第八百八十六話 蠢動(三)
「やっぱり、死体を操ってただけやな」
朝彦が、マンティコアの死骸に歩み寄りながら、冷ややかに告げた。
味泥小隊と皆代小隊の一斉攻撃は、マンティコアが操っていた幻魔の死骸のみならず、マンティコアの生み出していた魔法の霧をも吹き飛ばした。そして、マンティコアに致命的な一撃を叩き込んだのは、統魔であった。
統魔の放った光刃が、マンティコアの老人めいた顔面を貫き、そのまま体内の魔晶核を破壊したのである。
それによってマンティコアは絶命。再度全身から噴き出そうとしていた黒い霧は、魔力による制御を失い、まさに霧散している。
マンティコアの巨躯が崩れ落ち、生命活動が停止したのを認めると、周囲への警戒を怠らないようにしつつ、接近する。
周囲には、多数の幻魔の死骸が、それこそ徹底的に破壊された状態で転がっている。
まともにその原型を保っているのは、マンティコアだけだ。
「幻魔も同じや。死んだらそれまで。生き返ることなんてありえへん。それがこの世の理やからな」
「この世の理……」
「せや。やからな、死んだらあかんねん。死んだら、それで全部終わってしまうんやからな。自分も死んだらあかんで、皆代くんよ」
「……それは――」
統魔が思わず反論しようとして言葉を飲み込んだのは、脳裏に先日戦死した軍団長の姿が浮かんだからだ。
第五軍団長・城ノ宮日流子。
地属性魔法の極めて優れた使い手であり、戦団式魔導戦術をもっとも使いこなしていたとされる導士である。基本に忠実とはまさに彼女のことを指し示す言葉であり、導士の規範そのものであり、戦団を体現していた存在。
統魔も、日流子に対するその評価に間違いはないと思っていた。
統魔が戦団に入って、一年と半年以上が経過している。
星央魔導院時代を含めると、戦団との関わりは五年近くなる。
その約五年間は、統魔と戦団の繋がりを深めるものであり、戦団職員、戦団関係者――特に戦闘部の導士とは、様々な面で繋がりを持っていくことになったものである。
日流子から直接指導を受けたこともあった。
麒麟寺蒼秀に師事するようになったのは、第九軍団に配属されてからのことだ。
それまで――つまり学生時代には、教壇に立つ星央魔導院の教官や、臨時教官として戦団から寄越された導士が、導士候補生たる院生の師匠であった。
星将が学生たちに教鞭を振るうこともあり、そういう場合には、統魔のような魔法的才能に満ち溢れた存在は、手取り足取り教わるものなのだ。
日流子には、基礎を学んだ。
戦団の導士としての基礎、戦団式魔導戦術の基礎、人間としての基礎――あらゆる基礎を叩き込まれたという記憶があるのだ。
統魔がいまこうして導士として立派にやれているのは、日流子の教えが根底に息づいているからだという確信さえあった。
その日流子が、死んだ。
軍団長にして星将たる彼女は、戦団最高峰の導士であり、最高戦力の一角を為す存在だ。
それほどの導士が、それほどまでの魔法士が、死んだ。
呆気なく、あっさりと、この世を去ったのだ。
その報せを聞いたときには、統魔は、他の導士たちと同じく衝撃を受けたし、動揺を覚えたものだった。
戦団に入る以前も、入団して以降も、導士の死というものは数多と経験してきている。
それこそ、数え切れないくらいにだ。
幻魔災害や衛星任務中に導士が命を落とすことは、本当によくあることだ。ありふれすぎて、日常風景の一部と化しているといっても過言ではないほどに。
合同葬が行われるほど一度に戦死者が出ることは稀だが、だとしても、何人もの導士が命を落とすことくらい、当たり前のようにありふれている。
しかし、星将が戦死したのは、五年前の光都事変以来なかったことだ。
日流子の死は、星将も同じ人間だということをまざまざを突きつけられ、幻魔との差を思い知らされるような気分にもなった。
相手が鬼級幻魔だったのだ。
日流子と杖長二名では、荷が勝ちすぎていた。
食い下がるのがやっとだっただろうし、勝ち目の薄い戦いだったのは疑いようがない。撤退しようにも、相手が逃がしてくれないというのであればどうしようもなかっただろう。
だからこそ、日流子は、戦った。
戦って、戦って、戦い抜いて、そして、命を落とした。
部下を逃がすために。
その死は、決して無駄ではない――そう、統魔は思いたいのだ。
だが、一方で、日流子の死に方を疑問視する声があるのも事実だ。
