第九百七話 露払い(一)
『視界は良好。オロバスの御尊顔まではっきりと見えるぜ。知っての通りの馬面だが……記録じゃあもっと馬っぽかった気がするんだが』
『ああ、それ。わたしも気になってた!』
『オロバス。旧世紀から伝わる作者不明の魔術書レメゲトン、その第一書ゴエティアによれば地獄の二重の軍団を率いる偉大なる君主。序列は五十五番目。馬の姿で現れるが、人間の姿にもなれるという。過去・現在・未来のあらゆる事物について――』
『あー……始まっちゃったよ、いわゆるひとつの悪魔学』
『おい、いまはそんなときじゃないだろう!』
『……ええ、もちろん、わかっていますとも』
(なんだなんだ? だれも緊張していないのか?)
通信機を飛び交う同僚たちの会話があまりにも暢気なものに聞こえて、松波桜花は、自分だけ取り残されているような気分になりかけていた。
彼の目の前には、戦場が広がっている。
戦場。
そう、現実の戦場だ。
人類生存圏・央都、その一都市である大和市の西方に広がる空白地帯を縦断するようにして聳え立つ境界防壁が、彼らの遥か後方に位置している。
地上二十メートルもの巨大な防壁は、央都四市を外敵から守るべく短期間で作り上げられた代物であり、護法の長城とも呼ばれている。
央都防衛構想への企業連の参入は、戦団に多大な力を与えたのである。
慢性的な人材不足、人手不足に悩まされていた戦団にとって、企業連との協力関係の構築ほど望ましいものはなかったのだろう。
そのおかげで央都防衛構想の抜本的な見直しが行われ、護法の長城をごくごく短期間で作り上げられたのだ。それによって、央都市民を護りやすくなったのはいうまでもない。
長城は、巨大な霊場防壁であり、外敵が央都に攻撃しようとするのであれば、まずは、これを突破しなければならない。
全長二十メートルの建造物は、魔法合金製ということもあって、生半可な攻撃ではびくともしない。高いだけでなく、分厚くもあり、突破するのは簡単なことではなかったし、長城を攻略しようとしている間に戦団が戦力を結集させられるのである。
もっとも、近隣の〈殻〉が長城への攻撃の意図を見せれば、それだけで戦団は対応可能であり、戦力を派遣することができる。
そして、長城への攻撃者に対して先制攻撃を行うことだって可能となる。
いまだって、そうだ。
戦団が長城に戦力を結集させたのは、央都西方に位置するオロバスの〈殻〉に、央都侵攻の意図が見えたからだ。
大量の幻魔が軍隊然として整い始めれば、その意図は明らかだ。
央都方面への進軍である。
そして、その目的は央都の制圧であり、手始めに長城を突破し、大和市へ攻め込もうというのだろう。
だからこそ、戦団は、三軍団を長城に結集させた。
そして、彼ら。
松波桜花を始めとする高天技術開発・機動戦闘大隊クニツカミの隊員たちは、クニツイクサを操縦するべく、神座に乗り込んでいるのである。
神座とは、汎用人型戦術機クニツイクサを操縦するための機械である。
国津軍、あるいは、国津兵。
全長三メートルの魔法合金の塊は、巨人そのものといっても過言ではない。白と銀を基調とする装甲を纏った巨人たちが百機、長城の前方に展開する戦団三軍団の最前線に立ち並ぶ姿は壮観そのものに違いないが、残念ながら、桜花たちの目には見えない。
桜花たちは、それぞれが操作するクニツイクサの視界から、戦場を見ているのだ。
クニツイクサを遠隔操作するための機構である神座は、円筒状の機材であり、一基につき一人の操者が乗り込む形になっている。
神座の中には座席があり、操者が座り込むと、各部位に神経接続を行う。そうすることにより、操者の意識は、クニツイクサと同期するのである。完全に同期すれば、幻想空間上で幻想体を動かしているのと同じ感覚になる。
