第八百六十三話 三姉妹(一)
翌日、幸多が退院するなり真っ先に行ったことといえば、家族に会うことだった。
退院即任務などということもなく、その日一日は休養日として好きにしていいという通達があったからだ。
真白たちからはさっさと大和基地に戻ってきて顔を見せろ、という声もあったしそれも重要なことだとは思ったものの、しかし、幸多にとっては家族のことも考えなければならなかった。
小隊長となったいまとなっては、家族と戦団、どちらに比重を置くべきなのかと迷うことはないのだが、とはいえ、休養日である。
しかも丸一日休養日というのであれば、なにをしたって構わないはずだ。
普段なら真白たちの意見ももっともだと基地に戻っただろうが、今回ばかりは、幸多の我が儘を通すことにした。
そしてまず、奏恵と逢おうと思ったのである。
奏恵は、天風荘におり、幸多が戦団本部に運び込まれたという話が伝わると、三日間、毎日見舞いに訪れていたという話だった。その様子を目の当たりにした明日花に言わせると、幸多の覚醒を信じているものの、心底不安そうな表情をしていたということであり、一刻も早く元気になった姿を見せたかった。
戦団本部から天風荘まで、幸多は、駆け足で向かった。あっという間だった。そして、統魔が借りている部屋の扉を開けば、玄関に女性ものの靴が三足、並んでいることに気づく。
「ただいま?」
幸多がおずおずと言葉を発すると、なにやら物音がした。かと思えば、突風が吹いてきて、幸多を羽交い締めにするかのようにして抱きついてきた人物がいた。
「幸多くううううん! あいたかったよおおおおおお!」
幸多を抱きしめ、あまつさえそのまま振り回し始めたのは、叔母の珠恵だった。三姉妹の中でもっとも長身の彼女は、その分、力もあった。幸多との久々に逢えたことを全力で喜んでいることが、抱き締める力の強さからも伝わってくるようだった。
すると、どたどたと廊下を走ってくる音が、幸多の耳朶に突き刺さる。
「ちょっと、珠恵。幸多くん、病み上がりなんだから、もう少し気を使いなさい」
「優しく包み込んでるでしょお」
「どこがよ」
「どう見てもお」
「そうは見えないわ」
などと、珠恵と言い合った末に嘆息したのは、望実である。
三姉妹で一番背の低い彼女は、幸多と同じくらいの目線であり、目があった瞬間、笑いかけてきた。その笑顔がどこか空疎なものに見えただけでなく、全体として、以前に逢ったときよりも少し窶れているように見えるのは、幸多の気のせいなどではあるまい。
望美は、問題を抱えている。それは珠恵も同じなのだが、しかし、珠恵は幸多を抱き締めるだけで幸福感を得ているらしく、満面の笑みを浮かべていた。
望美のそれとは、大きく異なる表情は、奏恵をして何度となく危機感を抱かせた程度には、深い愛情が込められている。
奏恵はといえば、望実の隣に立っていた。望実より上背があるものの、珠恵よりは背の低い母は、頬ずりされる幸多を見て、心底安堵したといわんばかりの表情をしている。
そんな母親の反応にこそ、幸多は、安心した。
「お帰りなさい、幸多」
「ただいま、母さん。のー姉、たま姉も、久しぶり」
幸多が挨拶をすれば、望美と珠恵が顔を見合わせた。
「本当に久しぶり……かな」
「毎日ニュースで見るもんねえ。久しぶりって感覚、ないかも」
「その割には痛いくらいなんだけど」
「そう? ごめんね。幸せすぎて」
「別にいいんだけどさ」
幸多は、珠恵が抱きしめる力をゆっくりと緩めていく様に笑うしかなかった。こうまでいわれても決して離さないというのが、いかにも珠恵らしい。
天風荘に長沢三姉妹が勢揃いしていたのは、一連の騒動が原因だった。
魔像事件ともいわれるこの騒動は、双界全土で取り沙汰されている。
昨夜、葦原市内各所で起きた多数の魔法犯罪は、幸多が寝ている間に央都四市のみならず、ネノクニにまで飛び火したのである。
いや、飛び火という表現は正しくはあるまい。
魔像事件に関わる魔法犯罪者たちに横の繋がりはなく、一切の関連性がないからだ。
魔法犯罪者たちが手作りの異形の像を隠し持っているという一点だけが共通しているのだが、それこそが混乱の元といっても過言ではなかった。
そのような像は歴史上存在しないのだ。
戦団が誇る統合情報管理機構は、過去から現在に至るまでのありとあらゆる記録を保管し、検索、閲覧することが可能だ。しかし、ノルン・システムの情報倉庫である〈書庫〉には、魔像と関連しているような資料、記録は一切見当たらなかったという。
では、ネットはどうか。
双界を巡るレイライン・ネットワークには、昼夜問わず、常になんらかの情報が巡り続けている。四六時中、どこかのだれかが何事かを書き込み、あるいは、画像や映像をネット上に投稿しているのだ。そうしてネット中を漂流するようになった莫大な情報も、ノルン・システムは全て確認し、その結果、魔像に纏わる情報は全て、事件後、無関係な市民によって投稿されたものだけだと判明している。
つまり、魔像は、魔法犯罪者たちが各々自分の手で作り上げたものだということだ。
