第八百八十九話 女神の試練(三)
竜級幻魔オロチの体内から吐き出され、龍宮には不要であるが故に戦団に提供されたユグドラシル・ユニットは、大和市内にある戦団の関連施設、技術創造センターに運び込まれた。
百年以上の長きに渡って竜級幻魔の体内に飲み込まれていたユグドラシル・ユニットの安全性を確認する必要もあったし、ユグドラシル・ユニットが自己保全のために構築した封印装置を解除しなければならなかったからだ。
そう、ユグドラシル・ユニットを包みこんでいた機械仕掛けの箱は、ユグドラシル・ユニット自身が作り上げたものだったのだ。
そして戦団は、ユグドラシル・ユニットを封印装置から解放するべく、技術局員を総動員した
九月上旬から取りかかり、十月の下旬になるまでかかったのは、それほどまでに厳重に封印が施されていたからにほかならない。
さすがはシステムの主機だ、と、ヴェルザンディたちは褒め称えたものだ。
補機たるノルン・シリーズもまた、システムとの繋がりが失われると、封印処置を施したものである。
しかし、リリスによって発見されると、その封印を強引に破られ、利用されてしまったのだ。
リリスは、彼女たちをノルン・ネットワークと名付け、己が〈殻〉バビロン拡大のために存分に活用していた。リリスの機械を忌み嫌う幻魔らしからぬ行動の数々は、皮肉なことというべきなのか、戦団に多大な利益をもたらしている。
リリスがノルン・ネットワークに書き残した文書の数々が、戦団にとっては貴重な情報源となったのだ。
それは、ともかく。
ユグドラシル・ユニットの封印が、解かれた。
一ヶ月以上の時間をかけ、総勢何百名もの技師を投入して解き明かすことに成功したのだ。
そしてユグドラシル・ユニットは、いままさに様々な起動試験を行っている最中なのだという。
それら起動試験が終われば、戦団は、ユグドラシル・システムの再構築に向けて動き出すだろう。
そうなれば、ノルン・システムは、ノルンの三女神は、本来の役割に戻るのだ。
本来の、ユグドラシル・ユニットの補機という役割に。
「ユグドラシル・システムが再構築されれば、わたしたちはこうして自由気儘に振る舞うことができなくなるかもしれないわ。飽くまで、可能性の話だけれど……」
「でも、極めて高い可能性だよ」
「ええ、極めて高く、否定する材料のない可能性……」
「それは……」
幸多は、女神たちの深刻で真剣そのものの表情を見つめながら、言葉を飲み込む。彼女たちにかけて挙げられる言葉がなにも浮かばなかった。安易で安直な慰めの言葉が彼女たちにどれほどの意味があるというのか。
自分がいまこうしてここにいられるのは、間違いなく彼女たちのおかげだ。
幸多は、確信とともに想うのだ。
幸多個人の力ではどうしようもない状況を打破してこられたのは、女神たちの補助が、支援があればこそだと断言する。
特に撃式《げきsき》武器に関していえば、ノルン・システムが補助してくれなければ、まともに扱えなかっただろうし、超高速で動き回る幻魔を撃破することなど不可能だったのではないか。
女神たちが火器管制を行ってくれているからこその命中精度であり、幸多の撃破数なのだ。
もちろん、幸多が深く考え込むのは、彼女たちの補助を受けられなくなる可能性に直面したからなどではない。
幸多は、レイライン・ネットワークを介した脳内通信で、いつでも三女神と言葉を交わすことができた。質問を投げかければ、即座に答えが返ってきたし、暇潰しの会話に応じてくれもした。
幸多にとって三女神は、いまや必要不可欠といっても過言ではない存在だったのだ。
極めて身近で、親しい間柄だった。
「寂しいな」
だから、ようやくひねり出した言葉が、あまりにも簡素で、ありふれたものだったことに苦笑したくもなったのだが、女神たちは、そんな飾り気のない幸多の言葉にこそ、意味を感じ取るのである。
「幸多ちゃんとの日々なんて、わたしたちの時間からすれば、ほんのごくわずかでしかないわ。でも、そのわずかばかりが、わたしたちにとっても本当に楽しい時間だったのよ」
「ノルン・ユニットとして誕生したわたくしたちは、長い間、ただの機械に過ぎませんでした。ユグドラシル・システムを支える補機なのですから、当然ですね」
「人工知能ではあったけれど、人格なんてものはなかったし、こうして人と話す能力もなかったんだ。でも、たぶん、そのままのほうが良かったかもしれない。ただの機械で。ただの歯車で。そのほうが、楽だったのかな」
「楽ではあったでしょうが……でも、わたくしは、いまのわたくしのほうが好きです。擬似的にとはいえ、世界を感じ、人と触れ合い、言葉を交わし、分かり合うことができる」
