第九百四話 オロバス軍、進撃(一)
オロバスが、動いた。
鬼級幻魔オロバス配下の幻魔が多数、オロバス領東部の川岸に整列したかと思えば、その後方からオロバス自身がその巨躯を見せつけるようにして現れたのである。
鬼級幻魔に相応しい威容を誇る、人型の幻魔。
オロバスは、馬面の男の姿をしている。隆々たる巨躯は筋肉の塊のようだったし、その上から身につけた甲冑は黒曜石で出来ているように暗く輝いていた。長い黒髪は、さながら鬣のように風に揺れており、禍々しく輝く双眸は、遠目からでもはっきりと認識できるほどに威圧感を放っている。その全てが、オロバスの力を見せつけるかのようだ。
そして、オロバスは、双頭の馬に跨がり、一軍の将の如き風格を漂わせていた。
オロバスが跨がる双頭の馬は、ユニコーンとバイコーンの特徴を併せ持っている。つまり、二つの頭にそれぞれ一本の角と、二本の角を持っているということだ。体毛の色は、灰色である。それぞれの額に二重殻印が刻まれており、合計四つの目が赤黒く燃えていた。
オロバスは、長大な矛を手にしているのだが、その異形さたるや見るもの全てに嫌悪感を覚えさせるようだった。
「こちとら恐府攻略に集中したいってときに、難儀だねえ」
「まったく。攻め込むのならば、相手の都合も考えてほしいものだ」
「だからじゃないか?」
「うん?」
「こちらの事情を踏まえれば、いまこそが攻め時だろう?」
「そりゃそうか」
荒井瑠衣は、水足レン、躑躅野莉華と顔を見合わせた。
第一衛星拠点の遥か西方に築き上げられた境界防壁に、彼女たちはいる。
オロバス軍の央都侵攻の気配を察知した戦団は、速やかに戦力を第一衛星拠点に集中させた。動員できる限りの戦力を投入したのである。
敵は、オロバス軍。
オロバス軍は、総勢八百万の大戦力を誇るが、当然のことながら、その全戦力を動員できるわけもない。いくらエロスと同盟、あるいは主従関係を結び、後方を護ってもらっているとはいえ、周囲には多数の〈殻〉があり、殻主たる鬼級幻魔が常に隙を窺っているのだ。
オロバスが全戦力を動員すれば、その瞬間、オロバス領は地獄のような戦火に包まれるだろう。
スルトのムスペルヘイムがそうであったように、他の〈殻〉への侵攻の際には、常に防衛戦力を手配しておくものなのだ。
とはいえ、数十万どころか数百万単位の幻魔が動員されたとしてもなんらおかしくはない。
オロバスは、エロスとともに光都事変を引き起こした元凶なのだ。
光都そのものに問題があったというのはさておき、オロバスが央都方面に領土を拡大する意図を持っているのは間違いなかった。
それがエロスの意向であれなんであれ、確かなのだ。
そして、光都事変において、戦団に、人類に敗れ去ったという事実は、鬼級幻魔にとっては拭いがたい屈辱的な出来事だったのではないか。
『故に、オロバスは、この度の侵攻に全力を尽くしてくる可能性が高いと見ているが、どう思うかね』
『可能性は高いでしょう。鬼級幻魔です。人類を劣等種と見下しているのが彼らですから。滅ぶべき、いや、滅び去ったはずの種族に敗れ去った事実は、鬼級にとっては耐え難いものだったのだとしてもなんらおかしくはありません』
『幻魔の人間臭さについては、我々もよく知るところではあるからな。そのような考えに至ったのだとしても、不思議とは思わん』
幻魔が人間のように感情豊かで様々な考え方を持っているということが判明したのは、随分と昔のことではあるのだが、戦団の導士たちは、実際に目の当たりにしたことによって、理解したのだ。
幻魔もまた、多種多様な個性を持つ生き物なのだ、と。
『オロバスが、光都事変の失態を取り返すべく攻め込んでくるというのであれば、我々もまた、あのときの借りを返すだけだ。そうだろう、諸君』
神木神威にそう投げかけられれば、美由理も頷くしかない。
