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第八百七十八話 揺れ動く(一)

 トールは、おのが手を見ていた。

 全身をおおい、拘束していたはずの大量の土砂が、その石化を解かれ、音もなく崩れ落ちていく様を眺めているのである。

 ゆっくりと、しかし、確実に。

 制御を失ったかのように、あるいは、まるで命を失ったかのようにしてトールの体から剥がれ落ちていくそれらからは、確かに魔力を感じ取ることはできなかった。

 もはや死に絶えた、かつて生き物であった魔力の結晶は、その役目を終え、大気中に溶けていくようにして消滅していく。

 戦いは、終わった。

 トールにたった一人で立ち向かい、トールに死の温度を感じさせた人間は、死んだ。

 だが――。

「……せぬ」

 トールは、渋い顔にならざるを得なかった。

 肉体の半分を失いながらも、まさに鬼神きしんの如き形相ぎょうそうで、こちらに向かってきた人間の魔法士は、その力の限りを使い尽くしたのは確かだろう。

 燃えて尽きるようにして、尽き果てた。

 しかし、だからといって、死体も残さず消え去るものだろうか。

 故にトールは、考え込むのだ。

日流子ひることいったか」

 あの人間の女の名を、彼は、記憶に刻みつけるようにして、言葉にする。

 今日こんにちに至るまで人間のことなど記憶しようなど考えたこともなかったトールにとって予期せぬ心境の変化であり、価値観の激変というべき事態だったが、それもまた、決して悪い気分ではなかった。

 すると、金色の蝶が視界に飛び込んできたものだから、トールは、冷ややかな眼差しを向けた。

 それがオベロンの化身だということは、一目でわかる。黄金色の羽根を仰々しく羽撃はばたかせ、破滅的な鱗粉りんぷんを撒き散らす様は、彼にとっては鬱陶うっとうしいものでしかない。

 その毒がトールになんら影響がないのだとしても、だ。

 戦いは、終わった。

 トールの星象現界せいしょうげんかい雷霆神宮殿ビルスキルニルは解かれ、周囲に残されたのは、徹底的としか言いようのない破壊の跡だ。局所的な大破壊は、この地にあった人間の拠点を消し滅ぼしただけでなく、彼の領分たる雷神の庭に簡単には消えることのない爪痕つめあとを残すこととなった。

 もっとも、そんなことはどうでもいいことだ。

 雷神の庭がどのように変わり果てようとも、関係がない。

「オベロンよ」

「なんでしょう? トール」

 金色の蝶は、当然のように彼の肩に留まった。休める必要のない羽根を折り畳み、赤黒い目でこちらを見ている。

「見ていたか」

「途中から、ですが」

「ならば、最後には立ち会えたな?」

「はい……?」

「日流子の……あの人間のだ」

「……ええ、まあ」

 オベロンには、トールの発言の意図が読めなかったが、ただ静かに頷いた。

 トールと戦団の導士の戦闘は、凄まじいとしか言いようのない規模のものであり、化身とはいえ、オベロンすらもおいそれと接近できないものだった。遠巻きに見届けることしかできなかったのは、そのためだ。

 とはいえ、その選択に間違いはなかったはずだ。

 近づけば、トールの魔法にも、人間の魔法にも、巻き込まれる羽目になった可能性が高い。

 それほどまでの破壊の結果を見渡しながら、オベロンは、トールの視線がもはや自分ではなく、虚空へと向けられていることを理解する。

 トールは、オベロンに一切の興味を持っていないようだった。

「あのものは、我が前に立ち、死力を尽くした。その戦いぶりたるや、見事なものであった。とても人間業にんげんわざとは思えぬほどに」

「そう……ですね」

「オベロンよ。汝「「うぬ」の森で出遭であった人間どもも卓越した魔法技量の持ち主だったが、我が大敵たる日流子とは比べるベくもなかったな?」

「……ええ」

 オベロンは仕方なしに相槌あいづちを打ち、トールの出方をうかがった。

 朱雀院火倶夜すざくいんかぐやは、トールと死闘を演じた城ノ宮(じょうのみや)日流子と同等の魔法士だという話であり、魔法技量も大きな差はないということは、オベロンには既知の情報だ。だが、トールを相手に三対一で戦った火倶夜と、ただ一人戦い抜き、死亡したのであろう日流子とでは、感じるものが違うというのもわからない話ではない。

 しかも、日流子には、トールを追い詰めたという圧倒的な事実がある。

 その事実の前には、火倶夜がその力の限りを発揮していなかった可能性への追求も意味を持たない。

 トールにとって、日流子のほうが余程鮮明かつ強烈な存在に映っただろうし、だからこそ、言及するのではないか。

 オベロンは、トールのどこか喪失感を覚えているような表情にこそ注目しながら、考える。トールがそのような表情を見せたことなど、この百年余りの間、一度でもあっただろうか。

