第九百十六話 圧倒(二)
「あれか」
オロバスは、遥か前方に純然たる魔力の光が煌めく様を見ていた。
その光に満ちた魔素質量は、膨大極まりなく、圧倒的というほかなかった。とても人間のような惰弱で低劣な生物が発しうるものではないのだが、しかし、人間が練成し、放出した魔素質量である事実は認めざるを得ない。
疼く。
まばゆいばかりの光によって戦場が蹂躙されていく光景を目の当たりにすれば、オロバスとて、過去に思いを馳せるしかない。
霊級、獣級の幻魔たちが一蹴され、消し滅ぼされていくのだ。対抗することは愚か、抵抗することすらかなわず、断末魔の声を上げていく。ただ無慈悲に鏖殺されていくだけだ。
それは、妖級幻魔が全力を上げてようやく食い下がれるかどうかといったほどに凶悪無比な力である。
あの力は、かつて、オロバスを打ちのめし、エロスの幻躰をも撃滅せしめた魔法と似ている。
星象現界。
それが人間たちが発明した魔法技術だということを知ったのは、つい先日のことだ。
「なるほど。確かに捨て置けぬな」
オロバスは、大いに納得するとともに。手にしていた大身の槍を掲げた。柄頭に馬の尾の飾りをつけた槍は、嘶くように波動を放つ。さすれば、周囲に控えていた彼直属の妖級幻魔サキュバスたちが、すぐさま彼の意図を理解して、動き出した。
己が影に飲み込まれるようにして姿を消した十体のサキュバスは、同じく妖級幻魔ウェンディゴたちを引き連れて前線へと向かっていったのだ。
ウェンディゴは、全長五メートル以上の巨躯を誇る巨人だ。異形の骸骨の集合体としか言いようのない姿は、禍々しく、異様だ。しかし、上位妖級幻魔というだけあって、その能力は妖級の中でも極めて高い。しかも、双魔殻印を刻んでいるのだから、戦闘力は一般的なウェンディゴとは比較にならない。
とはいえ、双魔殻印持ちの幻魔たちすらも容易く蹴散らされている以上、油断はできない。
サキュバスとウェンディゴたちだけでどうにかなる相手などではないことは、一目でわかるのだ。
それでも、軍を動かさないわけにはいかない。
「無駄なことをされる」
背後から聞こえてきた声に、オロバスは、目を細めた。
彼の愛馬トライコーンの影から染み出すようにして現れたのは、青ざめた男の姿をした鬼級幻魔だった。魔法使いのような黒い衣を纏った男。
「無駄か」
「ご覧の通り、皆代統魔の力は圧倒的ですから。彼が此度の戦いに動員された時点で、こちらの戦略そのものが破綻したといっても過言ではありません」
「破綻……」
「だから申し上げたのです。央都を攻め立てるのであれば、エロス殿の力を借りるべきだと」
「馬鹿なことを」
オロバスは、苦い顔になりながら、前方を見ていた。青白い男がオロバスの隣に立つ。幻魔らしい異形さが多少なりとも確認できるものの、その全体像としてはほとんど人間に近い。長身痩躯。黄金色の頭髪と、青ざめた肌を持ち、全身に黒衣を纏う男。
名を、バルバトスという。
バルバトスがオロバスの前に現れたのは、つい先日のことだ。バルバトスは、誕生したばかりの幻魔だというが、央都の内情についてはオロバスやエロスよりも余程詳しかった。
数十年前、突如として眼前に誕生した人類の都市は、オロバス、いや、エロスにとって垂涎の的だった。
人類など、魔天創世で滅びるべくして滅び去ったはずの種族である。いまさら生き残りが現れたところで、低劣極まりない人間どもに遅れを取るいわれがなかった。
もっとも、エロスにしろオロバスにしろ、すぐさま央都侵攻を企てなかったのは、長らくの間、それが人類の都市であるとは気づかなかったからだ。気づきようがなかったというべきだろう。
なぜならば、エロスは、近隣の〈殻〉との、鬼級幻魔との闘争に明け暮れていて、オロバス領近辺で起きていた異変を察知することができなかったからだ。
幻魔には、時間感覚というものがない。
寿命がなく、成長も老化もなく、変化もない幻魔にとって、時間は有限ではないからだ。無限に等しく、永遠に生き続けられる幻魔にとって、数年、数十年単位で物事を考えるのは、ごくごく当たり前のことだった。
