第九十話 幸多と真
幸多が第七軍団兵舎を出ると、美由理に言われた通り、大雨だった。
頭上には鉛色の雲が幾重にも覆い被さっており、簡単には退いてくれそうになさそうな気配が漂っていた。しばらくは降り続くのだろうし、それは、幸多にとっては厄介以外のなにものでもなかった。
傘ではなく、雨合羽にするべきだったのではないか、と、いまさらのように己の考えの甘さを痛感する。
雨合羽ならば、少なくとも身につけている衣服が濡れる心配はない。それどころか、現代の技術で開発された雨合羽は通気性も良く、決して蒸れるということのない優れものなのだ。多少濡れたとしても、速乾性の衣服を着ていればなんの問題もない。
問題があるとすれば、傘のように瞬時にしまえないことくらいだろう。
幸多は、鞄の中から収納展開式の傘を引っ張りだし、さらに傘そのものを包み込んでいた袋から取り出そうとしたところで、目の前の人物に気づいた。
草薙真が、雨の中、傘も差さずに突っ立っていた。銀鼠色の髪も、身につけている高級そうな衣服も、一切雨水に打たれていない。彼の全身を包み込むように展開された魔法の壁のおかげだろう。
まるで雨露の方が彼を避けているような、そんな光景が幸多の目に飛び込んできている。
「魔法不能者は、不便だな」
「魔法士はとっても便利だね」
「済まない」
「え?」
「嫌味を言うつもりはなかった」
「そんな風に受け取っていないよ」
幸多は、心底困り果てたような真の反応に笑うほかなかった。
幸多にしてみれば、当たり前のことを当たり前のようにいわれただけであって、そのことを不快に思うこともなければ、傷つくこともなかった。
彼の言うとおり、魔法不能者は、不便なのだ。ただし、それはただの魔法不能者ではなく、完全無能者の幸多ならではの不便さかもしれない。
幸多以外の魔法不能者ならば、真のように魔法は使えずとも、魔具を用いることができる。雨から身を守るための魔具を使えば、傘や雨合羽を用いるより圧倒的に楽に雨天を歩き回ることができるはずだ。
もちろん、魔法士ほどの自由さ、便利さは、魔法不能者にはないのだが。
それでも、幸多よりは余程、この魔法社会の恩恵を受けることができるだろう。
「それはともかく、なんでまたこんなところに? もしかして師匠の顔でも見に来たの?」
「もう師匠呼びとは、随分と慣れるのが早いな。おれにはまだまだ、そんな風には呼べない」
「そう呼べって師匠がいうからだよ。ぼくだって、めちゃくちゃ緊張してるんだけど」
「そうは見えないが」
「嘘でしょ」
「本心だが」
「むう……」
幸多は、傘を袋から取り出そうとした姿勢のまま、虚空を見遣り、再び真に視線を戻した。真がすぐ近くまで歩いてくる。
「帰るんだろう。途中まで送ろう」
「え、いいの? やっさしー」
幸多が真からの申し出を素直に受け取ると、彼は虚を突かれたような顔をした。が、すぐに雨よけの魔法の範囲を広げ、幸多をも包み込む。その状態ならば、幸多が傘を差す必要はなく、両手に鞄を持って歩くことができた。
それだけでも、幸多には有り難かった。
「きみは、おれが憎くないのか?」
「急だね」
「ん?」
「いきなり剛速球を投げてきたものだから、驚いて頭の中が真っ白だよ。冗談だけど」
幸多がいつもの調子で返答すると、真は、凍り付いたように動かなくなった。まったく予期せぬ返事に理解が及ばないという顔をしている。
「あ、ええと、ごめん。真面目に答えるね」
「いや、こちらこそ済まない」
「謝らないでよ、余計に辛いからさ」
「すまん」
「いや、だから……もう」
などといいながら、幸多は、彼のある種の生真面目さには納得が行く想いがした。変に真面目すぎるから、あんな風にねじ曲がっていってしまっていったのではないか、と想像する。
大雨の中、戦団本部敷地内を歩いて行く。第七軍団兵舎から正門前までそれなりの距離があり、その間中、幸多は真と話を続けた。
「きみを憎む理由なんてないよ。きみの統魔に対する気持ち、わからなくはないものだったし」
「そうなのか?」
「統魔は全てを持っていて、ぼくには全てがなかった。それは、統魔が家族になったときからずっと突きつけられてきた現実で、だから、なのかな」
幸多は、言葉を探して、視線を彷徨わせた。雨が降りしきる戦団本部敷地内には、人影が見当たらない。いくら魔法で雨除けが簡単にできるとはいえ、この大雨の中で作業をしようなどとは考えないのかもしれない。
今朝、幸多が正門前で見た人集りの姿もなくなっていた。
新規入団者が戦団本部を訪れる瞬間を映像として撮ることができた以上、もう用事はない、とでもいうことなのか、それとも、大雨を嫌ったのか、幸多にはわからない。
「ぼくは、統魔を羨んだり、統魔に憧れたりすることはあっても、憎んだり、恨んだりするようなことはなかったな」
「……きみは、子供のころから人が出来ていたんだろう。おれとは違う。いや、大抵の人間とも、か」
「そう?」
「そうさ。おれのようなただの子供は、家の事情で戦団に入れないってなったとき、絶望するしかなかった。星央魔導院に入って、戦団に入って、導士として活躍する。それがおれの子供のころの夢だったんだ」
少し気恥ずかしそうに、真は、言った。それが彼の本当の想いなのだということは、彼の真っ直ぐな言葉を聞いていれば、わかる。嘘でも大袈裟に誇張した話でもなんでもない。
彼の本音であり、本心。
