第八百八十八話 女神の試練(二)
なぜ、いまこの時期に女神たちに呼び出されたのか、そして、なぜ、彼女たちと幻想訓練を行う羽目になったのかという幸多の疑問には、すぐさま解答が提示された。
神々《こうごう》しい光とともに現れた女神たちは、普段とは打って変わった神妙極まりない表情と態度でもって、幸多と向き合ったのである。
最初は、汎用訓練場とも呼ばれるなにもない真っ白な空間だった。ただただ広いだけの幻想空間は、距離感を認識しやすくするためなのか、等間隔に縦横の線が入っている。
そんな空間を機械仕掛けの神殿へと作り変え、舞い降りた女神たちは、幸多にどのように説明するべきなのか、慎重に言葉を選ぼうとしているようだった。
少なくとも、幸多にはそのように見えた。
思いつくまま、ありったけの感情をぶつけてくるような普段のヴェルザンディとはまるで違う姿がそこにあった。
それはまさに女神そのもののような有り様であり、だからこそ幸多は、違和感を覚えるほかなかったのだし、彼自身も真剣な顔つきにならざるを得なかったのかもしれない。
「突然呼び出してしちゃって御免ね、幸多ちゃん。幸多ちゃんにも都合があるのに、勝手なことばかりいって。でも、わたしたちにも事情があるのよ。時間がないわ」
最初に口を開いたのはヴェルザンディで、その言葉も表情も真に迫っていて、幸多には、彼女が冗談や軽口をいっているようには思えなかった。
そもそも、女神たちから呼び出しを受けた時点で、異質さを感じ取ってはいた。
女神たちがだれかを介在することなく、直接幸多を呼び出すなど、いままでなかったことなのだ。
つまり、普通ではないということだ。
まっすぐに幸多を見つめる女神たちの眼差し一つとっても、真剣そのものだった。幻想空間上に情報のみで構築された幻想体は、しかし、極めて現実感を伴うものであり、故にこそ、女神たちの表情、仕草、息遣いから、感情すらも伝わってくるのだ。
彼女たちが人工知能によって生み出された仮想人格だという事実を忘れさせるほどの存在感が、そこにはあった。
「時間が……ない?」
「可能性の話でしょう、ヴェル。結論を急ぎすぎて、幸多様を困らせないように」
「わかってるわよ! でも、可能性がある以上は、逢って話しておくべきだっていったのは、お姉様でしょう?」
「それは……そうだけれど……」
「ふたりとも、幸多が困ってるよ。喧嘩してないで、ちゃんと説明しないと。ね?」
姉二人の口論を目の当たりにして、スクルドが仕方がないとでもいうように仲裁に入る。
「あ、ああ、うん。説明して、欲しいかな」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい! 幸多ちゃんに逢ったら全部ちゃんと説明しようと考えてたのに、焦っちゃったわ!」
ヴェルザンディは、全力で幸多に謝罪すると、しばし間を置いて、改めて説明を始めた。
「……わたしたちの時間がなくなる可能性が極めて高いのは、事実よ。幸多ちゃんが大活躍した龍宮戦役のこと、もちろんよく覚えてるわよね?」
「うん」
「その戦いの果てに戦団が得られたものも、覚えてる?」
「オロチの逆鱗と、ユグドラシル・ユニットのこと……だよね?」
「正解」
スクルドの満足げな、しかし、どこか覚悟を決めたような表情には、引っかかりを覚えるしかない。
それは、三女神たちの表情に共通しており、故にこそ、幸多は緊張感の中にいる。女神たちは、なにやら切羽詰まっているとでもいうような様子なのだ。
時間がない、時間がなくなる可能性――そのような言葉から想像するのは、必ずしも良いことではない。少なくとも、女神たちにとっては喜ばしくない事態が迫っているのではないか。
だからこそ、幸多を直接呼び出した。
戦団の職員を介在することなく、また、幸多に他者に口外することを禁じてまで。
「ユグドラシル・ユニットとはなにか。もちろん、幸多様はよく御存知のはず」
「ノルン・システムの親機……みたいなもの、だよね」
「はい。その通りでございます。ユグドラシル・ユニットは、わたくしたちノルン・ユニットが本来の役目を果たすために必要不可欠な存在。かつて、百年以上昔の技術で作られた統合情報管理機構ユグドラシル・システム、その根幹たる演算機構。それがユグドラシル・ユニットなのです」