この数時間で、央都四市とネノクニで起きた魔法犯罪は百件近くを数え、それらが全て幻魔災害へと発展したという事実は、人々を戦慄させるには十分すぎる威力を持っていたに違いない。
事実、この魔像事件の報道が熱を帯び、ネット中が騒然としている有り様を見れば、双界に住むだれもが関心を持っていることがわかるだろう。
それほどの事件の最初は、央魔連の支部幹部が引き起こしたものであり、その果てに幸多が瀕死の重傷を負ったというのであれば、三姉妹が精神的に打撃を受けるのも当然の話だったのかもしれない。
珠恵は、幸多を自身の膝の上に座らせると、背後から抱きしめて、その体温を、命を感じて安堵する。
「はあ……幸多くんが無事で本当に良かったあ」
「本当に……」
「そこまで?」
「当たり前でしょ」
幸多が、あまりにも自分の命に無頓着な反応をするものだから、奏恵は少し怒ったような顔をした。だが、幸多を叱ったところでどうしようもないことだという事実も、受け入れるしかない。
幸多だって、自分が家族にとてつもなく愛されていて、必要とされているということくらい理解しているはずなのだが、しかし、それとこれとは別だと冷徹に割り切ってもいるのだろう。
幸多は、自分の命と他人の命が天秤にかかった場合、平然と自分の命を差し出せる人間だ。
まさに導士に打って付けの精神性の持ち主といっていい。
しかし、それは、奏恵たちにとっては決して喜ばしいことではないのだ。
もちろん、幸多が導士として任務を全うしようという姿勢は素晴らしいものだし、幸多が英雄の如く活躍しているという事実には、感動すら覚えるのだが。
それとこれは別の話だ、と、奏恵たちは想ってしまう。
幸多には、幸せに生きていてくれれば、それだけで十分なのだ。
だが、そんな奏恵たちの想いは、幸多には届いていないようだった。
幸多は、望美たちのことをこそ、心配している。
「央魔連も大変だって聞いたけど……大丈夫なの?」
「どうかしらね」
「うーん……」
望実と珠恵の反応を見る限り、芳しくはなさそうだと幸多は察した。
望実も珠恵も、央魔連の最高幹部の一人であり、支部長を務めている。
魔像事件の発端となった長田刀利の魔法犯罪は、大和支部長である望実の責任問題となり、続いて引き起こされた出雲支部幹部の魔法犯罪の責任を問われたのが、珠恵である。
各支部および本部の長が管理者責任を問われているのであり、央魔連の盟主が怒り狂っているらしいという話を、幸多は明日花から聞いている。
魔像事件は、央魔連の評判そのものを地の底に落としてしまった。
ただでさえ毒にも薬にもならない組織が、猛毒を含んでいたということになってしまったのだ。
央魔連を離れる魔法士も少なくないという話だったし、組織そのものが瓦解し始めているのではないか、と、もっぱらの噂だ。
たった四人の幹部が魔法犯罪に手を染めただけで、とはいうが、しかし、魔法士の互助組織として成立した央魔連の歴史を鑑みれば、自然な成り行きなのかもしれない。
互いに助け合い、支え合うための組織は、信用を失った瞬間、あらゆる力を失うものだ。
「わたしたちには関知しようのない事件だったけれど、管理者責任を問われたら返す言葉もないわ。支部の長としての責務を果たせなかったのは事実だものね」
「不条理で理不尽だけど、まあ……幸多くんをこんな目に遭わせちゃったものね。甘んじて受け入れるわ」
「受け入れるってなにを?」
「わたしも珠恵も、央魔連を辞めようかと思っているのよ」
「ええ!?」
幸多は驚いて身を乗り出そうとしたが、珠恵に抱きしめられていてかなわなかった。幸多の視線の先で、望美は、なんだかすっきりしたような表情をしている。
「央魔連が設立当初の理念に従っているのであればまだしも、そうでないのであれば、しがみついている理由はないわ」
「元々、央魔連は、戦団に所属していない一般の魔法士を自主的に管理するために作られた組織よ。その理念は崇高であり、この魔法社会に必要不可欠といっても過言ではなかった。けれども、いつごろからか、央魔連内部には権力闘争に明け暮れる人達ばかりになっていたわ」
いまや設立当初の理念は見る影もなく、故に、央魔連を辞めるのだとしてもなんら問題もないとすら感じているのが、望実であり、珠恵なのだ。
未来予知者でもなければ予想しえない事態に対し、管理者責任を問うというのであれば、応じるだけのことである。
望実がそのように結論づけたとき、珠恵もまた、全く同じ結論に至っていた。
そしてそれは、奏恵の考えでもあった。
市民のことよりも組織の体裁ばかりを考える央魔連など、とっとと辞めてしまえばいい、と。
三つ子の姉妹である。
遠く離れていても、考えることはいつだって同じだった。
だれだって幸多のことが心底大切だったし、幸多が九死に一生を得たと知れば、いても立ってもいられなくなるのも当然だったのだ。
奏恵だって幸多を全力で抱きしめたかったし、望実も同じ気持ちなのだ。
しかし、こういう場合、いつだって珠恵に幸多を独り占めにされるのが、彼女たちだった。
珠恵のような厚かましさは、さすがに望実と奏恵にはなかったからだが。