雨の音が、少し遠い。
真が幸多ごと包み込むように展開する魔法の壁が、雨音そのものを遠ざけているようだった。
「おれは、子供のころ、幻魔災害に遭遇したことがあるんだよ。そして、麒麟様に助けてもらった」
「ええ、いいなあ」
「いいだろう」
真は、自慢げで少し誇らしげな顔を幸多に見せた。
幻魔災害に遭遇することそれ自体はいまとなっては珍しいことではないにせよ、伊佐那麒麟に助けられるというのは、中々あることではあるまい。
子供のころと言うからには十年くらい前だろうが、そのころには、伊佐那麒麟は既に前線から退き、いまのように後進の育成に力を注いでいたはずだ。そんな麒麟に救助してもらい、幻魔と戦う様を目の当たりにすれば、子供心に憧れを抱いたとしても不思議ではない。
彼はその時、伊佐那麒麟の勇壮な姿に意識を灼かれ、そのことばかり考えるようになったのではないか。
「だから、さ。おれは、戦団に入って、麒麟様のお役に立ちたい、と思うようになった。そればかり考える日々だったよ。子供だったから、それしか考えられなかったんだ」
「でも、家の事情で戦団に入れなくなった」
「ああ」
真は、低く、うなずく。
そのときの彼の気持ちたるや、想像するに余りある。絶望的だったのだろう。それこそ、夢も希望も失われてしまったのだ。
彼にとってもっとも輝かしい未来が、手に届かないものになってしまった。
そこから彼の心根が折れ曲がっていったのだとしても、それを責めることはできまい。彼自身も、彼にその道を強いた親たちも。
それぞれの家庭にはそれぞれの事情があり、それを部外者がとやかくいうのは身勝手以外のなにものでもない。
故に、幸多には、草薙家の事情に首を突っ込む道理はなかったし、なにもいえなかった。
「それからさ。おれは、この世の全てが悪いもののように思えるようになってしまった。おれだけが、自分だけが不幸で、自分以外の全てが輝いて見えたんだ。特に新星の如く現れた皆代統魔は、おれにとって最大の敵になっていった」
真が統魔に対し、異常なまでの敵愾心を燃やしていたことは、英霊祭の一件で理解したものだが、そうした背景がわかると、納得が行く気がした。
統魔の事情を知らない部外者からすれば、統魔の人生は順風満帆以外のなにものでもなく、綺羅星のように光り輝いて見えていたことだろう。
彼には全てがあるように見えたはずだ。
幸多だって、統魔と兄弟ではなく、彼が導士になろうとした理由や原因を知らなければ、真のように、いや、彼以上に嫉妬していたかもしれない。
それくらい、皆代統魔に関する話というのは、大きく膨らんでいて、この上なくきらびやかだ。
まさに超新星のように。
「いまとなっては馬鹿馬鹿しいことだと言い切れるが、あのころは……そう、つい最近まではそれがおれの世界の全てだった。真実だったんだ」
真は、天を仰いだ。幾重にも折り重なった鉛色の雲から、間断なく降り注ぐ大量の雨粒は、彼の眼前で突如として逸れるようにして流れ落ちていく。その雨模様すらも、かつての真ならば、自分を嘲笑うためのものだと解釈したのではないか。
そんな風にすら、思ってしまう。
「でも、もう、そんなことはない。おれは、生まれ変わった。生まれ変わることができた。全部、きみのおかげだ、皆代幸多」
「それはちょっと大袈裟に言い過ぎだと思うけど」
「そんなことはない。おれ自身がそう感じているんだ。きみと戦えて良かった。きみに全力でぶつかって、きみに叩き潰された。そしてきみは、おれを認めてくれた」
真の脳裏には、幻闘の光景が過っていた。真の大技、擬似召喚魔法・七支宝刀が一切通用しなかったどころか、それ以外の魔法も完全に対処されてしまった。幸多の完全勝利といいきっていい。
その結果、叢雲高校は、天燎高校に逆転優勝をもぎ取られた。
けれども、それで良かったのだ、と、いまならばはっきりと断言できる。
「それが、嬉しかったんだ」
真は、曇り空すらも愛おしく思えるようになった心境の変化、その最大の原因を幸多に見ていた。ただ幸多に敗れただけではない。激闘の最中、彼がかけてくれた言葉の数々が、脳に焼き付いていて、離れない。
「たぶん、ぼく以外の皆も、きみのことを認めていたと思うよ」
「……弟にもそう言われたよ」
「だろうね」
幸多には、苦笑するしかなかった。
当たり前のことだった。
彼の才能、技量を認めない人間は、この魔法社会には存在しないはずだ。彼は生粋の魔法士であり、魔法士としての実力は、学生の水準を大きく超えるものだ。黒木法子と並んでいるか、あるいはそれ以上かもしれない。
統魔と同等といっても言い過ぎではないだろう。
結局、そんな彼の実力を認めていなかったのは、ほかならない彼自身だった、ということだ。
「いまなら、実のいっていることも理解できる。でも、あのとききみに敗れ、そんなきみにそういった言葉をかけてもらわなければ、周囲のそうした声も聞こえなかったままだっただろう」
「まるでぼくが恩人みたいな言い方だね」
「恩人だよ」
「……重い、重すぎる」
「これはおれの一方的な想いであって、きみがそれをどう受け取るかはどうでもいいことだ。ただおれが感謝しているということを伝えたかったんだ」
真は、幸多の目を見た。褐色の瞳には、困惑の色が隠せないようだが、そんなことは、真にはまったく関係がない。
彼は、心からの言葉を紡いだ。
「ありがとう」




