第八百六十四話 三姉妹(二)
央魔連を辞める。
望実と珠恵の出した結論に、幸多が異論を挟む余地はなかった。
幸多が生まれる前から央魔連の職員として働いており、人生の半分以上を捧げてきたであろう職場を離れるということに関して、二人が苦悩していないはずがないのだ。
考えに考え抜いて下した結論をとやかくいう理由がない。
央魔連という組織そのものが混沌としているらしいという話を聞けば、そんな組織さっさと辞めてしまえばいい、という奏恵の意見もわからないではないし、幸多も同意するのである。
一つの組織、一つの職場に拘る必要はない。
望実や珠恵ほどの魔法技量があるのであれば、引く手数多だろうし、なにをしたって生きていけるだろう。
これまでの貯蓄もあるし、なんだったら、幸多と統魔の給料を当てにしてくれたって構わない。導士は、高給取りだ。特に戦闘部の導士ともなれば、灯光級三位ですらとんでもない給料が支払われるのである。
幻魔との戦闘が主な役割なのだ。
多少、他の職業よりも高額な給料をもらえたところで、という話だった。
そんなことを考えながらも、幸多は、二人に問いかける。
「央魔連を辞めた後は、どうするの?」
「そうね。しばらくは羽を伸ばすのも悪くない気がしているわ。長年、働き詰めだったしね」
「特にのー姉はね。あたしは適度に休んでたけど」
「仕事が好きだったのよ。央魔連も悪い組織じゃなかった。ううん、いまも別に悪い組織なんかじゃないのよ。末端の職員は皆頑張ってるし、市民のため、央都のためを思って職務に励んでいるわ。わたしはそういう央魔連が大好きだったから、働き続けるのも苦じゃなかったのよね」
望実が振り返るように言い切る様を見れば、彼女がもはや央魔連に心を置いていない様子が伝わってくるようだった。
それが、少しばかり寂しく感じるのは、幸多にとって二人は央魔連が誇る魔女という印象が強いからだ。
望美と珠恵は、卓越した魔法技量と積み上げられた実績によって、支部長にまで上り詰めている。
いわば、幹部の中の幹部である。
そんな彼女たちからしても、央魔連の上層部が、幹部たちが、日々、権力闘争に明け暮れている様を見るのも億劫だったのかもしれないし、馬鹿馬鹿しく思えたのだとしてもおかしくはない。
しかも、支部長という立場が故に無関係な魔法犯罪の責任を追求されているという現状を鑑みれば、央魔連に愛想を尽かしたとして、だれが責められるというのか。
四人の幹部が起こした魔法犯罪を皮切りに、央魔連という組織の屋台骨が大きく揺らいでいた。盟主が本部長や支部長に対し、事態の収拾を厳命しつつも、その責任を追求すれば、幹部たちが是幸いにと権力闘争を激化させているのだという。
望実も珠恵も、そんなことは一切望んではいなかったし、自分たちの力で事態を収束できるというのであれば、速やかにそうしただろう。
だが、この一連の騒動は、央魔連だけに留まるものではなかった。
央都四市どころかネノクニにまで波及し、双界全土を巻き込むほどの問題にまで発展しているのだから、どうしようもない。
そのおかげなのか、央魔連自体の影は薄くなりつつあるようだが。
「でもまあ、そんなことはどうでもいいのよ。辞めてしまえばそれまでのことだし、それを止めることはだれにもできないしね」
「幹部連中からすれば、あたしたちが辞めてくれるのならそれに越したことはないって感じだもんね」
「支部長も大変ね?」
「本当、大変だったわよ」
「面倒事を押しつけられるのが上の人間でしょ。支部長なんて、盟主に次ぐ立場なんだから、そりゃあもう」
うんざりとしたように笑う望実と珠恵に、奏恵は、二人の心情を思い遣った。奏恵も幸多が生まれるまでは央魔連で働いていたのだ。二人が央魔連にどれだけ尽くしてきたのかについて、奏恵ほど理解しているものはいまい。
責任感の強い二人のことだ。
それこそ、このような結論へと至る過程で、どれほど思い悩んだのかと想像すれば、同情を禁じえない。
「でもまあ、決して悪いものでもなかったけどね」
「組織の最高幹部になれるだなんて、貴重な経験もできたし。ふつー、なりたくてもなれるもんじゃないでしょ?」
「そうね」
奏恵は、小さく頷き、珠恵が幸多の頭頂部に顎を乗せる様を見ていた。珠恵がこの三姉妹の中で一番幸多に馴れ馴れしいが、溺愛しているのは、彼女だけではない。
当然だが、母親である奏恵こそがもっとも深い愛情を注いでいるという自負があったし、だからこそ、望実や珠恵の愛情表現がただただ嬉しかった。
