第八百七十四話 大地を穿つ(九)
「星象現界っ! 塵芥に等しい人間が、この万物の霊長たる幻魔と、いや、我ら鬼級と戦うために編み出した技術なのだろう!」
下半身を大地に生じた大穴に囚われ、さらに周囲に無数の石柱が立ち並ぶ様を認めながら、トールは、雷鳴の如き大音声を響かせる。
莫大な魔力を帯びたそれそのものが真言となり、周囲に展開していた律像を魔法として発現させれば、その巨体が雷光を帯びた。白い雷光が大地の穴を押し広げ、石柱を吹き飛ばし、自身を封じ込めようとした敵の計画を根底から覆す。
力こそ全て。
それがこの魔界の鉄の掟であり、鋼の法なのだ。
だからこそ、トールは、オトロシャに降った。
オトロシャの力が、トールを遙かに上回っていたからであり、滅ぼされるくらいならば、オトロシャに従い、オトロシャの尖兵としてこの魔界を蹂躙するほうが面白いと思ったからだ。
だが、オトロシャに従属して数十年、戦いらしい戦いはなかった。
確かに、近隣の〈殻〉から恐府に攻め込んでくる幻魔は数多くいた。それこそ、数え切れないほどにだ。
恐府ほどの規模の〈殻〉を攻撃するには、それなりの覚悟と戦力がいるはずだったが、恐府は、どういうわけか戦力差も圧倒的な、小さな〈殻〉からも攻撃されることが多かった。
それは、いい。
外部からの攻撃は、トールにとって数少ない楽しみだったからだ。
オトロシャは、三魔将を従え、恐府を現在の形にすると、それからというもの一切の命令を発さず、姿すら見せなくなった。
そうなると、トールたちが自発的に動くことなどできるわけもなく、遥か昔に命じられたまま、恐府の防衛にのみ力を尽くすしかなかったのだ。
何十年。
いや、もっと長く、彼は、恐府を守り続けた。
外敵を打ち払うことだけを楽しみにするしかなく、故に、倦んでいた。
飽き始めていたのだ。
オトロシャならば、魔界の覇王たりえるのではないか。そのために数多の〈殻〉を滅ぼし、大量の鬼級と戦うことができるのではないか。
そんなトールの思惑は、外れた。
「良いぞっ! 良いっ……!」
感嘆の声は、心の底からのものだ。
たかが人間、されど人間。
幻魔の祖ともいうべき人間たちが、滅び去ったはずの惰弱な生物たちが、どういうわけか生き延び、この力の法理に支配された魔界に現れたのだ。そして、その魔法技量たるや、トールをも足止めしようというほどである。
先程の人間たちもそうだったが、実に素晴らしいとしか言い様がなかったし、トールは、興奮とともに溢れんばかりの魔力を全身に漲らせていく。
雷光を帯びたトールの巨躯が、大地の大穴を飛び出し、あっという間に遥か上空、暗雲の向こう側へと消えたのを見て、日流子は、透かさず天之瓊矛を翳した。大地を操り、巨大な岩石の城塞を構築する。
それは皆を護るための防壁であり、強力無比な防型魔法である。
真妃も詩津希も、岩の城の下に身を潜めたが、それも束の間、光が降ってきた。
極大の雷光は、その一撃で岩の城を消し飛ばし、日流子たちをも吹き飛ばす。
空中高く打ち上げられた日流子だったが、即座に影狼を駆る真妃に抱き留められ、その場を移動した。直後、雷光を帯びた大槌が虚空を薙いだ。無数の稲光がその軌跡を追い、散乱する岩塊に突き刺さっては爆発した。
真妃はその勢いで詩津希も引っ捕らえると、影狼を走らせた。
音もなく大地を疾駆する黒き狼は、トールに睨みつけられるものの、速度を緩めることはない。それどころか加速し、トールの猛攻を避けきってみせる。
雷光を帯びた大槌による連撃は、無数の稲妻を呼び寄せ、大地を徹底的に破壊していく。爆砕に次ぐ爆砕、破壊に次ぐ破壊。戦場全体が崩壊していくかのようだ。
「逃げているだけでは、戦いにならんぞ!」
トールは、声を上げ、大槌を振るう。雷鎚が彼の魔力に反応して、その真価を発揮しているのであり、ただの空振りすらも雷撃となって敵を打つのである。
通常、大槌を振り回すだけで戦いは終わる。
それではつまらないから、大槌の力を抑えているのがトールなのであり、今現在、その力を解放したのは、それでも斃しきれない可能性を感じさせたからにほかならない。
