第八百六十八話 大地を穿つ(三)
鬼級幻魔オトロシャは、恐府と名付けた〈殻〉の殻主である。
そしてオトロシャには、三体の腹心たる鬼級幻魔がいる。
それら三体の鬼級幻魔は、三魔将と呼ばれており、それぞれ妖魔将オベロン、地魔将クシナダ、雷魔将トールという。
恐府の三方にオトロシャから与えられた領地を持ち、その地を管理し、防衛することに心血を注がなければならないのだ、という。
また、三魔将の領地は、それぞれに大きく異なる地形、風景をしているということも周知の事実である。
どす黒い結晶樹に覆われた黒禍の森を主体とするオベロンの領地は、いままさに、雷魔将によって蹂躙されているといっても過言ではない有り様だった。
雷魔将トールは、さながら神話に登場する巨人の如き威容を誇っていた。隆々たる体躯は、優に十メートルを超えるほどであり、分厚い筋肉を黄金色の装甲で覆っている。絢爛たる武具もまた、己が神話の存在であることを主張しているかのようだった。
そしてその巨大さは、遠方からでもはっきりとその姿を視認できるほどだったし、ただ前進するだけで大量の結晶樹を薙ぎ倒し、無数の幻魔を吹き飛ばしていく様は圧巻というほかない。
オベロン配下の幻魔がどうなろうと知ったことではないとでもいわんばかりだった。
「いやはや。想定通りとはいえ、あんなのとまともにやり合ってどうにかなるんですかねえ」
山王瑛介の意見も、もっともだ。
相手は、鬼級だ。
鬼級に対抗するには、最低でも三名の星将が必要だというのが戦団内での定説であり、事実である。
もっとも、三名以上の星将と投入して、ようやくまともな戦闘になるのであって、必ずしも勝てるわけではない。
六名の星将が投入された挙げ句、全員が死亡したという事例もあるのだ。
鬼級とは、それほどまでに途方もなく強大無比な存在だった。
火具夜は、冷ややかに告げた。
「どうにもならないでしょうね」
「はい?」
「わたし一人で抑えられると想う?」
「それは……」
「師匠なら不可能はないかと」
「あなたねえ」
火倶夜は、当然のようにいってきた弟子に半眼を向ける。
トールとの距離は徐々に縮まりつつある。幸い、こちらに驀進中の敵は、トールだけのようだ。
どうやらトールは、たかが人間の軍勢を討ち滅ぼすなど己だけで十分だと考えているのではないだろうか。そしてそれは、大方否定できない事実である。
たった百人の導士では、鬼級を相手にまともに戦えるはずもない。
星将一名に杖長二名では、食い下がれたのであれば、上出来だろう。
「師匠なら、できますよ」
真は、火倶夜を仰ぎ見ながら、断言する。願望などではなく、確信をもって、だ。
そんな弟子のきらきらとした眼差しには、火倶夜も呆れるほかなかった。真は、火倶夜を過大評価しすぎている。
だが、もちろん、そんな期待を無下に否定するつもりはない。
なにより、この状況だ。
ようやく恐府攻略作戦の第一歩が踏み出せたばかりである。
引くに引けなかった。
「まあ……やるしかないんだけど」
「やってください、師匠」
「……山王杖長、神明杖長、行くわよ」
「え、あ、はい」
「行きますかあ!」
火倶夜が丘の上から飛び立てば、山王瑛介と神明真緒の二人が続く。そして、攻撃部隊の導士たちは、この丘の上に布陣し、トールへの攻撃を開始した。
トールが、吼える。
それはさながら、雷鳴だった。
大気を引き裂き、大地をも震撼させる大音声が響き渡れば、晴れ渡っていた空が突如として雨雲に覆われ始めた。
『ああ、そうそう。トールは天候を操りますから、気をつけて』
「そういうの、早く言って欲しいわね」
『それから、トールは雨が好きだそうで』
「雨」
火倶夜が反芻するようにつぶやいたときには、雨が降り始めていた。しかも、大雨だ。大量の雨粒が間断なく降り注ぎ、稲光が曇天に煌めく。
雷雨だ。
「オベロンめ! なにをしているのだ! なぜ、斯様なものどもの侵入を許している!」
雷鳴のような大音声がトールの巨躯から発せられれば、まさに雷光が四方八方に飛び散った。
無論、それらは火倶夜たちを狙った攻撃魔法であり、火倶夜は急上昇することで回避して見せると、全身に満ちた星神力を解放した。律像は、既に構築し終えている。
「百弐式・紅蓮単衣鳳凰飾」
火倶夜の周囲に渦巻いていた複雑にして精密な律像が拡散し、超新星爆発でも起きたかのようにして、星神力が具現する。
トールの双眸が紅く輝いたのは、雷雲を焼き払うかのように燃える紅蓮の炎を捉えたからにほかならない。
