第八百七十二話 大地を穿つ(七)
城ノ宮日流子は、戦団情報局副局長・城ノ宮明臣と城ノ宮日流女の長女として、この世に生を受けた。
戦団職員の娘である。
当然のことながら、ありふれた一般市民とは大きく異なる立場であり、そのことは、両親から耳が痛くなるほどに教えられたものだった。
戦団の一員として、導士として、その責務を果たすためにこそ生まれ落ちたのであり、全生命を央都の、一般市民のためにこそ費やすべきだ、と。
それこそが明臣と日流女の娘として生まれた日流子の使命である、と。
そのように、両親は、物心つく前から、彼女に言い聞かせてきた。
それは、導士の家庭ならばごくごく当たり前の環境といってよく、二世、三世の導士は、生まれながらにして導士となるべく育っていく宿命を背負っているといっても、過言ではなかった。
そうでもしなければ、戦団という組織を維持し、存続させ、拡大していくことなどできないからだ。
とはいえ、両親――特に父親は、彼女に戦闘部に入って欲しいというわけではなかったらしい。
戦団にはいくつもの部署があるが、もっとも人手が必要な戦闘部は、もっとも死に近い部署であり、故にこそ、明臣は、戦闘部以外の部署に配属されることを望んでいたようだ。
しかし、日流子は、成長していく中で、この命の全てを戦闘部の一員として費やすことこそが己の責務であると考えるようになり、故に、戦闘部への配属を希望した。
希望は通り、戦闘部に入った彼女を待ち受けていたのは、幻魔との戦いの日々だ。任務がなければ訓練と研鑽に時間を費やし、任務になれば全力で挑んだ。
そうして戦い続ければ、いつしか星将と呼ばれる立場になった。
五年前の大再編で軍団長に選ばれたのは、実力と実績を評価されてのことに違いない。
明臣の関与は考えられない。
明臣は、心配性で過保護だ。
日流子が星将になることなど望んでいなければ、ましてや軍団長になることすら否定的だった。
日流女が幻魔災害によって命を落としてからというもの、明臣のそうした考えは、より顕著になっていった。
つまり、日流子に戦闘部を辞め、別の部署に移るのはどうかと持ちかけてくるようになったのだ。
日流子は、猛然と反対し、そのたびに明臣は自分が間違っていたと認めてくれたものだが。
そんな明臣が日流子は嫌いではない。
むしろ大好きだったし、いつだって心配してくれている父のことを思えば、より一層、戦闘部の導士として、星将として、軍団長として力を振り絞れる気がしてならなかった――。
(これは……)
一瞬にして脳裏を過ったなにかが、まるで走馬灯のように思えて、日流子は、慄然とした。全身の細胞が熱を帯び、血の流れが激しさをます。鼓動が、頭の内側にこそ反響した。
眼前、爆煙が充ち満ちている。
その黒々とした煙は電光を帯び、ときには爆ぜ、ときには渦を巻いた。
いま、なにが起きたのか。
日流子は、全身を貫いた衝撃とその痛みを堪えながら律像を構築し、真言を唱えた。痛みを消し去り、傷を塞ぐためだ。
ただの落雷などではない。
いくら休養中で気を抜いていたとはいえ、自然現象で発生する雷の余波で、全身がずたぼろになるほどの痛撃を受ける理由がなかった。魔導強化法によって改良された肉体だ。高高度から落下しても無事なように、雷の直撃を受けてもなんともない。
だが、日流子は全身が血まみれになるほどの痛撃を受けただけでなく、第二簡易拠点が粉々に粉砕されるのを目の当たりにしたのである。
とてつもない威力を秘めた、雷属性の攻撃魔法。
瞬時に魔力を練り上げ、さらに凝縮して昇華を起こす。全身に満ち溢れた星神力でもって律像を構築しながら、呼吸を整え、精神を統一する。そうすることによって意識が澄み渡り、全周囲の状況の把握を可能とした。
壊滅的な被害が、意識を席巻する。
「こちら第五軍団先行攻撃部隊。第二簡易拠点がなんらかの攻撃を受け、壊滅した。指示を」
『了――』
通信機越しの情報官の声が途切れ、聞こえなくなったものだから、日流子は、目を細めた。状況は、思った以上に深刻だった。
(だから、走馬灯を見たのかしら)
ひとは、死の瞬間、過去の出来事を走馬灯のように振り返るのだという。
だが、日流子は、まだ生きている。
