第九百六話 オロバス軍、進撃(三)
草薙真と直接対面するのは、いつ以来だろうか。
幸多は、彼の銀鼠色の頭髪にすら懐かしさを覚えていた。そしてその真っ直ぐな視線を見つめ返しながら、考える。
真は、幸多にとっては数少ない同期である。ほかには金田姉妹、菖蒲坂隆司がいるが、やはり別軍団ということもあって、直接会う機会というのは極端に少なかった。
携帯端末越しに会話したり、ネットワークを利用した幻想訓練を行うことはあったが、現実世界で会うとなると、簡単なことではない。
まず、任地が同じでなければならないのだ。
そして、そうなる可能性は、限りなく低い。
同じ任地とはつまり、葦原市の防衛任務以外にはないのだから。
だから、こうして直接顔を合わせると、驚きと興奮があった。
「真くん!」
「元気そうでなによりだ。幸多くん」
真は、幸多が喜んでくれたことが心底嬉しくて、それでも表情に出すのは難しいから、少しばかり微笑んだ。
そんな真の反応は、草薙小隊の面々にとっては珍しいことであり、ひそひそと話し合ったりした。
草薙小隊の真を除く三名、布津吉行、羽張四郎、村雨紗耶は、真のことをある程度は知っているものの、やはり、小隊として活動し始めて日が浅いということもあってか、彼のひととなりを掴みきれずにいたのだ。
真が、とにかく実直で真面目、真っ直ぐすぎるくらいに真っ直ぐな性格の持ち主だということは、第十軍団にいるだけで理解できる。
軍団長・朱雀院火倶夜の弟子であり、火倶夜に徹底的に扱かれながら、一切へこたれず、ただひたすらに立ち向かっている様子を見てきたのだ。
そんな彼の部下となり、日夜接している導士たちではあったが、生真面目な若手導士という印象に変化はなかった。
部下に対しても丁寧な口調を崩すことができないくらいの真面目さは、むしろ、新鮮ではあったのだが。
そんな隊長の見たこともない一面を目の当たりにすれば、隊員たちも頬を緩めるというものである。
真がどうやら皆代幸多と仲が良いらしいという話は、知っていたのだが。
「まあ、このような状況で喜んでいいものかどうか、という話ではあるが」
「いいんじゃない? こういうときだからこそ、だよ」
「それもそうか」
真は、幸多の一言の重みに、強くうなずいた。
そういわれれば、そうだろう。
いままさに大決戦を目前に控えている。
オロバス軍は、数百万単位の大軍勢だという。大半が霊級とはいえ、獣級も百万を数え、妖級すら十万以上いるのだという。
それら大軍勢を相手に戦うのだ。
こちらの戦力も相応である。
三軍団、三千名近い導士が動員されるほどの大作戦は、これまであっただろうか。
先行攻撃作戦ですら、各軍団から選りすぐりの数百名に過ぎなかった。
そして、それ故に第五軍団長を失う羽目になったのだから、戦団上層部が今回の防衛戦のために戦力を掻き集めたのは、想像に難くない。
それだけの戦いだ。
全員が全員、生き残れるはずもない。
死者も出るだろう。
負傷者の数など、数え切れないほどになるはずだ。
ここでの再会が、最後になるかもしれないのだ。
だから、幸多は、真との時間を大切にしてくれているように感じられた。それが真には嬉しかったし、彼と知り合えて心底良かったと思うのだ。
しばし言葉を交わし、互いの健闘を祈った。そして、無事の再会を約束する。
「この戦いが終わったら、訓練に付き合って欲しい」
「うん。ぼくも、ちょうどそう考えてたんだ。真くんなら、全力を出せるし」
「それは怖いな」
「ええ?」
「冗談だよ」
真が幸多に漏らす笑顔は、一切の毒がなく、柔らかいものだ。
それは幸多も変わらない。
対抗戦決勝大会で直接やり合ったときには想像もつかなかったことだが、いまや親友と呼んでも過言ではないのだ。
だからこそ、幸多は真との別れを惜しんだが、しかし、呼び止めるわけにも行かず、彼の背中を見送った。そして。