幸多は、なにも生まれ持たなかった。
ならばせめて、幸せだけでも人より多く与えてくれないものか、いや、与えられるべきではないか、という想いが込められた名は、彼に限りない愛が注がれている現状によって体現されている。
それは、奏恵の贔屓目に過ぎないのかもしれないが。
「……辛気くさい話はここまでにしましょう。せっかく幸多くんがいるのに、そんな話で時間を潰したくはないわ」
「そうね。本当にそうよ」
「ぼくは、色々知ることができて良かったよ」
幸多は、望実を横目に見て、いった。
幸多にとって望実と珠恵は、親族の中でも特に親しい存在だ。物心つく前から遊んでもらっていたという話だったし、両親に次いで深い愛情を注いでくれていたことは、疑いようがない。
そんな二人の人生が、この度の事件で大きく変わろうとしているということは明らかだったし、そこに多少なりとも関わっているという事実には、幸多も目を逸らしてはならないと考えていた。
あのとき、長田刀利を拘束することができたのならば、二人の置かれている状況は変わったのだろうか。
長田刀利を拘束し、魔法の暴発を抑えることができたのであれば、状況は変わったのか。
いや、と、幸多は、胸中で頭を振る。
変わらなかっただろう。
結局、長田刀利や央魔連幹部が魔法犯罪に手を染めたという事実は変わらず、責任の所在を巡って、央魔連内部で大騒動となっただろうし、それに二人が嫌気が差すことになるのも変わらないだろう。
くだらない権力闘争が、二人をして央魔連を辞めさせる決断に至らせることになるのだ。
鬼級幻魔は、誕生しなかったかもしれないが、そんなものはありもしない仮定の話に過ぎない。真面目に考えるだけ無駄だ。
「今回の騒動で央魔連内部で紛糾しているって話を聞いたとき、まっさきに考えたのは、のー姉とたま姉のことだったんだ。二人がやり玉に挙げられてるって聞いてさ。それで、大丈夫なのかなって心配になったんだ」
幸多が心情を述べれば、背後から強く抱きしめられた。
「もおおおおおおおおおお! なんなの! 幸多くん! そんなに考えてくれてたのおおおおおお!」
「た、たま姉、ちょっと大袈裟すぎない?」
「いつものことでしょ」
「そうだけどさ」
幸多は、乱暴なまでに抱きしめてくる珠恵に辟易しつつも、それこそが普段通りの彼女なのだから、安心もした。
結果的に、権力闘争に敗れるようにして央魔連を辞めることにした二人だ。精神的に参ったりしていないか、心配だったのは確かだった。
いつも通りの珠恵は無論のこと、いつの間にか幸多の手を両手で包み込むようにしている望実もまた、大丈夫そうに思えた。
自分から央魔連を辞めることにしたのだ。
受動的ではなく、能動的に。
消極的ではなく、積極的に。
前に進むために。
そのための選択肢として、長年所属した組織から抜け出すというのは、悪くないことなのだろう。
無論、思い悩んだ末の決断だということもわかってはいる。
しかし、二人の元気そうな姿を見れば、幸多も安堵するのである。
そして、そんな幸多の様子を見て、心底胸を撫で下ろしているのが奏恵だった。
幸多が瀕死の重傷を負ったという報せを聞いたとき、奏恵は、気が動転しそうになった。いつものことだ、などとは考えもしない。いつだってありうることだと想定していたし、想像していたが、だからといって現実に突きつけられれば、その衝撃たるや計り知れない威力を持っていたのだ。
鬼級幻魔によって、腹を貫かれたのだ。
いま奏恵の目の前にいる幸多が、望実や珠恵に振り回されている我が子が、こうして生きているという事実にこそ、ただただ感謝している。
奇跡的に一命を取り留めたのであり、戦団の優れた医療技術のおかげで息を吹き返したのだ。
奏恵は、幸多が珠恵と望実の二人に抱きしめられて動けなくなっていく様を見て、くすりと笑う。
望実も、珠恵に幸多を独占されるのが嫌になったようだ。
そして、そんな望実に抗うようにして幸多を抱きしめる力を込めるのが珠恵であり、望実が対抗するために、幸多はどんどん二人の間に挟まっていく。
「か、母さん、笑ってないで助けてよ」
「散々心配かけたんだから、それくらい我慢なさい」
「ど、どういう反応!?」
幸多は、素っ頓狂な声を上げながら、珠恵と望実の間に埋没していった。
それはまさに、ありふれた日常風景に過ぎず、だからこそ、幸福に満ちていた。