最高戦力の一人である日流子が死ぬくらいならば、杖長たちこそが命を捧げるべきではなかったのか、と。
二名の杖長と百名余りの導士たちよりも、日流子一人を生かしたほうが、余程今後の役に立つのではないか、と。
辛辣だが、戦力と実績だけを考慮すれば、反論の余地はない。
しかし、日流子の判断が間違っているとは、統魔には思えなかった。
なぜ日流子がみずからの命を犠牲にしたのかといえば、そうしなければ、鬼級幻魔トールを食い止めることができなかったからではないだろうか。
日流子ほどの人物が、判断を間違えるとは考えにくい。
自分と部下たち。
どちらを生かすべきか。
日流子が、トールとの死闘の中で判断し、導き出した結論に泥をかけるような真似をしたくはなかった。
もちろん、今後のことを考えれば、様々に議論を重ねるべきだということもわかっているのだが。
統魔の想いは、個人的な感情に過ぎない。
感情論で、戦略を語ってはならない。
星将という戦略級の存在をそう簡単に失ってはいけない、というのが、日流子の戦死に対する疑問の根底にあるのだ。
「必要なときに必要な犠牲を払うのが、戦団のやり方や。総長閣下もよくいわれとるやろ。前進するためには犠牲を払わなあかん、ってな。その犠牲に最高戦力を組み入れていいんは、余程のときだけや」
「日流子様は――」
「日流子様は、致し方のない犠牲やった。そのことに疑問はない。中には杖長以下の導士たちが代わりに死んどけばよかった、なんちゅう意見もあるようやけどな、そんなん無理やろ」
朝彦は、苦い顔をしながら、マンティコアの顔面を法機の先端で持ち上げるようにした。人間の老人にも似た醜悪な顔面には、統魔の魔法で穿たれた穴がはっきりと見える。が、朝彦が睨み据えたのは、そこではない。
顎の先に、複雑な紋様があった。
殻印である。
「戦闘記録を見たらわかる。日流子様やなかったら、あの状態のトールを食い止められんかったやろな。見い」
「はい?」
統魔は、朝彦の元に駆け寄って、マンティコアの頭部を覗き込んだ。顎に刻まれた殻印は、見たこともないほどに複雑にして怪奇な紋様だった。だが、目を凝らしてみると、見覚えのある殻印が脳裏に浮かび上がってくるのである。
「オロバスの殻印……?」
「ひとつはな」
「え?」
「二つの殻印が重なっとる。ひとつはオロバス、もうひとつはエロスや」
「オロバスとエロスって……」
「光都事変を起こした奴らやな」
朝彦は、複雑に絡み合った二重の殻印を睨み据えながら、いった。
「元より、オロバスとエロスが手を組んでることは周知の事実や。光都事変を起こしたんが、その二体の鬼級やからな。で、その際動員された幻魔には、オロバスの殻印しか刻まれてなかった。エロスの殻印持ちがおらんかったんは、まあ、エロスの存在を隠し通すためやったっちゅうんが、定説やな」
そして、いまやオロバスとエロスの同盟、あるいは主従関係が明らかになった以上、隠す必要はなくなったとでもいうのだろうか。
オロバスの殻印の上からエロスの殻印を刻みつけるようにしているのが、なによりの証拠ではないか。
朝彦は、そのように推論する。
「二重の殻印なんて初めて見ますが」
「せやな。世紀の大発見やで」
朝彦は、躑躅野南がマンティコアの顔面を撮影し、その映像を衛星拠点へと送信するのを待ってから、法機を離した。マンティコアの頭部が、重力に従って地面に沈んでいく。
「殻印は、殻主たる鬼級への忠誠の証にして、〈殻〉の通行手形や。殻印を二つ持つっちゅうことはやな、二名の殻主に従っていることを証明しとるっちゅうわけやな。で、このマンティコアや」
周囲を見回せば、無数の幻魔の死骸がばらばらに散らばっている様子がわかる。もう二度と動くはずのないそれらが、一度、襲いかかってきたという事実は、皆代小隊にとって予期せぬ事態であるはずだ。
「死体を操るマンティコアも、これが初見や。〈書庫〉にもそんな記録は存在せえへん。っちゅうことは、や。皆代くん、どういうことやと思う?」
「二重の殻印が、幻魔に力を与える……?」
「ピンポンピンポン大正解!」
朝彦は、統魔が呆気に取られる顔をしてくるのを見て、密やかに告げた。
「たぶん、やけどな」
二重殻印と呼ばれるようになるそれは、幻魔に関連する新情報として戦団関係者に衝撃を与えることになる。