第八百六十九話 大地を穿つ(四)
全長数十メートルはあろう黒く巨大な球体が、黒禍の森の一部を飲み込んでいる。乱立する結晶樹の数々を、そして地面を抉り取るかのようなその球体の表面には、紅く輝く複雑な紋様が浮かんでいた。まるで律像そのもののようにも見える。
それが一種の結界であると同時に、鬼級幻魔トールを閉じ込めておくための牢獄であることは、第十軍団の導士たちには周知の事実だ。
杖長・山王瑛介の星象現界・黒天大殺界。
「さすがは杖長。星象現界なら鬼級だって捕らえられますよって感じだ」
「すごいよねえ、山王杖長。すぐにでも星将になれそうだもの」
「うむ。まさに次期星将候補筆頭だ」
部下たちの会話を聞きながらも、真の目は、暗黒球を見据えている。どれだけ睨みつけたところで内側を覗き見ることはかなわないが、目を離すわけにもいかなかった。
巨大な球体内部には、朱雀院火倶夜と山王瑛介、神明真緒の三人しかいない。その三人だけでトールと戦い、撃ち倒せるなどとは、真を含め、だれ一人として考えていないだろう。
ただ、この先行攻撃部隊への被害を抑えるためにこそ、星象現界を駆使し、トールの足止めを行った。
ただの時間稼ぎであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
トールがなぜ、己が領土を離れ、このオベロンの領地である黒禍の森を訪れたのかといえば、当然のことながら、先行攻撃部隊がやりたい放題に進軍しているからに違いない。
オベロンの手引きによって〈殻〉内部を蹂躙する先行攻撃部隊は、オベロン以外の幻魔にとっては排除するべき異物でしかない。
オベロンが打って出ないというのであれば、トールが出張ってくるというのも考えられないことではなかった。
『全く、トールには困ったものです。ここはオトロシャに任された我が領地。トールが好き勝手暴れて良い場所ではないのですが……』
などと、オベロンの声が、真の頭に留まった金色の蝶から漏れてくる。
オベロンは、己が化身たる黄金蝶を先行攻撃部隊との連絡役として派遣しており、蝶を通じて様々な情報を送ってくれていた。
たとえば、オベロン配下の幻魔たちがどこに配置されているのだとか、黒禍の森の地形がどうなっているのだとか、オベロンの領土に関する情報は事細かに教えてくれていた。
そこに嘘偽りはなく、全て事実だった。
オベロンが恐府攻略のため、戦団に全面的に協力してくれていることは確かであり、そこに疑いを持つ必要はなくなっていた。
もちろん、オベロンに気を許す必要もないのだが。
利害が一致しており、利用する価値があると言うだけの話である。
『しかし、トールも長時間はいられないでしょう。もっとも優先するべきは、己が領土たる雷神の庭。雷神の庭が攻撃されていることが明らかになれば、速やかに撤退してくれるはずです』
「それまでは、師匠たちに気張ってもらうほかないということか」
「なに。軍団長は戦団最高火力だ。そう簡単に負けはしないさ」
「はい。そう信じています」
真は、布津の発言に頷くと、視線を巡らせた。火倶夜たちの安否に意識を割いている間に状況が変化していた。
「おれたちは、おれたちにできることをするしかありませんね」
黒禍の森そのものが、激しく震えている。
どこからともなく姿を見せた大量の幻魔が、地上を埋め尽くすようにして蠢いていた。仰ぎ見れば、飛行型幻魔もまた、群れをなしている。
『これは……想定外の事態ですね。この数の幻魔を配置した覚えはありません』
「たぶん、星象現界だ」
『はい?』
「幻魔は、魔素質量に引き寄せられるだろう。星象現界の魔素質量は、並みの魔法の非じゃない」
『なるほど。しかし……わたしの命令を無視するほどですか。ふうむ……』
なにやら考え込むようなオベロンの言葉を黙殺するようにして、真は、部下たちに目配せした。
大量の幻魔は、黒天大殺界が持つ魔素質量に引き寄せられ、集まったのだ。
まるで重力場だ。
とてつもなく巨大な重力場が、黒禍の森に潜んでいた幻魔たちを吸い寄せているかのようだった。
黒禍の森に棲息するのは、オベロン配下の幻魔である。故にオベロンの命令に従っているものの、かといって先行攻撃部隊を攻撃しないように、などという無茶苦茶な命令には従わないようだ。