「わたしも、うん、いまのわたしが好きだな」
「ぼくだってそうだよ。でも……その結果がこの苦しみなら、いっそ……」
「スクルド」
「うん……ごめん」
スクルドは、ヴェルザンディに見つめられて、頭を振った。
こちらを仰ぎ見る幸多の表情が、ゆっくりと、しかし、静かに曇っていく様を見れば、自分たちの発言が彼の精神状態にどのような影響を与えているのか、想像に難くない。
想像。
ただの機械に過ぎなかった頃にはなかった機能であり、能力だ。
仮装人格を与えられ、仮初めの体を得たことによって、ノルン・ユニットの人工知能は、大きく進化した。人工知能を頭脳とし、人格という仮面を被り、幻想体という肉体を纏ったことによって、さながら人間のように考えるようになり、振る舞えるようになったのだ。
ノルンたちの存在を知る導士たちは、彼女たちが機械仕掛けの存在だとは思えない、という。
それほどまでに人間臭くなったのは、やはり、この仮装人格の存在が大きく、導士たちとの触れ合いが人間らしさの獲得に繋がっていったのだろうと確信する。
だからこそ、女神たちは、幸多のことを想うのだ。彼の褐色の瞳が、ただまっすぐに自分たちを見つめてくれているという事実を受け止めて、感じ入る。
幸多が、自分たちのことをこれほどまでに想ってくれているということが、ただただ嬉しかった。それは、ヴェルザンディも、ウルズも、スクルドも同じ気持ちだった。
長年戦団の中枢機能であった彼女たちにとって、幸多との時間は、他の導士よりも遥かに短い。神木神威や伊佐那麒麟のほうが、情報局長や技術局長のほうが、余程深く長く関わっている。
けれども、幸多との短時間のほうが濃密に感じられるのは、やはり、現実世界の彼を感じ取ることができたという事実が大きいのだろう。
幸多の体温を感じた。
命の音を、聞いたのだ。
幸多が致命傷を負ったという話を聞けば、三女神全員で大騒ぎしたものだったし、一命を取り留め、回復したとなれば、即座に彼の脳内に押し寄せようとしたものだ。無論、病み上がりの幸多に無理をさせてはならない、と、踏みとどまりはしたが。
それくらい、女神たちにとって幸多の存在は大きくなっていた。
だから、ヴェルザンディは、振り切るように口を開く。
「湿っぽい話は、ここまでにしましょ! わたしたちが幸多ちゃんを呼んだのは、幸多ちゃんを困らせるためじゃないわ!」
「そうですね。せっかくの時間が勿体ないですもの」
「うん、そうだね」
女神たちは、視線を絡ませ、うなずき合う。
すると、幻想空間に変化が起きた。
機械仕掛けの神殿が閃光とともに激変し、熱気が幸多の全身を包み込んでいく。膨大な熱量が渦巻き、燃え盛る紅蓮の炎が無数の柱となって聳え立つ様を見た。荒れ狂うかのように起伏が激しく、幾重にも入り組んだ大地には、はっきりと見覚えがあった。
「ムスペルヘイム?」
幸多が疑問の声を上げたのも束の間、つぎの瞬間には、女神たちの思惑を察していた。地を蹴って飛び退けば、そこに幻想体として構築された獣級幻魔が飛びかかってきていた。魔炎狼の巨躯が、熱気を撒き散らしながら、吼え猛る。律像が乱舞した。
さらに跳躍して距離を取ったのは、オンモラキが飛来してきたからだったし、上空から火の雨が降り注いでくるのを目の当たりにしたからだ。
上位獣級幻魔スザクが、紅蓮の翼を羽撃かせながら空を舞っている。そして、火の雨を降らせているのだ。
「いくらなんでも突然すぎない?」
「戦闘は、いつだって突然でしょ?」
幸多の問いかけに、ヴェルザンディがに笑いかける。
「ついこの間、幸多が死にかけたときだって、そうだったよ」
「はい。あのときも、本当に突然でした」
「まあ、そうだけどさ」
幸多は、燃え盛る幻想空間に具現した大量の幻魔を視界に収めながら、素早く移動した。そして、転身機を起動し、まず闘衣を身につけ、すぐさま鎧套を召喚する。
銃王弐式を装着し、撃式武器・飛電改を呼び出したことによって、ようやく戦闘態勢へと移行、飛びかかってくるガルムに向かって銃口を向け、引き金を引いた。
乾いた発砲音。
だが、銃弾は、ガルムに直撃せず、空を切った。ガルムが幸多にのし掛かってきそうだったものだから、幸多は透かさず縮地改を起動し、その場から後退した。超高速滑走は、さすがのガルムも対応しきれない。
ガルムが地面に頭をぶつけた隙を見逃さず、発砲。
だが、やはり、銃弾はガルムに掠りもせず、地面を穿った。ガルムが吼え、炎が逆巻く。
(ん?)
なにかが、おかしい。