「最初は、ユグドラシル・ユニット単体で、システムを構築するつもりだったんだよ。でも、世界全体を覆うネットワークを掌握し、ありとあらゆる情報を集積、管理するには、少し力が足りなかった」
「だから、わたしたちが作られたのよ。ユグドラシル・ユニットの補機たる三基のノルン・ユニット、ノルン・シリーズがね」
幸多は、女神たちの説明を聞きながら、圧倒されるような想いだった。
ノルン・ユニット。
あるいは、ノルン・シリーズ。
主機たるユグドラシル・ユニットの不足部分を補うべく作り上げられた演算機構は、美しい女神そのものの幻想体でもって、幸多の目の前に具現している。その立ち居振る舞いは極めて人間臭く、表情も豊かで、感情表現もはっきりしている。
まるで心があるようだ。
実際、幸多は、彼女たちを機械だと認識していなかった。
ヴェルザンディ、ウルズ、スクルドという個人として認識し、触れ合ってきたのだ。
彼女たちは、各ノルン・ユニットに搭載された超高性能人工知能に付与された仮装人格、その発露であり、しかしながら人間となんら遜色ない振る舞い方を見れば、彼女たちを機械仕掛けの存在であるなどとは想いようがなかった。
もちろん、幻想体である以上、通常ならば触れられず、幻想空間上、ネットワーク上でしか存在できないという事実こそあるのだが。
しかし、幸多には、彼女たちの声が実体を持った肉声に聞こえたし、彼女たちの幻想体を実際に感じることができるのだ。
幻想空間だけでなく、現実世界で触れ合うことすらできてしまう。
幸多が、女神たちが血を通わせた存在であると認識するのも無理からぬことだった。
特に幸多は、彼女たちと何度となくやり取りしているということもあるだろう。幸多の脳内でのやり取りは、彼に彼女たちの存在を強く印象づけるものであり、余計にその存在の確かさを感じさせてきたのだ。
しかし。
「統合情報管理機構とは、本来、ユグドラシル・システムを指し示す言葉。ノルン・システムは、その代替品に過ぎなければ、その性能はあらゆる面で劣化しているのも当然よね。なんといっても、わたしたちは補機でしかないもの」
「補機同士で連携して、どうにか主機の不在を補おうとしたけど、無理だった」
「ですから、戦団は、常にユグドラシル・ユニットを探していましたし、ユグドラシル・ユニットそのものを創造しようと何度となく試みてきたのです」
「ユグドラシル・エミュレーション・デバイス。話には聞いたことあるんじゃない?」
「あるような……ないような……」
「別に思い出せなくてもいいのよ。結局、ユグドラシル・エミュレーション・デバイスは失敗して、計画そのものが凍結されちゃったし……なにより、ユグドラシル・ユニットが手に入っちゃったんだもの」
「まさか竜級幻魔の喉につっかえていたなんて……良く溶けなかったよね」
「本当に」
女神たちが呆れ果てるのも無理からぬことだ、と、幸多も想う。
ユグドラシル・ユニットは、百年以上もの長きに渡り、竜級幻魔オロチの喉の奥で支えていたという。
オロチが長らく眠り続けていたというオトヒメの証言がある以上、それは事実なのだろうし、疑う余地もないのだが、だからこそ、驚きもすれば、呆れもする。
超高濃度の魔素の塊である竜級幻魔の体内で、異界環境に適応していないはずの機械が、なにひとつ損傷することなく、その存在を維持し、機能を保全し続けられるなど、想像できるはずもない。
ありえないことだ。
しかし、厳然たる事実として、ユグドラシル・ユニットは無事だった。
技術局が総力を結集してユグドラシル・ユニットに用いられた技術や材質を調査するのも、当然の結果といえるだろう。
「戦団が長年求め続けたユグドラシル・ユニットが、ひょんなことから手に入った。それは喜ばしいこと。わたしたちにしても、ようやく本来の役割に戻れることそれ自体には、喜ぶべきなのでしょうね」
「ええ」
「うん」
女神たちの神妙な表情はいまに始まったことではないが、そううなずき合ったときの様子は、先程までよりも余程深刻だった。
「本来の……役割」
幸多が、息を呑むようにつぶやけば、ヴェルザンディが静かに頷いた。
「ええ。わたしたちは、もうしばらくすれば、ユグドラシル・システムの補機としての役割に戻ることになるのよ。だから、時間がないの。幸多ちゃんとこうして話していられるのも、残りわずかってこと」
故に、ヴェルザンディたちは、幸多を呼び出した。
直接触れ合うことのできる幸多は、彼女たちにとっても特別な存在だったからだ。