第八百六十一話 幸多と明日花
夜風が、頬を撫でるようにして通り過ぎていく。
頭上には満天の星々がその存在感を強めているのだが、特に月が大きく感じられた。大気は澄みきっていて、遥か宇宙の彼方まで見えるのではないかと思うほどだ。ゆえにこそ、月は、その膨大な輝きをもって地上を照らしているのである。
かつて人類によって汚染された大気は、魔法の発明と普及の影響を受け、大きく改善し、さらに魔天創世によって作り替えられた。
人類にとってではなく、幻魔にとって楽園の如き世界へと。
葦原市をはじめとする央都は、人類にとってだけでなく、多種多様な生物にとって住みよい環境に土壌そのものから改良されているものの、魔天創世によって根本的に作り変えられた世界であることに違いはない。
この吹き抜ける風の冷ややかさが、その事実を認識させるようだ。
多量の魔素を含んだ凍てつくような風は、ただ吹き付けるだけで幸多の肉体を破壊し、死に至らしめようとする。
そして、そんな魔素濃度に対抗しているのが、体内に蠢く莫大な量の分子機械なのだろうが、幸多に認識できるわけもない。
ただ、呆然とする。
「ぼくが寝ている間にそんな大変なことになっていたなんて……」
医療棟の屋上。
真夜中であるという以上に、本来ならばだれもが気安く出入りできる場所ではないのだが、屋上で風に当たりたいという幸多の要望は、どういうわけか容易く通ってしまった。
愛が気を利かせてくれたのかもしれないし、輝光級導士だから融通が効いたのかもしれない。
「別にあなたのせいでもなんでもないし、気に病む必要はないと思うけど」
「それはそうなんだけど……ね」
「きみはやるべきことをやっただけ。魔法犯罪者の制圧は、導士の立派な仕事よ。その中で魔法犯罪者が死亡して、幻魔が発生するだなんて、そうあることじゃないわ」
「それも鬼級がね」
「そうよ、鬼級だったのよ」
明日花は、屋上を囲う柵に背中を預けるようにしながら、幸多を見ていた。特殊合成樹脂製の柵は、彼女が全体重を預けたとしても、倒れるようなことはないだろう。仮に柵が倒れ、彼女が屋上から落下したとしても、大怪我にすらなるまい。
魔導強化法による生体改造を受けた人間である。
さて、真夜中の医療棟屋上は、必ずしも暗くはない。戦団敷地内に設置された無数の照明灯の光がこの屋上にまで届いているからであり、それらの輝きが、葦原市内に戦団本部の存在を強く主張しているのだ。
戦団が確かに存在し、真夜中であっても活動し続けているのだと主張することによって、市民に少しでも安心してもらいたいという意図があるらしい。
眼下を見下ろせば、こんな時間帯でも働いている導士たちの姿もあれば、そろそろ交代時間ということで任務に向かって出発しようと準備する導士の姿も散見された。
この十月、葦原市を担当しているのは、第四、第八、第十一軍団である。
「わたしたちも、あなたたちも、本当によくやったと思うわ。お兄――第八軍団長も手放しで褒めてくれたくらいだもの」
「そうなんだ?」
「そうよ、そうなのよ。特にあなたには感謝してもしたりないくらいだっていってたわよ」
「うん?」
「知っての通り第八軍団長は、わたしの実の兄だもの。当然よね」
明日花は、そういって幸多に笑いかけた。導士でなくてもだれもが知っている当たり前の話をするのは、少しばかり気恥ずかしい。
天空地明日良と明日花が兄妹だということは、央都でも有名であるはずだ。
明日良が軍団長の中でも群を抜いて活躍しているということもあれば、明日花がアイドルとして活動しているということも、大きい。事あるごとに兄や妹のことが話題として触れられるからだ。
二人の関係を知らない市民などいるわけがない――というのは、傲慢過ぎる考えなのかもしれないが、導士ならば知らない理由がなかった。
「わたしだって、本当に感謝してるのよ。皆代くん。いいえ、皆代輝士。あなたが身を挺して庇ってくれたから、わたしはこうして生きていられる。それは紛れもない事実で、だから……」
幸多への感謝の想いを言葉にしようとする明日花の脳裏に浮かぶのは、やはり、あの瞬間の光景だ。
眼前に肉迫した鬼級幻魔と、その間に飛び込んできた幸多の後ろ姿。
気がついた瞬間には、幸多の腹が貫かれ、大量の血が噴き出す様は、思い出すだけでも背筋が凍りついた。
