第九百五話 オロバス軍、進撃(二)
オロバス軍が動いたという報せが戦団本部に届いたとき、護法院を頂点とする戦団上層部が混乱に襲われるなどということはなかった。
オロバス軍が央都方面への侵攻を企てていることはわかりきっていたし、入念に準備してもいたからだ。むしろ、準備が無駄にならずに済んだことに安堵すらしたものもいたかもしれない。もちろん、オロバス軍が侵攻してこなかったほうが遥かに良かったのだが。
そうはいっても、既に動き出したというのであれば、対応するだけである。
戦団は、速やかに戦力を手配した。
そしてそれは、根本から徹底的に見直された央都防衛構想が、最大限に機能した形だった。
それこそ、葦原市の防衛任務についていた第九、第十軍団の派遣であり、総勢二千名の導士が西方境界防壁の第七軍団に合流、戦線の構築に至っている。
そうした対応は、境界防壁の監視カメラおよび、戦場自動撮影機ヤタガラスが捉えた映像を解析した結果であり、西方以外の他方面に同様の幻魔の動きが見られなかったおかげでもあるだろう。
故に、戦団は戦力を一極集中することができたのだ。
これがもし多方面からの同時侵攻となれば、話は全く別だったに違いない。
ただでさえ少ない戦力を多方面に展開する必要に迫られた挙げ句、戦力不足によって央都への侵攻を許す羽目になったのではないか。
そしてそうなれば、人類そのものが攻め滅ぼされた可能性がある。
「可能性としては、それが一番最悪だったわけだな」
真白が物知り顔でいってきたものの、そんなものはだれもが想像できる範囲内の話だったこともあって、真星小隊一同は彼の得意げな様子を見ているだけだった。
第七軍団所属の真星小隊は、当然、今回の防衛作戦に参加している。
防壁拠点内にて、出番を待っているところだった。
第七軍団は、一千名の軍団員のうち、八百名を動員している。
全軍団員を動員できないのは、第一、第二衛星拠点の防衛にも戦力を割かなければならないからであり、それぞれの拠点に百名ずつの導士が待機しているのである。
境界防壁は、人類生存圏をその周囲の空白地帯ごと囲い込むようにして聳え立っているのだが、内側全部が結界で覆い尽くしているわけではない。
亜霊石の結界は、境界防壁だけを包み込んでいるのであり、空白地帯は依然として空白地帯のままなのだ。そして、空白地帯には、大量の幻魔が厳然として存在しており、それらを殲滅し尽くすのは不可能に近かった。
故に、それら野良幻魔に対応する戦力は、常に確保しておく必要があるのだ。
とはいえ、境界防壁のおかげで、拠点に必要な戦力を絞ることができるようになったのは、間違いなかった。
まず、境界防壁が、外敵からの攻撃を引き受けてくれるからだ。
その間に戦力を整え、対応することができる。
そもそも、今回のように攻撃を受ける前に反応し、準備を整えられたのも、境界防壁を構築したからこそだ。
「そんな当たり前のことをいわれても困っちゃうなー」
「そうだよねえ」
「おまえたちにいったわけじゃないだろうに」
「そうだよ、可哀想だよ」
「だれが可哀想だって!?」
「そこ!?」
剣が思わず悲鳴を上げたのは、真白が自分に牙を剥いてきたのが想定外にも程があったからだ。
防壁拠点内に待機中の真星小隊の周囲には、ほかにも多数の小隊が出撃のときを待ち侘びていた。
緊張感が、防壁拠点内部に充ち満ちている。
第七軍団は龍宮戦役というとてつもなく規模の大きな戦いを経験したこともあり、導士の中には落ち着いているものも少なくない。
特に真星小隊の四人は、龍宮戦役と比較することによって精神的にも安定していた。龍宮戦役の主戦場で戦い抜き、さらにムスペルヘイムへの突入を果たした四人なのだ。オロバス軍が大軍勢とはいえ、あの戦いに比べればどうということはない。
なんといっても、オロバス軍には、鬼級が一体しかいないという事実がある。
鬼級を三体も同時に相手にしなければならなかった龍宮戦役とは、比較にもならない。