殻主オトロシャの命令こそが絶対であり、そればかりはオベロンにもどうすることもでいないのだ。
故に、重力場に引き寄せられた幻魔たちは、先行攻撃部隊を発見し次第、戦闘態勢に入るに違いなかったし、既に律像を展開している幻魔の姿もあった。
オベロンは、風属性を得意とするようであり、配下にも風属性の幻魔が多い。
霊級幻魔でいえば、スプライトとシルフ。いずれも実体を持たざる不安定な魔力の塊というべき怪物たちだ。
獣級幻魔ならば、風妖犬、三鎌鼬、双頭蛇、魔霧猫。
そして妖級幻魔は、歌鳥女、小妖精、大妖精。
現在、先行攻撃部隊の前方に充ち満ちた幻魔の群れを統率しているのは、妖級幻魔サイレンのようである。
それも十体ものサイレンが雷雨の中を舞い踊るようにして、黒天大殺界を取り囲んでいる。
突如として黒禍の森に現れた超特大魔素質量に疑問を持ちつつも、先行攻撃部隊を認識し、こちらを攻撃対象と定めたようだった。甲高い歌声が、轟く雷鳴を弾き飛ばすように響き渡る。
「結構な数ですね」
「五百……いや、千はいそうだな」
「まあでも、やるしかないよねえ」
「そりゃそうだ」
草薙小隊の面々は、互いに発破をかけあうようにしていうと、練り上げた魔力を元に律像を組み上げた。
先行攻撃部隊の導士たち全員が、同様に魔法の設計図を構築していく。
それは幻魔たちも同じだ。
サイレンが響かせる美しくも破壊的な歌声は、部下たる幻魔たちへの指示であり、また、同時に真言でもあったようだ。大気を掻き混ぜ、強烈な風圧となって先行攻撃部隊を襲った。衝撃波が、直前に構築された魔法壁に激突し、爆音を響かせる。
「七支霊刀」
「火昂印」
「破岩砲!」
「護風紋」
草薙小隊は、丘の上に布陣したまま、四者四用に魔法を発動させた。
真が炎の七支刀を具象し、その七つの切っ先から無数の熱光線を撃ち放てば、羽張四郎の補型魔法が四人に炎の印を付与し、魔力の練成効率を飛躍的に向上させ、布津吉行が巨大な岩石を砲弾のように撃ち放ち、急接近中のカーシーの群れを吹き飛ばしていく。
村雨紗耶の防型魔法は、複雑にして精緻極まりない小さな紋様として具現している。それは、付与された対象が攻撃されたときにこそ発動する自動防御魔法であるため、即座にその威力を発揮するものではない。
そして、草薙小隊を含む第十軍団先行攻撃部隊の導士たちが、一斉攻撃を行ったことにより、黒禍の森の大部分が混沌に飲まれるかのようにして、凄まじいまでの魔法戦が展開されていく。
トールの雄叫びは、それそのものが真言だったのだろう。
巨躯に満ちた莫大な魔力が、物凄まじい威力の雷光となって全身を迸り、全周囲に伝わっていく。影の巨人を打ちのめし、己を拘束する重力場からも解き放たれれば、大きく跳躍して見せた。
「素晴らしいっ! 素晴らしいぞっ!」
歓喜に満ちた大声が、雷鳴のように降り注いだかと思えば、実際に落雷が起き、火倶夜たちに襲いかかる。
苛烈極まる雷撃の嵐は、しかし、火倶夜に直撃する寸前にその進路を変えた。
急角度にその進路を転じた雷撃は、トールの腹や肩、頭頂部にこそ突き刺さり、爆砕を起こしていく。
瑛介や真緒も、同様に雷の直撃から逃れられただけでなく、自分に殺到した雷撃の数々がトールにこそ襲いかかる様を目の当たりにしている。
「相変わらず物騒な星象現界」
思わず真緒が本音を漏らしたが、瑛介は聞き逃してなどいなかった。彼女を一瞥し、片目を瞑ってみせる。
「これが死神のお仕事ってわけ」
第十軍団の死神・山王瑛介は、トールが跳躍によって黒天大殺界を突破しようと試みた挙げ句、地上に引きずり下ろされ、さらに自身が放った雷撃の嵐に襲われる様を当然の道理の如く見ていたのだ。
それこそ、黒天大殺界の力だからだ。
「さすがね」
火倶夜も、瑛介の星象現界には称賛を浴びせるしかなかったし、彼と真緒を選抜したのは正解だったと思うのである。
杖長の中でも星象現界の使い手は限られている。
先行攻撃作戦が〈殻〉攻略の前哨戦でしかないとはいえ、どのような事態に遭遇するとも限らない以上は、やはり、星象現界を使える導士をこそ投入するべきなのだ。
でなければ、いまごろ、火倶夜はトールに殺されていたかもしれない。
それほどまでに鬼級の力は圧倒的であり、絶対的だ。
そこに疑いを持つ必要はない。