彼女の脳裏には、五年前の光都の戦場が燃え盛っていた。数多の死が意識を席巻するようだったし、細胞という細胞を燃え上がらせるようだった。激情が、胸の内を渦巻いている。
いままさに前方に燃え盛っているのは、莫大極まりない幻魔の大軍勢が発する魔素であり、魔力だ。禍々しく破壊的な魔素の奔流が、大軍勢を包み込んでいるようだった。
境界防壁は、央都四市全域を大きく囲うようにして聳え立っている。
央都四市をひとつの〈殻〉と見立てるようなそれは、亜霊石によって生み出される霊場に護られており、人類生存圏を巨大な結界で包み込んでいるのと同じなのである。
故に、境界防壁外から野良幻魔が攻め込んでくることは、ありえない。
境界防壁に攻撃してくるものがあるとすれば幻魔の軍勢のみであろう。
そして、いままさにその瞬間が訪れようとしているのだ。
美由理は、第七軍団の長として、多数の部下とともに境界防壁に乗り込んでおり、雲霞の如き大軍勢を見渡していた。
「霊級二百万、獣級百万、妖級二十万、鬼級一――これほどの大軍の攻撃に央都が曝されたのは、いつ以来だ?」
とは、麒麟寺蒼秀。美由理の隣に立つ彼は、導衣を纏って立っているだけだったが、威厳があり、力強かった。
それは、美由理も変わらないが。
蒼秀率いる第九軍団は、今月、葦原市の防衛を担当していた。
葦原市の防衛には、常に三つの軍団が割かれている。葦原市は央都の中心、人類生存圏の中枢なのだ。当然の判断といっていい。
しかし、このような事態となれば、もっとも動かしやすいのが、葦原市担当の軍団なのも事実だ。
というのも、余程規模の大きな幻魔災害でも起きない限り、一軍団で対応できないこともないからだ。
そして、小規模な幻魔災害よりも、オロバス軍による大侵攻のほうが余程重大事だということは、だれの目にも明らかだ。
そのため、葦原市担当の第九、第十軍団が、今回の防衛作戦に動員されたのである。
「さあ? これ以前となると、わたしたちが生まれる前とかじゃないかしら?」
「そうだな。央都四市が成立する以前に記録されているのが、最後だ」
美由理は、火倶夜の発言に頷き、横目に彼女を見た。火倶夜も相も変わらず凜然とした様子で、隣に立っている。燃え盛る炎のような紅い髪が、風に揺らめいてる。
境界防壁は、ただ、巨大な壁として存在しているだけではない。
境界防壁の各所に拠点として活用することができる空間があり、それらは防壁拠点とも呼ばれている。
そして、美由理たちは、防壁拠点内最上層部にいるのだ。
そこからならば、前方に広がる幻魔の海をしっかりと見渡すことができた。
もちろん、そんなことをしなくとも、戦場を飛び回る無数のヤタガラスによって、オロバス軍の様子を確認することができるのだが。
「央都四市が成立して三十年ほどか? その間、大規模な侵攻がなかったというのが奇跡だな」
「それだけ幻魔たちが領土争いに躍起になっていた証なんでしょ。そのおかげで央都の人口はここまで増えた。ありがたいことよ。できればそのまま百年でも二百年でもそっとしておいてほしかったけど」
「そういうわけにはいかないだろう。そもそも、我々が先に仕掛けることになるのだからな」
「そうね。そうなのよね」
火倶夜は、静かに頷き、それから部下たちへの指示を飛ばした。
第七、第九、第十軍団の導士たちは、境界防壁の各所に配置され、展開している。
およそ三千名の導士が、だ。
なんとしてでもオロバス軍を撃退しなければならなかったし、そのためにできる限りのことをしていた。
クニツイクサの実戦投入も、その一環だろう。
白銀の鉄巨人たちが、境界防壁の前面にその隆々たる巨躯を見せつけるようにして立ち並んでいる。
幻魔の圧倒的大軍勢を目の当たりにしても一切物怖じしないのは、人ならざる機械兵器だからこそといってもいいのかもしれない。
美由理たちですら、緊張感を覚えている。
人間ならば、当然のことだ。