近隣の〈殻〉の切り取りも、長期的な視野を持って行っているのである。
だから、ということもあるのだろうし、人類側が隠し通すのが上手かったというのもあるだろう。
央都の中心、葦原〈あしはら〉市と呼ばれる都市は、およそ五十年前に誕生したという。
魔暦百七十年頃のことだ。
かの悪名高き鬼級幻魔リリスの〈殻〉バビロンを制圧した人類は、その地に人類復興の拠点として央都を作り上げたのだ。それから五十年、央都は拡大し続け、いまでは四つの〈殻〉の跡地を領土とするほどになっていた。
その事実に気づいたとき、エロスは、大いに興奮した。
オロバスが呆れるほどの興奮ぶりには、理由がある。
エロスは、幻魔の本能に忠実な鬼級だ。つまりは、生まれ持った領土的野心に素直であり、誕生したときから今日に至るまで、〈殻〉の拡大に全力を注いできたのだ。
そんなエロスにしてみれば、人類が領土を持っているという事実ほど、歓喜させるものはなかったに違いない。
人類は、あらゆる能力が幻魔に劣っている。魔素質量など比較するのも馬鹿馬鹿しい。
まともに戦えばこちらが勝利するのは、火を見るよりも明らかだ。
そのような考えの元、エロスは、人類が愚かにも空白地帯に築き上げた都市への攻撃を行った。
五年前のことだ。
光都と呼ばれる輝きに満ちた都市は、オロバス軍の攻撃によって壊滅したものの、しかし、央都侵攻の橋頭堡《きょうおt》にはなりえなかった。
オロバスが撃破され、オロバスの幻躰に潜んでいたエロスすらも撃退されてしまったからだ。
そのとき、オロバスは、人間の魔法士の底力を思い知ったものだ。
だから、油断などはしていない。
していないのだが、しかし――。
(想定外ではある……か)
バルバトスがもたらした情報を元に組み上げられた央都侵攻作戦は、その情報の正確さを明らかにするとともに、人類が五年前とは比べものにならないほどの力をつけたことを証明するかのようだった。
「エロス様御自らに出陣願うほどのことではあるまいよ」
「では、オロバス殿だけで対処されると?」
「貴様の力も当てにしているが」
「……まあ、よろしいでしょう。これもまた、運命」
バルバトスは、少しばかり考え込むような顔をしたものの、オロバスの意に応じるようにして影に消えた。
オロバスは、バルバトスが何者なのか、知らない。
突如としてエロスの目の前に現れた鬼級は、エロスに取り入り、家臣となったのだ。序列としては、オロバスの下に位置している。よって、オロバスの尊厳が踏みにじられることこそなかったものの、この頃、エロスはバルバトスばかりを呼びつけているという話があり、それがオロバスには気に食わなかった。
オロバスは、百年以上もの間、エロスに仕えているのだ。エロス最大最高の家臣という自負があり、そこにこそ、己の存在意義を見出している。
エロスの寵愛を受けるべきは己である、と。
エロスがバルバトスを厚遇している理由も、理解している。
バルバトスがオロバスには手に入れようのない央都の情報を大量に持っていたからであり、それらの情報が央都制圧計画の根幹になり得るからにほかならない。
エロスの行動理念は、第一に両度拡大であり、それ以外は二の次なのだ。故に、バルバトスが重用されるのも無理からぬことなのだが、それがオロバスには面白くない。
故にこそ、軍を起こした。
バルバトスが重用される理由が央都にあるのであれば、その央都を制圧せしめれば、エロスの寵愛は、再びオロバスに集中するだろう。
当然の道理に疑問はなかった。
オロバスは、ウェンディゴの巨体が、断末魔を上げながら崩れ落ちていく様を見た。サキュバスたちが舞い踊り、黒い魔力弾を乱射する最中、莫大な光が渦を巻けば、嵐となって吹き荒び、幻魔たちを消し飛ばしていく。
「星象……現界!」
オロバスは、愛馬の腹を蹴った。双頭の合成幻魔トライコーンが唸りを上げ、魔力を爆発させた。
人間どもに圧倒されるのを放っておくわけにはいかない。
「圧倒するは、我にあり」
オロバスの怒号が、天地を震撼させるかのように響き渡った。