第八百六十六話 大地を穿つ(一)
城ノ宮日流子は、眼前に広がる大地に蠢く大量の幻魔を見遣り、長杖型法機を掴む手に力を込めていた。
十月下旬。
戦団戦務局戦闘部第五軍団は、この十月、第九・第十衛星拠点を任地として活動しており、軍団長である日流子は、第十衛星拠点に入っていた。
第十衛星拠点は、出雲市の真東、オトロシャ領恐府との間に横たわる空白地帯に築かれた要塞である。
恐府の動向を監視し、万が一にでもオトロシャ軍が央都に攻め込んでくるようなことがあれば、全力で阻止し、撃退するのが主な役目だった。
そしてそれは、第十拠点のこれまでの役割だ。
いまは、違う。
第五、第十一拠点同様、恐府攻略のための最前線となったのである。
その主な内容こそ、恐府内に〈殻〉制圧のための橋頭堡を構築する先行攻撃作戦であり、第五軍団は、この十月に入ってから何度となく恐府への攻撃を試みていた。
第十軍団が第十一拠点から恐府南部への攻撃を繰り返しているのと同様に、第五軍団は、恐府東部への侵攻を行っているのだ。そうして〈殻〉内部に活動拠点を構築するのが先行攻撃作戦の概要だが、いまのところ、成果は上がっていない。
それでも先行攻撃作戦を諦める理由もなく、日流子は、今日もまた、先行攻撃部隊として百名あまりの導士を率いて、恐府の大地を臨んでいるのだ。
「オベロンの情報によれば、恐府の北西部を担当する鬼級幻魔はトールで、トールは雷属性の幻魔を多く従えているとのことですが」
「ええ、そのようですね」
杖長・人丸真妃の話に頷いたのは、前方の幻魔の大軍がその通りに構成されていたからだ。大量の霊級幻魔イナダマが浮遊しており、獣級幻魔ライジュウが群れを成している。一角獣の姿もあれば、雷獅鷲が雷鳥とともに空を舞っていた。
その頭上には暗雲が立ちこめており、いまにも雷が降り出しそうな気配すらしている。
それも、〈殻〉内部だけのことであり、いま先行攻撃部隊が身を潜めている空白地帯の空は、呆れるほどに晴れ渡っていた。
恐府の、それも一部地域の上空だけが、どす黒い雷雲に覆われているのだ。
「現状、オベロンの情報に嘘はなさそうね。かといって信用しきるのもどうかとは思うけれど」
「それもその通りなんですが」
とはいえ、オトロシャ軍の内情を詳しく知るオベロンが戦団にもたらした情報は有益なものばかりであり、それら情報のおかげで、第十軍団の先行攻撃作戦は順調に進んでいるという話だった。
そして、第五軍団もそれに乗ずるようにして、今月数度目の先行攻撃任務を行おうというのである。
これも、オベロンからの提案であった。
南側の一点だけを攻撃するよりも、複数箇所、様々な方面から攻撃した方が、オトロシャ軍の戦力を分散させることになり、恐府攻略の成功率を高められるだろう、というのである。
しかも、オベロンは近隣の〈殻〉から敵戦力を恐府へと誘引しており、オトロシャ軍は戦力を分散して対応する羽目になっているのだという。
オベロンは、打倒オトロシャのためならば手段を選ばないようだ。
戦団を奇貨と見、利用価値を見出したという時点でも異様ではあったが、他の鬼級幻魔の野心すらも利用しようというのだから、徹底していると見ていい。
もちろん、戦団としては願ったりかなったりではある。
戦団が恐府を制圧し、勝利を得るためには、いくつかの条件を突破しなければならない。
その中でも最も大きな条件は、戦力差を覆すことだ。
戦闘部の全導士を動員できたとしても、たった一万二千人程度に過ぎない。
それに比べ、ムスペルヘイムを超える領土を誇る恐府の、オトロシャ軍の動員戦力は、二千万をくだらないという。