燃え盛る炎の塊は、さながら鳳凰が翼を広げるようにして、その絢爛たる姿を見せつけた。莫大な星神力が、具体的な形となって顕現すれば、さしものトールも態度を改めざるをえない。
「ふむ! なるほど! オベロンが苦戦するのも無理からぬことだ!」
歓喜が、トールの口から漏れ、表情にも溢れた。
力だ。
強大無比な力が、いまトールの目の前に現出したのである。
それもただの雑兵とすら見ていなかった人間から放たれた力なのだ。
トールが興奮するのも当然のことだった。
『なんとも失礼な――』
などと言いつつも、オベロンの化身たる黄金の蝶は、星神力の炎に灼かれて溶けてしまった。
火倶夜は、一瞬、そのことに気取られたものの、つぐの瞬間には、トールに意識を集中している。黄金蝶は、オベロンとの連絡手段だが、火倶夜に留まっていた一体だけではない。
「黒天大殺界!」
「暗夜の死徒」
山王瑛介と神明真緒が立て続けに真言を発すれば、二人の全身からも膨大な星神力が発散された。
第十軍団の全十名の杖長のうち、山王瑛介と神明真緒の二名が先行攻撃部隊の一員として選ばれた最大の理由が、それだ。
つまり、星象現界の使い手にして、第十一団最高峰の魔法技量の持ち主なのだ。
二人が同時に星象現界を発動すれば、まず、瑛介を中心とする重力場が生まれた。それは巨大な球となって爆発的な勢いで膨張すると、火倶夜や真緒を飲み込み、トールの巨躯をも捉えて放さなかった。
トールは、元より逃げようともしていないが、しかし、だからこそ重力場の中心に据えられたのだ。
暗黒球は、速やかに巨大な結界となり、内と外を隔絶してしまった。暗黒球の内面には、複雑怪奇な紋様が浮かび上がり、紅く輝く。
トールは、それらの紋様を見回し、そして、自身を捉えて放さない強力な重力場を認識する。その重力場は、トールをこの結界の中から逃さないためのものであるらしく、結界内であれば自由が効いた。手足を動かし、歩き回ることすら可能だった。
そして、そのように結界の能力を知ろうとするトールの背後に現れたのは、巨大な黒い影である。トールの影そのものが実体化したようなそれは、分厚い両腕でもって雷魔将を背後から羽交い締めにしようとして、振り向き様の一撃で吹き飛ばされかけた。
だが、トールがおもむろに叩きつけた金槌は、影の巨人を粉砕こそしたものの、つぎの瞬間には元通りに復活しており、何事もなかったかのように鬼級幻魔と組み合ったのだ。
そこへ、火の雨が降り注ぐ。
火倶夜がトールの頭上へと至ったのだ。
トールは、火の雨に灼かれながら、焦がれるように空を仰いだ。
「一つ、問う!」
「なに……?」
火倶夜が思わず聞き返してしまったのは、トールの勢いに飲まれたからだ。喜悦満面といった様子のトールは、炎の雨をものともせず、影の巨人を殴り飛ばしている。
「貴様らは本当に人間か!」
「そうだといったら?」
「人間っ……! 人間かっ……!」
火倶夜が冷ややかな眼差しを向ければ、トールが興奮気味に吼え、猛るままに影の巨人を金槌で殴りつけ、粉砕する。しかし、影の巨人はすぐさま復活し、同じく金槌で殴り返すのである。
トールと影の巨人の取っ組み合いが始まれば、それだけで周囲一帯に莫大な魔力が渦を巻く。
「さすがね」
火倶夜は、炎の翼で羽撃きながら、瑛介と真緒を賞賛した。
瑛介の空間展開型星象現界・黒天大殺界と、真緒の化身具象型星象現界・暗夜の死徒は、元より強力な星象現界だが、組み合わせることによってさらなる力を発揮した。
互いに闇属性ということも関係しているのだろうし、能力の相性がいいのだろう。
黒天大殺界によって強化された暗夜の死徒が、鬼級幻魔をも足止めすることに成功しているという事実には、感嘆すら禁じ得ない。
これほど頼もしいことはなかった。
だからこそ、火倶夜も負けてはいられないという気分にもなる。
「捌式・紅翼天翔!」
火倶夜は、真言を発し、紅蓮の翼で大気を叩いた。虚空を駆け抜け、一瞬にしてトールの眼前を通過する。軌道上の全てを灼き尽くす最大威力の火属性魔法は、星神力での発動によってさらにその威力を何十倍にも増大させ、破壊の限りを尽くしていく。
超高熱の奔流がトールの巨躯を灼き、無数の火の粉が火球となって膨張すれば、大量の火柱が立ち上って、巨人を飲み込んだ。
そして、トールが吼えたのは、魔晶体を灼く炎に歓喜すら見出したからだ。
天地が、震撼した。