もしいまのあれが走馬灯なのだとしたら随分と気が早いとしか言い様がない。
「オベロンの森を侵したかと思えば、今度は我が庭か!」
雷鳴のような大音声が響き渡り、視界を塞いでいた爆煙が吹き飛んでいった。大声は真言であり、雷光の奔流が吹き荒んだのだ。
日流子は、瞬時にその場から飛び退いて距離を取ったおかげで事なきを得ている。
破滅的なまでの魔素質量を肌で感じ取ったからだったし、それがなにものなのか、瞬時に理解したからだ。
「トール……」
「うむ! 我が名はトール! オトロシャよりこの地を預かる身なれば、この雷神の庭を蹂躙する汝らを滅ぼすのは、道理よな!」
などと、巨人はいった。
まさに巨人だ。
全長十メートルを優に越す巨躯は、ただそこに立っているだけで周囲の風景をねじ曲げるほどの魔素質量を放っており、分厚い筋肉の上に奇妙な形状の鎧を纏っていた。右手には、神話よろしく巨大な金槌を手にしており、黄金色の頭髪が電光を帯びて輝いている。
その様は、神々しくすらあるのかもしれない。
世が世なら、人類が幻魔の存在を知らなければ、それを見て、神と崇め奉ったのではないか――そう思えるほどの存在感だった。
しかして、その赤黒い双眸が見据えているのは、日流子ではなく、掲げた左手である。そして、その左手を見たとき、日流子は無意識に叫んでいた。
「真妃!」
トールの巨大な手が、真妃の体を握り締めていたのだ。真妃は意識を失っているようであり、口から血を吐いた跡が残っている。
トールは、真妃の体を握り潰そうとしているに違いなく、そう認識したときには、日流子は魔法を発動していた。
「天之瓊矛」
星神力で以て編み上げた律像が真言によって完成すると、莫大極まる星神力が光の渦となって日流子の全身から発散し、右手の内へと収斂していった。それは一瞬にして異形の長大な矛となり、圧倒的な魔素質量がトールの目を引いた。
「それも星象現界か!」
「そうよ! これがあなたを滅ぼす星象現界、天之瓊矛よ!」
「おおっ、素晴らしいっ、素晴らしいぞっ!」
日流子が敢然と言い放つと、なぜかトールが歓喜に満ちた声を上げた。左手に掴んでいた真妃を無造作に投げ捨てる。空中に放り出された真妃の体を魔法で引き寄せたのは、辛くも生き残った導士の内の誰かだろう。
トールの出現と同時に起きた大爆発は、何十名もの導士に致命傷を与え、あるいは、死に至らしめた。
その事実は、星象現界の発動によって拡張した五感が伝えてきており、だからこそ、日流子は、歯噛みする。
真妃は一命を取り留めたのか、どうか。詩津希は、どうなったのか。ほかの部下たちは――。
だが、日流子に、自分とトール以外に意識を割いている余裕はなかった。
トールは、猛然と突っ込んでくるなり、金槌を振り下ろしてきたのだ。巨人の手に収まる程度の金槌だが、しかし、巨躯が故に小さく見えるだけであって、実際にはとてつもなく巨大だった。
日流子の身の丈よりも大きく、直撃を受ければ粉々に破壊されかねないのではないか。
もちろん、日流子は、直撃を受けるつもりはない。矛を振り翳し、金槌を受け止めると同時に大地を震わせる。天之瓊矛から発散される星神力が、周囲の大地の魔素を掌握し、大地そのものを制圧していく。
金槌を受け止めた衝撃が、右手を伝った。激しく、破壊的な余波。全身が痺れるようだった。
日流子は、矛に左手を添えると、両手で握り締めた。全身全霊の力を込めて振り払い、金槌を払い除ける。トールが、わずかに体勢を崩した。しかし鬼級は、相好をも、崩している。
「面白い! 実に面白いではないか!」
「なにが……!」
日流子は、トールが満面の笑みを浮かべている様が気に食わなかった。
元より、幻魔は嫌いだ。
滅ぼすべき大敵であり、存在を許してはならない邪悪だ。そんなものと協力しているこの事実すら虫酸が走るのだが、しかし、人類復興という悲願のためならば、そのようなことで一々突っかかっている場合ではないというのも事実だ。
戦団の大目的のためには、幻魔をも利用するべきなのだろう。
頭では理解するが、心では納得していない。
なぜならば、幻魔は、母の敵だからだ。
日流子から最愛の母を奪い、父・明臣から最愛の妻を奪った、最低最悪の存在。
日流子は、幻魔という種そのものを憎んでいた。