第九百三話 二重殻印
二重殻印。
つい先頃、オロバス軍の幻魔に見られるようになった殻印は、調査の結果、オロバスの殻印とエロスの殻印が複雑に組み合わさったものだということが判明している。
殻印の形状から分析した結果ではない。
殻印を構成する魔素が、オロバスのものとエロスのものだということがわかったのだ。
義一の真眼は、殻印を構成する魔素をも看破する。
二重殻印などという代物が確認されるようになったのは、ほんの一月以内のことだ。
戦団は、これまで何度となくオロバス軍の幻魔と交戦し、その戦果として幻魔の死骸を回収しているのだが、それら幻魔の死骸に刻まれた殻印は、オロバスのそれであった。
先月、魔暦二百二十二年十月半ばまで、二重殻印は確認されていない。
最初に発見したのは、皆代小隊と味泥小隊であり、それ以降、オロバス軍の幻魔には頻繁に確認されるようになった。
そして、二重殻印持ちの幻魔は、通常の幻魔とは比較にならない力を持っていることもまた、確認されている。
幻魔の発生が認識されてから二百年余りの間に記録されてきた膨大な数の情報は、各種幻魔の能力を徹底的に分析し、克明に記されている。
身長、体重、魔素質量、得意・不得意属性、使用する魔法、魔晶核の位置――そうした幻魔の特性は、同種ならばほとんど変わることがない。ごく稀に、例外的に微妙に異なる性質を持つ幻魔の存在が確認されることもあるが、大半が記録された情報通りの能力しか発揮しないものだ。
二重殻印の幻魔は、そうした記録から逸脱した戦闘能力を持ち、情報にない魔法を用いた。
死骸を操るマンティコアは、その代表例だろう。
殻印の二重化による能力の変化は、殻印そのものが幻魔に力を与えていることの証明ともなった。
「元より可能性として考えられていたことではあるが」
美由理は、渋い顔で告げた。
「野良幻魔と殻印持ちの幻魔で、明らかに力が違いましたからね」
「ああ」
義一の意見に頷き、手元の端末を操作する。
幻板に表示した映像の数々は、この一ヶ月の間に確認されたオロバス軍の幻魔に関するものがほとんどだ。そのうち、大きく取り上げられているのは、二重殻印の幻魔であり、多くは獣級幻魔だ。
マンティコア、ユニコーン、バイコーン、ヴィゾーヴニル。
闇属性と雷属性、そして光属性の幻魔が入り交じっているのも、オロバスの配下だけではないことを示しているかのようだ。
オロバス配下の幻魔は、闇属性が多い。そして、闇属性の双極属性である光属性の幻魔はいないはずだった。
それなのに光属性の幻魔が組み込まれているのは、なぜか。
まず間違いなく、オロバスの背後にエロスがいるからだ。
そもそも二重殻印がエロスの存在を示唆しているが、それだけでなく、エロス配下の幻魔がオロバス領に入り込んでいることが重要なのだ。
オロバスは、エロスに従属していると考えられている。
よって、エロス配下の幻魔がオロバス領にいる事自体はおかしなことではないのだが。
しかし、光都事変から五年が経過したいま現在、初めて確認されたのだから、警戒を強めなければならないのである。
オロバス――いや、エロスが央都への侵攻を企てていると見るべきなのか、どうか。
美由理は、現状得られる情報から、その可能性は決して低くないと見ていた。
というのも、ここまでオロバス軍が能動的な動きを見せたのが、光都事変以来なかったことなのだ。光都事変の直前ですら、全く動きを見せなかったオロバス領が、だ。
光都事変におけるエロス・オロバス軍の大敗は、かの鬼級幻魔たちにどのように受け止められているのか。
この五年、〈殻〉に籠もり、央都への再侵攻の可能性すら感じさせなかったことから、オロバスにとってもエロスにとっても手痛い失敗だったのではないか、と戦団側は捉えていた。央都方面への侵攻を諦め、別方面へ舵を切ったのではないか、と。
だが、この五年は、オロバスたちにとっては、ただ戦力を拡充させるための期間だった可能性が降って湧いてきたものだから、戦団は、全力を尽くしている。
オロバスが軍を率いて動き出せば、そしてその矛先が央都に向けられるようなことがあれば、大事件だ。
「その戦力が、二重殻印だと?」
「可能性の話だ。エロス・オロバス軍が戦力を強化するため、様々な策を練った。その結果、二重殻印なるこれまでに存在しなかった技法を誕生させたのではないか、とな」