ただし、幻想体と大きく異なるのは、クニツイクサは三メートルの巨人であり、圧倒的な推力と、巨大すぎる力を持つという点、そしてこれがもっとも重要なのだが、魔法を使えないというところにある。
だが、問題はない。
むしろ、魔法を使えないというのは、利点だった。
魔法を使うために意識を割く必要がないからだ。
百機のクニツイクサは、機銃・撃神を右腕に抱えるように武装し、左手には近接戦闘用の武器である機剣・斬神、あるいは機槍・衝神を握り締めている。
これまで何度なく運用試験を行い、調整と改良を行ってきた兵装群は、操者たちの半端な魔法以上に高性能、高火力といっても過言ではない。
桜花などは、魔法士として戦場に立つことなど不可能な魔法技量の持ち主に過ぎないが、しかし、操縦技量でいえば一級品だったし、クニツカミの中でも群を抜いていることには自信があった。
しかし、緊張感は、ある。
手に汗握るとはまさにこのことであり、決して広くはない操縦席の中にいる感覚が沸き上がってくるのは、クニツイクサとの同期の完全性が薄れているからだろう。
幻魔との戦闘そのものは、これまで何度も経験している。
クニツイクサの運用試験は、戦団の衛星任務を活用して行われてきているのだ。桜花は、その際の操者として空白地帯に降り立ったし、幻魔と激闘を演じてきているのだ。
実戦経験は、ある。
しかし、本格的な戦闘となると、これが初めてといってもいいのではないか。
それも、央都を護るための戦いである。
これまで戦団の導士たちに全てを任せきっていた一市民に過ぎなかった桜花からすれば、想像だにしなかった大舞台だ。
確かに、視界は良好だ。
クニツイクサの頭部に搭載されたカメラは、操者が意識するだけで拡大され、遥か遠方まで捉えることができる。長城西方を流れるどす黒い川の向こう側、オロバス領に充ち満ちた大量の幻魔がはっきりと見えているし、その数まで正確に把握できるようだ。
最前列に膨大な数の霊級幻魔が展開し、獣級、妖級幻魔が布陣しているのだ。
さらにその後方に広がるオロバス領の様子すらも確認できる。
幻魔造りの建物群がその異形さを見せつけるようにして乱立しており、幻魔が社会を構築しているという事実を改めて理解させるようだった。
だが、そんなことはどうでもいい。
桜花は、張り詰めていく意識を宥めるようにして、息を吐く。
同僚たちの会話に混ざろうともせず、神経を集中させ、開戦の時を待つのである。
(落ち着け、おれ)
呼吸を整え、意識を研ぎ澄ませる。
これまで何度となく訓練を行ってきたのだ。それこそ、クニツイクサの操者に抜擢されてからというもの、毎日だ。日々調整され、更新される神座の性能を確認し、クニツイクサを己の肉体そのものとして認識できるように、馴染ませてきたのだ。
幻想空間では数え切れないくらいに戦ってきたし、現実世界でも何度も幻魔を斃している。
緊張する必要はない――そう言い聞かせて、桜花は、ようやく落ち着きを取り戻した。すると、クニツカミの隊長・姫路道春の声が聞こえてきた。
『よく聞け。我々クニツカミの役割は、戦団の、導士様の露払いである。クニツイクサは、新世代幻魔殲滅兵装と銘打たれているが、妖級以上の幻魔を斃すことは困難を極める。それが現実だ。現状、我々にできることは、導士様の道を阻む雑魚を蹴散らすことだけだ。そして、それだけで良い。無理をする必要はない。やれるべきことをやれ。良いな!』
「はい!」
桜花は、全力で応じると、道春が号令をするのを聞いた。
『征くぞ!』
先頭の一機が大地を滑走し始めると、残り九十九機の巨人も同様に動き始めた。滑走機構が土砂を吹き飛ばしながら、巨人たちを進撃させる。
クニツイクサの初陣が、いままさに始まったのである。
対するオロバス軍もまた、動き始めていた。
まず、圧倒的多数の霊級幻魔が、川を越えた。
実体を持たない霊級幻魔には、通常兵器は通用しない。