第八百九十四話 オロバス領警戒任務(一)
十一月に入り、幸多率いる真星小隊は、第七軍団ともども次の任地である第一衛星拠点へと入っている。
第一衛星拠点は、央都四市、つまり人類生存圏における最西端に位置する衛星拠点である。
大和市西方の空白地帯に作られた要塞であり、擬似霊石によって護られた結界でもある。
擬似霊石は、霊石を技術的に再現した代物であり、それによって強力な結界を構築、防衛網の要を成している。
擬似霊石結界とも呼ばれるその結界の中でこそ、導士たちは、日々、過酷極まる衛星任務に当たることができるといっても過言ではない。
空白地帯のど真ん中に作られた拠点が、常に幻魔の敵意に曝され続け、いつ攻撃されるかもしれないというのであれば、安心して眠ることもままならないだろう。
もちろん、擬似霊石結界の中にいるからといって、必ずしも安全だとは言い切れないのも事実だ。
空白地帯のど真ん中なのだ。
空白地帯には、どこの〈殻〉にも所属しない野良の、野生の幻魔が跳梁跋扈しているというだけでなく、近隣の〈殻〉がなんらかの目的をもって軍勢を差し向けてくることも少なからずあった。
特にここのところ、オロバス領が騒がしい。
鬼級幻魔オロバスの〈殻〉は、大和市の真西に存在する〈殻〉である。
オロバスといえば、光都事変を引き起こした存在であるが故に抜群の知名度を誇り、戦団にとっては仇敵といっても過言ではなかった。導士たちからしてみれば、一刻も早く討ち滅ぼし、光都事変で命を落とした人々の魂を安んじたいという想いがあるのだ。
光都事変に直接関わった導士だけではない。
全導士の悲願といってもいいほどだった。
それほどまでに、オロバスとエロスという二体の鬼級幻魔は憎悪されているのである。
しかし、オロバス領への直接的な攻撃は、上層部によって禁止されている。
それもそうだろう。
「迂闊に攻撃すりゃ、どうなるものかわかったもんじゃねえもんな」
真白が、対岸に蠢く幻魔の群れを見遣りながら、肩を竦めた。
十一月上旬。
央都四市内の季節は、ゆるりゆるりと秋から冬へと向かっており、気温が下がりつつある頃合いだが、この魔界には季節感などというものは存在しなかった。
まるで真夏のようなぎらぎらとした日差しが頭上から降り注ぎ、苛烈なまでの熱気をもたらしている。それほどまでの陽光を反射する水面もまた、強く激しく燃えているようだ。
第一衛星拠点から北西へと進んだ地点に、その川は流れている。名前はつけられていないし、魔天創世以前の地名と照らし合わせることもできなかった。魔天創世によって地形そのものが激変しているからであり、魔天創世以降に誕生した川だからだ。
オロバスによって命名されている可能性もあるが、そんなことはどうでもよかった。
仮に川に名をつけるのだとすれば、この地を平定し、人類の領土として確保してからのこととなるだろう。
そんな名もなき川を挟んだ対岸がオロバス領であり、真星小隊は、岸辺からオロバス領の様子を窺っていたのだ。
先月、第一衛星拠点に入り、オロバス領を監視していたのは第九軍団である。そして、統魔率いる皆代小隊は、度々、この川沿いでオロバス軍の幻魔と戦ったという。
オロバス軍がそこまで積極的に幻魔部隊を差し向けてきたという事例は、過去になかった。
光都事変の頃ですら、オロバス領は静まりかえっていたという話だ。
だからこそ、光都がオロバス領に対して一切警戒していなかったのかもしれないが、もっとも、光都事変に関していえば、警戒していようがいまいが関係のない話だった。
光都事変は、オロバスが鬼級幻魔エロスと手を組んで引き起こした大規模幻魔災害である。
どれだけオロバス領を警戒していようとも、結果は変わらなかったというのが、戦団が下した結論だった。
戦団自体は、オロバス領への警戒は常にしていたのだ。
それでも、どうしようもなかった。
どれだけ警戒していようとも光都事変は起きただろうし、数多くの導士が命を落としたに違いない。そして、六名もの星将が戦死する結果に変わりはなかったのではないか、ともいわれている。
「その通りだよ。わざわざ藪を突いて蛇を出す必要はないさ」
とは、荒井瑠衣。
今回、真星小隊は、第七軍団の杖長・荒井瑠衣率いるロックハート小隊と行動を共にしていた。
