第八百八十話 揺れ動く(三)
眼下を見渡せば、どす黒い海が地表の大半を覆っていることがわかる。
この地球という惑星の地表、その七割以上を塗り潰しているのが、死の海だ。暗く、黒く、さながら闇そのものが堆積しているかのようですらあった。
残りの三割ほどが陸地であり、その中のほんのわずかばかりを取り戻したのが、人類である。
人類。
いまや絶滅危惧種といっても過言ではない彼らは、今日も懸命に生きているらしい。
生きることに貪欲なのだ。
であればこそ、今日まで生き抜いてこられたのだろう。
そして、だからこそ、死者への手向けも盛大なものとなるらしい。
生と死。
この世界に存在する唯一無二の絶対の法は、理を捻じ曲げる魔法ですらも覆せない。
「死んだ人間は土に還るだけだろう。だのに、どうして人間たちは、あのような真似をする?」
ウリエルの疑問は、まったくもって予想外のところから飛んできたものだから、ガブリエルも困惑を隠せなかった。
ウリエル。
このロストエデンを拠点とする天使の軍団に新たに加わった大天使であり、ガブリエルと同格たる彼女は、当然の疑問とでもいわんばかりの表情をして、地上を見下ろしている。
彼女たちを意味する大天使とは、天使の階級における大天使――アークエンジェルではない。
天使には九つの階級があり、下から天使、大天使、権天使、能天使、力天使、主天使、座天使、智天使、そして熾天使が最上位に位置している。
ガブリエルたちは、最上位の熾天使であり、全ての天使の上に君臨するが故に、便宜上、大天使と呼び表されているのである。
そのように言い出したのはルシフェルであり、そのことに異論や反論を述べる天使たちはいなかった。
ともかく、ウリエルである。
つい先頃、このロストエデンにて産声を上げたばかりの熾天使は、ガブリエルと同格にして、四大を司る存在だ。
外見は、人間に酷似している。
これは、熾天使の特性にして、鬼級幻魔の特性でもある。
幻魔は、高位になればなるほど、力を持てば持つほど、その姿形が人間に近づいていくという。
霊級幻魔は、実体すら持たず、一定の形すら保てないが、鬼級幻魔となると、極めて人間に近い肉体を得るのである。
とはいえ、人間そのものにはなりえない。
幻魔には幻魔の特色があり、それこそ、いままさにウリエルの姿態にも現れている。
ウリエルは、透き通るほどに白い肌の持ち主であり、全身、陽光を浴びて輝いていた。灰色の頭髪も同様に、日光を跳ね返している。琥珀色の衣は幻想的な意匠をしており、そこからすらりと伸びた手足は、彼女が完成された存在であることを主張しているかのようだ。
天使の最大の特徴であり、天使の証明である光輪は、ウリエルの場合、左肩にあった。左肩から光の輪が発生しており、それによって自身が天使であることを伝えているのである。
そして、六枚の翼が、その背中から生えている。純白の、穢れ一つ見当たらない大きな翼は、それだけで神々しく、輝かしかった。
ウリエルは、ガブリエルが生み出した水晶球を覗き込み、それによって遥か眼下、地上の様子を覗き見しているのだが、彼女が興味深く見ているのは、大々的に執り行われている葬儀の模様だった。
人類の守護者たる戦団が誇る、最高峰の魔法士が一人、死んだ。
城ノ宮日流子という名の導士であり、戦団の階級における最高位・星光級に位置し、星将とも呼ばれていた人物だ。
戦団は、央都の世情を反映するようにして、外征に乗り出そうとした。
この三十年近く、守りを固め続けてきた戦団にとってその選択は、一種の賭けに等しかった。
なんといっても、央都の近隣には、数多の〈殻〉が存在し、莫大な数の幻魔が潜んでいる。
それらほとんどの〈殻〉が他の〈殻〉との領土争いに熱中しているからこそ、央都はどうにか生き残ってこられたのであり、辛くも均衡を保つことができていたといっても過言ではあるまい。