「しかし……なればこそ、我は想うのだ」

「なにを、でしょう?」

「なればこそ、せめて、われがあのものの命を終わらせたかった、と」

「ふむ……?」

「あのものは、日流子は、死んだ。それは紛れもない事実だ。だが、我はあのものを殺せなかった。あのものは、何処いずこかへと消えて失せたのだ」

「それは……」

 どういう意味なのか。

 オベロンの問いに対する答えは、なかった。

 トールがなにも教えてくれなかったからだ。

 トールは、視線を彼方へと向ける。

 日流子が、命の限りに守り抜いた人間の魔法士たちは、この雷神の庭を去った。

 日流子の命は、死は、無駄にならなかったというわけだ。

「いずれ、再びこの地で見えようぞ。日流子の命の後継者たちよ」

 トールは、静かに告げ、己が領土を歩き始めた。

 オベロンは、彼の肩から飛び立つと、戦場の跡地を見下ろした。

 城ノ宮日流子と雷魔将らいましょうトール。

 力量差は、圧倒的だ。

 トールは鬼級幻魔であり、日流子は星将せいしょうとはいえ、ただの人間に過ぎない。一対一では、トールに分があるのはだれの目にも明らかだ。

 勝敗は、最初から決していた。

 だが、日流子は、最後まで諦めなかったし、食い下がり続けた。

 部下を逃すため、トールと戦い続けたのだ。

 その壮絶とさえいえる死に様は、トールになにかしらの影響を与えたのではないかと思えた。

 オベロンは、トールの後ろ姿を見遣る。

 傲岸不遜ごうがんふそんにして闘争本能の塊のような巨人が、静かに去って行く様は、世にも珍しいものだ。

 恐府が成立して以来、ついぞ見たことのなかった光景であり、その事実が、日流子という人間がトールに与えたものの大きさを感じさせた。

 日流子は、死んだ。

 それは間違いない。

 しかし、トールが殺し切ったわけではないのだという。

 オベロンは、その事実を火倶夜たちに伝えるべく、空を舞った。

 オベロンにとってトールは同胞などではなく、いずれ滅ぼすべき敵でしかない。

 そんな敵が、星象現界を体得してしまったという絶望的な情報もまた、人間たちに、戦団に共有しなければならなかった。

 元より困難極まりなかった恐府制圧計画は、一度、白紙に戻さなければならないのではないか。



 まず、闇があった。

 音もなく、温度もなく、ただ漠然と広がる闇が、視界を覆い尽くし、意識をも塗り潰すかのようだった。

 やがて視界から闇が一掃いっそうされたのは、光に満ちたからだ。

 眩いばかりの光が目の前を切り開くようにして意識を包み込んでいくと、あらゆる感覚が冴え渡った。

 それらの感覚は、闇の中で失われていたのではない。

 闇の深淵から光の中へと、新たに誕生したのだ。

「……もう、大丈夫だよ」

 柔らかな声が、耳朶じだから脳髄のうずいへと至り、意識そのものを優しく覆ってくれるようだった。そして、脳髄などというものは存在しないはずだ、と、反射的に考える。そんなものがこの魔晶体にあるはずもない。

「ここには、どんな苦しみも、哀しみもない。ただ、光に満ちている。この世の未来を照らす光にね」

 視界に満たす黄金色の光の源に、その声の主はいた。

 黄金そのものが人の形をなしているかのようなそれは、一目にした瞬間、何者なのかを理解できた。

 黄金の大天使ルシフェル。

 このロストエデンの主宰者であり、天軍を率いる天使長。

 風に揺れる黄金色の髪が、背後に浮かぶ光の輪の輝きを受けて、きらびやかに光っていた。いや、輝いているのはそれだけではない。彼が身に纏う黄金色の衣も、黄金色の翼も、なにもかもが光り輝いていた。

 彼は、このロストエデンの光源なのだ。

「新たな天使よ。きみの名は?」

「……ウリエル」

 そんな言葉を発したとき、彼女は、ようやく自己というものを認識した。それまでは判然としていなかった自意識が突如として目覚め、全神経が急速に覚醒していくのだ。血が通っていくような感覚。魔晶体にそんなものがないのだとしても、感覚としては、そう理解するほかない。

 全身に莫大な魔力が充ち、溢れ返るかのようだった。

「それがわたしの名」

 ルシフェルは、目を細めた。

 ガブリエルに並ぶ四大天使の一体が、いままさに産声を上げたのだ。

 それは、大いなる時代のうねりを感じさせる出来事だった。


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