というのも、前述の通り、オロバス領の動きが活発になっているという情報があったからだ。万が一の事態に備え、オロバス領周辺を巡回する場合には、二個小隊以上で動き回るようにと厳命されていた。
戦団は、先日、多大な戦力を喪失したばかりだ。
星将・城ノ宮日流子の戦死ほど、大きな痛手はない。
戦団は戦力の拡充に全力を上げていたが、それでもどうなるものか。
日流子の戦死によって開いた穴を埋められるとは、到底、考えられない。
そして、故にこそ、各軍団は、これ以上の戦力の低下を防ぐべく、細心の注意を払っているのだ。
「二重殻印なんてものも出てきましたしね。オロバス配下の幻魔には注意しないと」
「そう、それ」
真白が、幸多の発言に食いついた。
「それって、なんなんだ?」
「第九軍団が確認したんだろ。うちの英雄の兄弟がさ」
「その呼び方、止めて欲しいんですけど」
「なんでさ? いいじゃないか、英雄くん」
「龍宮戦役の英雄は、ぼく一人じゃありませんし、ぼくを英雄と呼ぶのであれば、小隊の皆もそう呼んでもらわないと」
「なるほど……そりゃあそうか」
瑠衣は、幸多の言い分に納得したといわんばかりに笑顔になった。
瑠衣が幸多を英雄などと呼んでいたのは、彼の活躍ぶりを賞賛したいという想いがあったからだが、無論、真星小隊全員のことを評価していないわけではない。
龍宮戦役という地獄を潜り抜け、とんでもない偉業を果たしたのは、なにも幸多だけではないのだ。真星小隊一同がムスペルヘイムに潜入し、殻石を破壊するという大役を果たした。それこそ、英雄的所業であり、幸多のみならず、義一、九十九兄弟もまた、英雄と呼ぶべきという彼の意見は当然のものだった。
そんなことはわかっているのだが、隊長である幸多をそう呼ぶのもまた、ありふれた話ではあるだろう。
「じゃあ、英雄小隊」
「それは……駄目です」
「駄目かい? 参ったねえ」
「普通に呼んでくださいよ、杖長」
「ま、そうだね」
瑠衣は、幸多の反応がここのところ砕けてきていることに満足感すら覚えていた。当初こそ他人行儀だった真星小隊一同だが、九月から任務や訓練を供にすることが増えたことで、関係性が深まったと見ていい。
それは、良いことだ、と、瑠衣は考える。
「確かに……殻印が二重ですね」
「わかるんだ?」
「うん。ぼくの真眼なら、はっきりと見えるよ」
義一はそう断言したが、同じく対岸の幻魔の群れを見つめる黒乃の目には、獣級幻魔ユニコーンの額、角の真下に刻まれた殻印が、ただ複雑な紋章にしか見えなかった。
確かに、オロバスの殻印とは異なるということは、わかるのだが。
戦団は、近隣の〈殻〉に所属する幻魔と何度となく交戦し、その死骸などから殻印を記録している。記録された殻印は、導士ならばいつでも閲覧し、確認することができたし、衛星任務となれば、任地周辺の〈殻〉に関する情報を頭に叩き込むのは当然のことだった。
黒乃は、オロバスやセベクの殻印を事前に調べ、記憶している。
その記憶と一致しないのが、いままさに河岸からこちらを睨み据えている幻魔たちの殻印であり、それが二重殻印と呼ばれる代物であるらしい。
「殻印を二重に刻んだからどうだってんだろうね?」
「なんでも、二重殻印持ちのマンティコアは、死体を操る魔法を用いたとか」
「知ってるよ。それと、能力が強化されてるって話だろ。でも、所詮、獣級は獣級に過ぎず、妖級に匹敵するほどじゃあなかったんだろ?」
「第九軍団の報告では、そうです」
「まあ、警戒しておくべきなのは、確かだけどね」
瑠衣は、部下と話し合いながら、幻魔の群れを見ていた。
河岸の〈殻〉の内側から、赤黒い無数の目が、こちらを睨み付けている。獣級幻魔の群れだ。百体以上はいるだろう。それらの大半が二重殻印であり、通常の獣級幻魔よりも強化された個体であることは疑うまでもない。
それらが一斉に襲いかかってくるようなことがあれば、激戦は避けられない。
一方、義一は、殻印の確認を進めている。
「二重になっているのは……オロバスの殻印と、エロスの殻印」
「やっぱり、まだ繋がってるんだね、オロバスとエロス」
「オロバスがエロスに従属してるって話は、本当なのかな」
「知るかよ」
黒乃の疑問を一蹴しつつ、真白は、律像を構築した。
ユニコーンの角が、〈殻〉の結界を突き破るようにして、飛び出してきたのだ。
幻魔の咆哮が、戦いの火蓋を切って落とした。