もちろん、霊級程度の幻魔も数多といて、そんなものは物の数には入らないとはいえ、物量による浸透作戦は凶悪だったし、無視できるものでもない。
持久戦となれば、戦団のほうが圧倒的に不利なのはいうまでもない。
だからこそ、迅速に殻主オトロシャを、いや、殻石を霊石化することによって、この広大な領土そのものを人類のものとするのである。
それ以外に道はない。
そして、そのための前哨戦こそが、この先行攻撃作戦であり、第三、第五、第十軍団が日夜奮闘しているのである。
オトロシャ三魔将の一、妖魔将オベロンが第十軍団に接触してきたのは、その最中だ。
幻魔との共闘など考えたくもないというのは、戦団の導士ならずともだれもが想うことだったし、オベロンの提案に対し、戦団最高会議が紛糾したのはいうまでもない。
だが、オトロシャ軍という最大の難敵を相手にするというのであれば、オベロンと手を組むべきだという結論に至るのも、当然だった。
幻魔など信用に値しない。
だれもが口を揃えて言う。
龍宮のオトヒメ、マルファスは特別であり、例外だったのだ、と。
マルファスは心臓を差し出し、オトヒメはオロチへの信仰と博愛精神を見せた。
オベロンは、どうか。
彼は、ただ、いった。
『倦んでいる』
その言葉だけで信用するのは無理がある。
とはいえ、オベロンを利用しない手はなかったし、戦団最高会議は、結局、彼の提案を受け入れることにした。
そして、それによってオベロンからもたらされた情報は、戦団が全く掴んでいなかったオトロシャ軍の全容であり、総勢二千万百万という大軍勢の実態だった。
その実態を知れば、戦団の最高幹部たちも、オベロンと手を組むことにした意味を見出そうというものだった。
日流子も、そんな一人だ。
「オトロシャ軍の総兵力は二千百万。そのうち、オトロシャ直属部隊は三百万で、三魔将がそれぞれ六百万の幻魔を率いているという話ですよね。つまり、トール軍も六百万の大軍勢ということ……ですよね?」
杖長・大黒詩津希が、確かめるように聞いた。
「ええ」
「たった百人でどうにかなる戦力差じゃありません……よね?」
「そうね。その通りよ」
小さく息を吐き、日流子は、周囲を見回した。
第五軍団一千名の中から選りすぐられた百名の導士たちは、だれもが黒基調の導衣を身に纏い、法機を手にしている。皆、決死の覚悟でもって眼前の戦場を臨んでいるのは、その表情からも伝わってくるというものだ。
たった百人。
そのうち杖長は二名だ。
当然のことながら、第十衛星拠点の防備を固める必要もあるし、全戦力を放出することなどできるはずもない。
第十衛星拠点に隣接しているのはオトロシャ領だが、空白地帯を住処とする野良幻魔は数多といて、それらが抜け殻同然の拠点に攻め込んでこないとも限らない。
また、北に位置するアトラスの〈殻〉から軍勢が押し寄せてくる可能性も、皆無ではないのだ。
拠点の防備にも手を抜かず、恐府攻略の橋頭堡を築き上げる。
難問だが、完遂しなければならない。
でなければ、人類に未来はない。
「でも、わたしたちがやらないといけない」
「はい」
「まったく……恐ろしいことです」
「恐れは、必要よ。勇気は人を殺す。恐怖こそがわたしたちに必要不可欠なもの。だから、あなたは素晴らしいのよ」
「は、はあ……」
大黒詩津希は、褒められているのかもよくわからないまま、微妙な表情になった。彼女は、真妃と同期の古参導士である。年齢にして三十八歳。戦闘部の導士として二十年以上に渡って戦い抜いてきたわけであり、歴戦の猛者なのだ。