幸多でなければ即死していただろうという妻鹿愛の話は事実なのだろうし、明日花がいまこうして彼と会話をしていられることもまた、彼のおかげというほかない。
あの出来事の直後、明日花は、幸多に死なれては困ると想った。
心底、そう想いながら、彼をここまで運んできたのだ。
なぜならば、彼にもしものことがあれば、感謝を伝えることもできていないからだ。幸多が割り込んでくれたからこそ命が助かった以上、感謝の想いをなんとしても伝えなければならない。
それが導士として当然の判断であり、無意識の行動なのだとしても、ほかの誰であってもそうしたのだとしても、幸多以外のだれかが同じような行動を取ったに違いないのだとしても、だ。
現に明日花は、彼に助けられた。
意識不明の彼の体温を感じながら、大和市を、空白地帯を飛び越え、ここに降り立った。彼の体温が急激に冷えていく感覚は、いまも覚えている。
そして、手術が成功し、彼の体が元通りに戻った様を見て、確かに呼吸している姿を見て、心底安堵したものだった。
これで、感謝を伝えることができる、と。
それから彼が目覚めるまでに三日待たなければならなかったし、その間、常に側についていたというわけではないのだが。
明日花は、柵から離れると、幸多と向き合った。幸多の顔が照明灯の光に照らされて、闇の中に浮かび上がっている。
「ありがとう」
「……うん」
幸多は、こういう場合、どういう返事をすればいいのかわからず、ただ、頷いた。
感謝される謂われはない、などとは、いわない。いえるわけもない。
無意識に、反射的に体が動いた結果だとはいえ、確かに彼女を絶命の窮地から助けたのだ。その事実を否定する必要もなければ、大袈裟に振り翳す意味もない。
導士として、というよりは、幸多として当然のことをしたまでだ。
その結果、幸多が命を落としていた可能性は高く、道半ば、夢半ばで斃れてしまっていたかもしれないのだが、そればかりは、どうしようもない。
そういう人生だったと諦めるほかないだろう。
それよりも、目の前の誰かを救うことの方が重要だった。
それが全てで、それ以外なにも考えていなかった。
だから、明日花がこうして生き残っていることが嬉しいのだ。
あの行動は、決して無駄ではなかったと証明されている。
そのときだ。
「おう?」
不意に頭上から疑問符が降ってきたかと思えば、幸多と明日花が怪訝な顔になる間もなく、それが屋上へと降下してきた。
「なんでまたこんなところに?」
そういって二人の様子を窺ってきたのは、導衣姿の男であり、月光を浴びた蒼い髪が夜風に靡いていた。男が天空地明日良だということは、その姿を目の当たりにした瞬間、その声を聞いた時点で理解できている。
だからこそ、明日花は、彼に半眼を向けるのだが。
「……それはこっちの台詞なんだけど、お兄ちゃん」
「ああん?」
明日良は、明日花の表情に少しばかり驚きを覚えた。普段着の妹が病衣の導士と二人きりで医療棟の屋上にいるというこの尋常ならざる光景には、明日良の頭脳が少しばかり追い着かない。
状況を整理しようにも、なにもかもが意味不明だ。
なぜ、明日花が医療棟にいて、皆代幸多と二人きりなのか。
それも真夜中だ。
いまにも午前零時を迎えるという頃合いなのだ。
普通ならば、こんな時間帯、こんな場所に二人きりでいる理由がない。特に皆代幸多は病み上がりのはずであり、病室で寝ているべきだ。
それなのに、無理をしてまでこんなところにいる理由は、明日良には一つしか思いつかなかった。
「……逢い引き中に割り込むなんて空気の読めないお兄ちゃんで済まない」
「真顔でなに変なこといってるの? お兄ちゃん。働き詰めなの? 大丈夫?」
ぐいぐいと明日良に詰め寄る明日花の姿は、先程まで幸多に見せていたものとは大きく異なるように思えた。
「あのな、おれが気を遣ってんだからだな、そんな言い方はないだろ」
「気を遣うって、なにによ?」
「妹の恋路を応援するのは、兄の責務だろうが!」
「なにが恋路なのよ!?」
愕然とした様子で声を荒げた明日花に対し、明日良もまた、憮然とするほかないといった態度だった。
二人の間には明確な行き違いがあり、勘違いが暴走しているように見受けられて、幸多は、ただただ困惑するしかなかった。