐式・紅蓮単衣鳳凰飾」
「八雷神」
三者三様に真言を発し、星象現界を発動させれば、膨大な星神力が眩いばかりの光となって拡散し、殺到する無数の魔法を跳ね返し、有無を言わさず消滅させていった。
莫大なる力の奔流が、さながら嵐の如く吹き荒れ、周囲一帯を攪拌するかのようだった。
オロバスは、目を細めた。
かつて目の当たりにした光景が脳裏に過り、全身の細胞という細胞が疼くようだった。
「……なるほど」
確かに、その通りなのだろう、と、考え込む。故にこそ、細胞が疼くのだ。この肉体、魔晶体を構成する魔晶細胞が悲鳴を上げるのだ。
それはオロバスの激情を喚起し、怒りを炎の如く燃え上がらせる。
熱気は、左方上空から圧迫してくるようだった。さながら、燃え盛る炎の鳥が人の姿をしたかのような、そんな印象があった。
つぎに雷光。まさに雷神そのものの如き雷光の化身が右側にあり、視界を席巻するかのように光り輝いている。
そして、前方には満月を背負った女がいた。ほかの二人とは異なるのは、その外見に大きな変化がないという点だろう。ただし、魔素質量に大差はない。いずれも膨大かつ破壊的だ。
破壊的な力の奔流が、オロバスの意識を攻め立ててくる。
つぎの瞬間、オロバスは、自身が氷塊の中にいることに気づいた。全身が氷漬けにされ、押し潰されているような感覚。魔素という魔素が凍結し、意識までもが真っ白に塗り潰されたかのような感覚。
オロバスは、月を背負った女の目が、確かに輝くのを見た。
「あのときは、失礼をしたね。生まれたばかりということもあってね。冷静さを欠いていたのだよ」
「なにをいっている?」
幸多が思わず問い返したのは、特定四号があまりにもごく自然に、世間話でもするかのように話しかけてきたからだ。
無論、幸多の攻撃は、止まっていない。引き金を引き続け、弾丸を浴びせ続けているのだが、しかし、鬼級幻魔には一切通用していなかった。
特定四号の周囲の空間が歪んでいることから、分厚い魔法壁が形成されているのがわかる。銃弾はすべて魔法壁に食い込むのだが、目標地点に到達することがない。幸多の弾丸だけでなく、クニツイクサの銃弾の嵐も、全て、だ。そして、ふとした瞬間に弾き飛ばされてしまった。結果、周囲の幻魔たちに被害が及ぶものだから、幻魔たちが鬼級と距離を取った。
幻魔たちの怒りは、当然、鬼級にではなく、幸多に向けられる。
怒号とともに殺到する無数の魔法は、真白の魔法壁に防がれるのだが。
「わたしの名は、バルバトス。〈七悪〉が一柱、〈傲慢〉を司りしアーリマン様の僕」
「アーリマンの……僕!」
その瞬間、幸多の頭の中に、闇そのもののような男の姿が浮かんだ。
「やっぱり魔像事件は〈七悪〉が絡んでいたんだね!」
そう叫んだのは、荒井瑠衣であり、それが真言だということに気づいたのは、闇の波動がバルバトスを打ちつける様を見たからだ。
バルバトスが頭上を仰げば、魔法士の背後に二体の星霊が浮かんでいた。
荒井瑠衣の星象現界だ。