つまるところそれは、トールに日流子たちを強敵と認識させたということだ。
「人間よ! 塵芥の如き弱者どもよ! いまやこの世から滅び去ったはずの汝らがなにゆえ生き残っているのかは問うまい! だが!」
吼え、トールが雷鎚を振り翳す。天から降り注ぐ無数の雷が、雷鎚へと収束し、トールの巨躯を遥かに上回る巨大な雷光の球を形成していった。周囲の魔素が圧倒され、灼かれ、焦げ付いていくのがだれの目にも明らかだったし、日流子ですら息を飲み、死をも覚悟した。
いや、そもそも、そんなことは端からわかりきっていたことだ。
相手は、鬼級。
戦力差を考えれば、勝てない可能性は極めて高かった。そして、敗北とは即ち死である。
逃げるべきだ。
恥も外聞もなく、逃げ去るべきだ。
正面切って戦う相手ではない。
だが、逃げ切れる相手でもない。
だからこそ、日流子は奮起するのだ。
少なくとも、部下たちだけでも、この場から逃がさなければならないのだ。
それこそが、星将たるものの務めだ。
導士とは、人類を導くものの意である。
そして、星光級の導士たるもの、導士をも導かなければならない。
(それが使命……!)
日流子は、真妃の影狼から飛び降りると、彼女があっと声を上げるのを聞いた。影狼が真妃と詩津希を乗せたまま、距離を取っていく。
日流子は彼女たちを一瞥した。それでいい、と、伝えたつもりだった。杖長以外の導士たちは、先程の一撃で吹き飛ばされたことによって戦線を離れている。
重軽傷者が多数出ているが、それらの治療には時間はかかるまい。
それだけの時間は稼げるはずだ。
「我が前に立ち、杖を掲げるのであれば、逃げ回っている場合ではないぞ!」
「攻撃してきたのはあなたでしょう」
日流子は、一人、トールに立ち向かった。矛を振り、大地を操る。激しく揺れ動く周囲の大地が、地中から無数の岩塊を隆起させ、日流子を包み込むようにして複雑怪奇な構造体を構築していく。
「恐府に、オトロシャの〈殻〉に攻め込んできたのは、汝らよ!」
「そうね。そうだったわ」
日流子は、自身を中心に構築される構造物の中で、静かに認めた。トールの雷光は、もはや頭上を覆い尽くしている。その攻撃範囲たるや、想像もつかない。
真妃たちを、部下たちを逃がすには、やはり日流子が食い止める以外にはなかったし、その結果、この命が尽き果てるのも致し方のないことだ。
死は、恐ろしくない。
覚悟は、とっくにできている。
先行攻撃任務に就く、ずっと以前から。
それこそ、戦団に、戦闘部に入ると決めたそのときから、ずっとだ。
導士になるのは、子供のころからの夢であり、憧れだった。
戦団が央都の根幹であり、そこで両親が働いていることは彼女にとって誇り以外のなにものでもなかった。両親ともに情報局の人間だったが、そんなことは問題ではない。
戦団の一員として、日夜人々のために戦い続けている両親がなによりも誇らしかったし、そんな両親と同じ誇りをもって生きていきたいと想っていた。
父も母も、彼女が戦闘部に入ることを望まなかった、日流子の性格上、戦闘部には向かないのではないか、というのが両親の意見だったし、それも間違ってはいなかったはずだ。
少なくとも、戦闘部に入ったばかりの日流子は、両親の想像通り、足手纏いにしかならないような、そんな魔法士だったからだ――。
日流子は、考える。
脳裏を過るのは、数多の記憶であり、過去の情景であり、数え切れない想い出たちだ。
それはさながら走馬灯のようであり、トールが極大の雷光を振り下ろしてくる様が緩慢に見えているのも、きっとそのせいではないか。
死。
死が、眼前に迫っている。
明確な滅びが、トールという形を取って現れたのだ。
そして、そのために死ぬ。
ああ、と、日流子は、想うのである。
数多くの導士が、英霊となっていった先人、同輩、同胞たちのことを考えるのだ。彼らは、死ぬ瞬間まで諦めなかったはずだ。最後の最後まで足掻きに足掻き、藻掻きに藻掻いたはずだ。
それこそが導士であり、戦団の戦士なのだから。