「さて」
幸多は、真星小隊一同を振り返った。
義一、真白、黒乃の三人は、第七軍団の団章が刻まれた導衣を身につけている。幸多は闘衣だが、当然、闘衣にも団章が刻印されている。銀の月の紋象である。
「ぼくたちもそろそろ行こうか」
「おう」
「うん」
「そうだね。行こう」
三者三様の反応があり、真星小隊は、持ち場に向かって移動を始めた。
防壁拠点の各所で、そのような動きがあった。
西方防壁防衛戦と銘打たれた戦いが、いままさに始まろうとしていた。
境界防壁の歩廊から見渡すのは、空白地帯の広大な大地であり、魔界の空だ。
どこまでも突き抜けるような空は、いつになく青ざめていて、雲一つ見当たらない。風は凍てついており、轟々《ごうごう》と唸りを上げて吹き荒んでいる。陽光は激しく、真夏のように熱を帯びていた。
いつも通りの異常気象だが、気にすることはない。
気にするべきは、眼前の敵である。
前方、北から南へと流れるどす黒い川の向こう側に鬼級幻魔オロバスの〈殻〉が横たわっており、その内側に数百万体の幻魔が蠢いている。
霊級、獣級、妖級の幻魔たちが、出撃のときをいまかいまかと待ち侘びているのだ。
オロバス配下の幻魔は、闇属性が大半だ。しかし、双極属性たる光属性や雷属性の幻魔が紛れ込んでいるところを見れば、オロバス・エロス混成軍と見るべきなのではないか、と、戦団側は考えていた。
元より、オロバスはエロスに従属しているのだ。オロバス軍にエロス配下の幻魔が組み込まれていてもおかしくはない。
なにせ、二重殻印による幻魔の強化法が確認されているのだ。
そして、二重殻印には、オロバスとエロスの殻印が用いられている。エロスが己が配下の幻魔をオロバスの元に差し向けたとして、なんら不思議ではない。
そんな大軍勢の真っ只中で、オロバスの隆々たる巨躯がその存在感を発揮している。
一方、境界防壁側もまた、部隊の展開を終えていた。
総勢二千八百名の導士が、今回の戦いに動員されている。
境界防壁の歩廊に三百名余りの導士が配置され、残り二千五百名が防壁の外側に布陣していた。
星将は三名ともに戦場に在り、各軍団の導士たちの戦意は否応なしに昂揚している。軍団長みずからが先陣を切るというのだ。これで興奮しない導士などいないはずがなかったし、強い安心感もあった。
軍団長とは、戦団における最高戦力である。
軍団長たちが共に戦ってくれるというだけで心強かったし、頼もしかったし、だからこそ、全力を尽くせるというものだった。
第七軍団が中央に陣取れば、左翼に第九軍団が、右翼に第十軍団が展開した。
真星小隊は、杖長・荒井瑠衣率いる荒井大隊に組み込まれており、荒井瑠衣は、まさに最前線に部隊を展開している。もちろん、作戦通りの布陣である。
真星小隊の眼前には、これまで何度となく目にしたどす黒い死の川が流れている。
「あれが三途の川だ!」
荒井瑠衣が、大声でいった。
「三途の川を渡って現世にやってこようとする亡者どもなど、追い返してやるに限るだろ!」
「おおおおおおおっ!」
瑠衣に煽られるままに導士たちが吼えた直後だった。
オロバス軍が動いた。
幻魔の群れが大音声を発し、大量の霊級幻魔が〈殻〉の外へと突出してくれば、当然、荒井大隊の導士たちも反応した。
「合い言葉は音!」
瑠衣の攻型魔法が、霊級幻魔ウィルウィスプの群れをずたずたに切り裂いたのを皮切りに、大量の魔力体が敵陣に殺到した。
戦いの火蓋が切って落とされた以上、攻撃の手を止める理由はない。
幸多もまた、飛電改の引き金を引いた。
前方にばら撒いた弾丸は、大量の霊級幻魔を通り抜け、その後方から迫りつつあった獣級幻魔バイコーンの集団をこそ、足止めした。
バイコーンの唸り声が、魔法を呼ぶ。
央都西方防衛戦は、こうして幕開けとなったのだ。