十年も現役の戦闘部導士を続けられるというだけでも凄いことだ、と、だれもが褒めそやす。二十年となれば、尚更だ。
しかし、そんなことを誇る彼女ではなかったし、幸運に恵まれたのだと実感してもいた。
そんな彼女が戦慄さえ覚えているのは、これから恐府に乗り込もうとしているからにほかならない。
詩津希にせよ、真妃にせよ、長年戦闘部に所属し、導士として数え切れないほどの幻魔と戦い、死線を潜り抜けてきたものたちであっても、〈殻〉に乗り込んだことなど一度もないものが多かった。
戦団が直近に行った〈殻〉攻略が、三十年近く前に行われたイブリース領攻略戦である。
それから三十年の長きに渡って、戦団は、央都防衛にこそ力を注いできた。それもこれも、人類復興の一環であり、人口が増加し、それによって戦団の戦力そのものが増強されるのを待っていたからでもある。
そして、ようやく人口が百万人を越えたばかりだ。
戦闘部の人員も一万人を越え、各軍団が千人以上の導士を抱えるようになっても、防衛に力を割かなければならなかったのは、それがこの世の有り様だからだが。
この魔界を生き抜くには、そうするほかなかった。
しかし、それだけではどうしようもないからこそ、外に、外征に活路を見出そうとしているのが、戦団の現状なのである。
数十年ぶりの外征は、歴戦の猛者をも緊張させ、恐怖させるのだ。
とはいえ。
「今回の任務は、前哨戦も前哨戦よ。たった百人で六百万の大群と戦うことなんて、ありえないわ」
「そもそも、トール本人がいないという話ですからね。少なくとも鬼級とは遭遇しないということです」
「それが本当ならいいんだけど」
これから日流子隊が攻め込もうとしているのは、恐府内のトールが管轄する一帯である。そして、管理者たる雷魔将トールは、オベロンの管理区に援軍として派遣されているのだという。
第十軍団攻撃隊によってオベロンが押され、その不甲斐なさに憤ったトールが自ら軍を率いてきたという情報が飛び込んできたのが、今朝方のことだ。
オベロンの化身が、第五軍団に伝えたのだ。
そして、日流子は、この機会を逃すまいと部隊を編成し、いままさに、雷神の庭と名付けられたトールの管轄区へと飛び込もうとしているのだ。
「嘘でも本当でも、行くしかないのよ」
「はい」
「はっ、はいっ!」
杖長二人の反応を見て、日流子は、大きく空気を吸い込んだ。肺の中を異界の空気で満たすのは、嫌な感覚だったが、仕方のないことだ。
魔界は、なにもかもが浄化された人類生存圏ではないのだ。
生気のない、あらゆるものが死に絶えた世界。
魔界。
そこに満ちたどす黒い空気を肺に送り込み、吐き出す。呼吸を整え、意識を研ぎ澄まし、そして、大地を蹴った。
「えっ!?」
「日流子様!?」
真妃と詩津希は、日流子が大地を滑るようにして駆けていく様を見て、慌てて後を追いかけた。地を司る彼女らしい魔法であり、その速度たるや、並の飛行魔法ではかなわない。
真妃たちは、法機に飛び乗って飛行魔法を発動し、空を舞った。軍団長の後に続く。
日流子は、真っ先に〈殻〉内部に乗り込むと、目の前のイナダマの群れ目掛けて真言を唱える。
「四百弐式・土流放」
津波の如く噴き出した大量の土砂が、霊級幻魔の群れを飲み込み、押し潰していく。断末魔が、無数に響き渡った。
実体を持たざる霊級幻魔に、直接攻撃は効かない。が、魔法ならば話は別だ。魔力でもって生み出された土砂の津波が、大軍勢の最前列を飲み込んでしまえば、状況は一変する。
幻魔たちが咆哮し、無数の稲光が天から降り注いだ。
頭上を覆う暗雲は、このためのものかと思われた。