もちろん、だからといって安心してはならないということもまた、幸多たちは理解している。だから、常ならざる緊張感もまた、四人を包み込んでいるのだ。
そんな四人の目の前にいるのは、六人の導士たちだった。第九軍団の団章が刻まれた導衣を身につけた六人組は、第七軍団の導士たちにも注目の的だった。特に注目を集めているのは、一人だけ派手な導衣を身につけた少女である。
本荘ルナだ。彼女の装いはとにかく派手であり、人目を引いた。
六人組とは、皆代小隊なのだ。
「おれはちーっとも可哀想じゃねえ!」
「兄さん、落ち着いて」
「黒乃、止めるな! これは男の戦いだ!」
「なにが!?」
なにやら興奮状態に陥ってしまった兄を羽交い締めにしながら、黒乃は素っ頓狂な声を上げた。そんな九十九兄弟の反応にも、しかし、幸多はいつものように横目に見て、それから統魔と向き合う。
「まさか同じ戦場に立つ日がこんなにも早く来るなんて、思ってもみなかったよ」
「来ないなら来ないほうがいいからな」
統魔は、幸多が部下に注意すらしない様子を見て、我が身を振り返った。自分も同じだ。部下の自由奔放さには、時折、小隊長としての役割を放棄したくなる。
そんな統魔の左腕に絡みついているのがルナであり、彼女と統魔の様子を横目に見ているのが上庄字だ。そして、剣と真白が言い合っている様を囃し立てる新野辺香織と、困ったような顔で立ち尽くす六甲枝連の姿を見れば、幸多にも、皆代小隊の面々が隊内でどういった立ち位置なのか一目瞭然だった。
それは、真星小隊にもいえるのかもしれない。
言いたい放題の真白と、それを抑える役割の黒乃、そんな二人と幸多の様子を傍観する義一。幸多は、三人を取り纏める立場にありながら、好きなようにやらせている。
統魔と似ているような気がした。
「だが、オロバス軍が央都に攻め込むつもりなら、打ちのめすだけだ」
「そうだね。その通りだ」
幸多は、統魔の意見を静かに肯定すると、兄弟がこの戦いに込める想いの強さを感じ取った。
統魔としては、初めての大規模戦闘となるのではないか。
幸多より一年以上早く戦団に入った統魔は、それだけ多くの任務を経験している。数多くの幻魔災害に対応し、魔法犯罪を制圧してきたはずだ。
しかし、これほどまでの規模の戦いなど、早々起こるはずもなく、統魔がどれほどの気持ちで臨んでいるのか、幸多には手に取るようにわかるのだ。
幻魔への怒りが、瞳の奥に燃えている。
「オロバス軍を撃退しよう」
「撃退? 殲滅の間違いだろ」
「……そうだね」
幸多は、統魔の言葉の強さにうなずきながらも、多少の危うさを感じずにはいられなかった。しかし、統魔の気持ちも理解できる。
幻魔は、滅ぼすべきだ。
でなければ、人類に未来はない。
しかも、オロバスが央都侵攻の意図を明らかにしたのは、今回に限った話ではないのだ。光都事変を引き起こした張本人であり、光都を橋頭堡として大和市に攻め込み、央都全土を制圧しようとしていたのではないか。
鬼級幻魔が持つ領土的野心に駆り立てられているのだとしても、それが本能的なものなのだとしても、捨て置けるものではない。
できるのであれば、オロバス軍を撃退するどころか滅ぼし尽くしたいというのは、戦団上層部の本音に違いなかった。
そのためにこそ、三軍団が動員され、三名の星将が投入される運びになったのだ。
対鬼級には、最低でも三名の星将が必要不可欠だという。
この戦いには、三名の星将と二十名以上の杖長が参戦している。
これほど心強いことはなかったし、たとえ数百万の幻魔が相手でも負ける気がしなかった。
龍宮防衛戦とは、端から様子が違うのだ。
「死ぬなよ」
「統魔こそ」
「ああ」
幸多と統魔はそう言い合って、真星小隊と皆代小隊は離れた。
「簡素だな」
そんなとき、不意に話しかけてきた人物に幸多は、目を丸くした。草薙真だ。
「そういえば、そっか」
真は、第十軍団の所属である。
今回の防衛作戦は、第七、第九、第十軍団の導士、約三千名が動員される大規模作戦であり、真がいるのは当然といえば当然だった。
真もまた、幸多同様に小隊を率いていた。