外征を行えば、均衡を崩すことになりかねない。
戦団が、他の〈殻〉へ攻撃を行ったということが近隣の〈殻〉に知れ渡れば、ここぞとばかりに央都侵攻を企て、実行に移す鬼級がいないとも限らないのだ。
そうなる可能性、危険性があまりにも高いからこそ、戦団は、央都四市が成立して以来、人類生存圏にこもり続けた。
まるで殻に籠もるように。
そして、その選択は、必ずしも間違いではなかったはずだ。
この三十年余りで、人口は激増したという。
いまや百万を越える人口を確保することができたのは、守りを固め、人類生存圏という殻の中にこもり続けたからだ。
しかし、だ。
〈七悪〉の暗躍によって、大規模幻魔災害が頻発するようになれば、央都に生きる人々が不安を抱き、戦団の方針に疑問を抱き始めるのも無理からぬことだろう。
戦団が市民の不安を払拭するべく、近隣最大の敵たる鬼級幻魔オトロシャの〈殻〉恐府を制圧すると宣言したのは、そういう背景があった。
そして、そのための作戦が密やかに進行していたのだが――。
「人間は、死者を見送るための儀式を行う。されど、それは必ずしも、死者の、霊魂の存在を信じているからなどではない。実際に目に見えないものを信じることはできないし、神の存在も否定された魔法社会において、霊魂の存在を信じるほうがどうかしている」
声に目を向ければ、めずらしくもメタトロンがガブリエルに歩み寄ってきたものだから、彼女は笑顔を向けた。
メタトロンは、相も変わらぬ無表情だったが、構わない。
ウリエルが、メタトロンに問う。
「では、なんのためにこのような儀式を行う?」
「残されたものたちが、己の心を安んじるためだ」
「そうかしら。彼らが死者を哀悼する気持ちに嘘はないと思うけれど……」
「嘘はない。彼らが死者を想う気持ちは、確かに本物だ。純粋すぎるほどに。だが、問題なのは、生きている人間たちの心の方だろう」
「つまり、彼らは、心を整理するために、斯様な儀式を行っている、と?」
「おれは、そう認識している」
「ふむ……」
ウリエルは、メタトロンの考えを聞いて、少しは理解できたような気がした。
城ノ宮日流子という導士の死が、戦団や央都市民にとってとてつもない衝撃を与えるものであり、社会問題にすら発展しかねないほどに影響のあるものだということも、察する。
戦団が、央都という小さな社会の根幹なのだ。
その戦団が誇る最高戦力が、鬼級幻魔と遭遇したがために命を落とした。
重要極まりない戦力の喪失。
戦団は、方針を改めなければならなくなった。
地上は、ますます混迷を深めていくのかもしれないし、騒動の一つや二つ、起きるのかもしれない。なればこそ、戦団は、大々的に儀式を行い、人心を安んじようとしているのではないか。
天上は、どうか。
「……我々は、なにもしないのか? 天使とは、人類の守護者なのだろう?」
ふと、気になって、ウリエルはガブリエルとメタトロンに質問した。
二人の熾天使は、互いに顔を見合わせ、やがて静かに視線を一点に定めた。
二人の視線の先には、この廃墟同然の楽園における光源があった。
もう一つの太陽のように輝くそれは、黄金の大天使とも呼ばれる存在である。
「そう。我々は人類の守護者だ。だが、だからこそ、事態を見極めなければならないんだよ。滅ぶべきはだれで、生き残るべきはだれなのか。我々は、天使。あの御方の使いであり、審判者なのだから」
ルシフェルは、熾天使たちを見つめながら、告げた。
天使長たる彼には、ウリエルの疑問もよく理解できたし、メタトロンがいまにも飛び立ちたがっていることも把握していた。
しかし、彼は動かない。
動きようがないからだ。
時代は、地上は、動き出そうとしているのかもしれない。
だが、天使たちを取り巻く状況は、なんら変化してなどいないのだ。