美由理は、二重殻印を大写しにした幻板を睨みながら、いった。
二重殻印に関して、戦団は、鬼級幻魔オベロンに質問している。
オトロシャ軍のオベロンとは、いまも綿密に連携を取っており、恐府の内情を知る手段として活用している。
それによれば、恐府内部には多少、変化が訪れていた。
雷魔将トールが、あの日以来、雷神の庭の己が居所に籠もったままであり、恐府の防衛にも動こうとしないのだという。結果、オベロンと地魔将クシナダ、そして配下の幻魔たちだけで恐府を守っているらしい。
攻めるならば今が好機だ、などと、オベロンがいってくることはなかったが、
戦力差を考えれば、トールが動かないだけでどうにかなるとは思えない。少なくとも、戦団の準備が整うまでは、どうしようもないのだ。
それはともかく、二重殻印である。
オベロンは、二重殻印なるものを知らなかった。つまり、鬼級幻魔たちにとって周知の技術ではないということだ。
また、殻印は本来、殻主のみが配下の幻魔に刻みつけることのできる代物であり、二つの〈殻〉を跨がるようにして二種類の殻印を刻めるはずがない、とも発言している。
そのことから、二重殻印は、エロスとオロバスの密接さを示すものであり、他の鬼級が持たざる秘儀を用いたのではないか、とも考えられた。
実際、オロバスの幻躰にエロスの幻躰を潜ませるなど、通常考えられないことだったし、オベロンは、その話を聞いたとき、しばし絶句したという。
いくら幻躰とはいえ、己が体内に他の幻魔を入り込ませるなど、ありえないのだ、と。
『たとえ我が殻主であっても、そのような真似は許せませんよ』
オベロンは、もしオトロシャに体内に入られるようなことがあれば、速やかに自害すると言ってのけた。
それほどまでに鬼級幻魔とは自尊心が強いのだ。
ますますオロバスとエロスの関係性が不可解なものになっていくのだが、それは、いい。
問題は、央都が直面している新事態である。
オロバス軍が央都侵攻を企んでいるのであれば、これを速やかに撃退しなければならない。そしてそのためには、第七軍団以外からも戦力を手配する必要があった。
先頃建設された境界防壁は、第一衛星拠点の西側の空白地帯、そのど真ん中を縦断するようにして聳えて立っている。
第七軍団のみならず、衛星任務中の各軍団は、それぞれの拠点に程近い境界防壁に戦力を派遣し、隣接する〈殻〉の動向を監視することができるようになったのだ。
これによって、オロバス軍の動きは即座に把握できている。
美由理が見ている幻板のいくつかは、境界防壁からオロバス領を監視するカメラの中継映像である。
それらの中継映像からはオロバス軍がすぐにでも攻め込んでくる様子こそ見えないものの、ここのところ巡回任務中の小隊がオロバス軍と交戦する事例が後を絶たないのも事実だ。
それこそ、オロバス領が緊張感に包まれていることを証明しているのではないか。
だから、〈殻〉の周辺を巡回している導士たちに襲いかかっているのではないのか。
それ故、第一衛星拠点にも緊張感が満ちていた。
いつ何時、オロバス軍が攻め込んでくるのかわかったものではないからだ。
第七軍団の導士たちが常に緊迫感を以て事態に対応するべく準備しており、美由理もまた、戦務局に戦力の手配を要請しているところだった。
「とはいえ、だ」
美由理は、オロバス領に蠢く幻魔の群れを見据えながら、口を開く。
「オロバスが直々に攻め込んでさえ来なければ、我々だけでもどうにでもなる。無論、数百万の幻魔が一斉に押し寄せてきたのであれば話は別だが……」
「そんなことはありえない……ですね」
「そうだ。ありえない」
仮にオロバスが軍勢を率いてきたのだとしても、全戦力を動員することなど、あり得る話ではない。
なぜならば、オロバス領の周囲には複数の〈殻〉が存在し、いつ攻め込まれてもおかしくないからだ。
いや、日夜近隣の〈殻〉と領土争いを繰り広げていてもおかしくはなかったし、だからこそ、光都事変が起きるまで央都方面に攻め込んでこなかったのだ。
そして、光都事変後、形を潜めるようにして動かなくなったのも、近隣の〈殻〉との闘争の結果である。
領土争いこそが殻主たる鬼級幻魔の日常であり、〈殻〉と〈殻〉の鬩ぎ合いこそが、央都の、人類生存圏の維持に繋がっているといっても過言ではない。
だが、予期せぬことは起きるものだ。
オロバスが、動いたのだ。