第八十五話 入団儀式
魔暦222年6月26日。
その日は、幸多にとって極めて特別な日となった。
二日前、校長室で稲岡正影の指示の元、幸多が記入した情報書類は、戦団戦務局に申請され、無事に受理された。
それこそが戦団への入団手続きである。
つまり、幸多は晴れて導士になったということだ。
しかし、それだけでは全てが終わったわけではなく、日を改め、戦団本部で入団式を執り行うという話だった。
その日時こそが入団手続きを終えた翌々日である二十六日であり、その日、幸多は学校を休むこととなった。
戦団に入団するからといって学校を辞める必要はなく、在学していても構わないと稲岡正影から説明された。
そもそも、入団したからといってすぐさま実戦に投入されることはなく、しばらくは学業と戦団業務を兼任することになるのではないか、という話だった。
「それに、誰もが導士で在り続けることはないのだよ。きみのように高邁な思想を持っていたとしても、だ。日々の幻魔との戦いに疲れ果て、退職を希望するものも、少なくはない」
だから、在学したままで構わないのだ、と、稲岡正影はいった。幸多が戦団を退職する可能性を考慮したというより、逃げ道を作ってくれた、と考えるべきなのかもしれない。
特に幸多は、魔法不能者だ。いつ現実に打ちのめされ、戦団を辞めたくなったとしてもおかしくはなかった。
もちろん、いまの幸多にそんなつもりはなくても、だ。
戦団への入団に関して、幸多は、もちろん、母である奏恵とは散々に話し合った。それこそ、十歳のときから、今日に至るまで、何度となくだ。
奏恵は、当初こそ反対していた。
それはそうだろう。
完全無能者と診断された我が子を戦闘部に入れたがる親がどこにいるというのか。幸多が奏恵の立場でも、同じように反対しただろう。だが、ついに奏恵も根負けし、幸多を応援してくれるようになったが、本音のところはどうなのか彼にはわからない。
ただ、幸多のやりたいようにやりなさい、生きたいように生きて、後悔を残さないようにして欲しい、という母の言葉は、いまも幸多の胸に刻まれていた。
その日、朝から生憎の空模様だった。的中率99パーセントの天気予報では、午前中から午後にかけて雨が降り続けるだろうという話だ。
幸多は、必要な荷物を鞄に収めると、収納展開式の傘を手にして家を出た。
傘のような雨具が必要なのも、完全無能者だからだ。魔法士は、魔法で雨を凌げる。魔法不能者は、魔具を用いて雨を避けられる。もっとも、魔法士の場合も、雨避けの魔具を用いることの方が遥かに多いのだが。
完全無能者は、魔具を使うことができない。
その点では非常に不便だ。
「魔法社会の闇を感じるよなあ」
などと一人つぶやいて、それでも旧時代よりは遥かに使いやすくなったのだろう傘を持ち歩きながら、目的地へと向かった。
目的地は、戦団本部だ。
戦団本部は、央都の中心にして、葦原市の中枢に位置している。
葦原市中津区の中心近く、本部町の南東部にその所在地はある。
幸多は、戦団本部に到着するまでに雨が降り出さないことを祈りながら、向かった。十中八九降り出すことはわかっていたし、そのために傘を手にしているのだが。
そして、実際に雨が降った。
幸多は、徒歩で目的地に向かっていた。
東街区鼎町にあるミトロ荘から戦団本部までの距離は、直線距離にすれば天燎高校と然程変わらない。多少遠いくらいの距離であり、幸多が徒歩を選ぶのも当然だった。
問題は、雨に濡れる可能性が高いということだ。
手に収まる大きさの傘を最大限展開すれば、頭上を覆い隠す天蓋となる。展開収納式とは、まさにこのことだが、結局、傘の機能としては百年以上の昔と大きな違いはない。
レインガードを代表とする雨除け用の魔具ならば、降りしきる雨水を撥ね除け、体や衣服が濡れる心配もないのだが、前述の通り幸多には使えない。
そうした、魔法を簡易的に再現する魔具の数々は、魔法社会の象徴といえるものだ。
幸い、雨は小降りで、戦団本部に辿り着くまでには足下が濡れるくらいで済んだ。靴の中に雨水が入ってくる心配はないし、衣服の濡れた部分もすぐに乾くだろう。
幸多が戦団本部に到着したのは、午前九時四十五分頃のことだ。
戦団本部は、広大な敷地を誇っている。葦原市に存在する建物の中で最大規模のものである。四方を分厚い壁で覆われているが、高度制限に準じていることもあって、決して高いわけではない。幸多ならば軽々と飛び越えられるのではないか、という高さだが、それは常識的に考えればありえないことであり、飛び越えられることなど想定しているわけもない。
もちろん、飛行魔法ならば容易く飛び越えられるだろうが、そんなことをすれば不法侵入の罪に問われるどころか、様々な罪に問われることになり、ただでは済まない。最悪、戦団反逆罪に問われる可能性すらある。そんなことをしてまで戦団本部に入り込もうという人間は、魔法犯罪者であってもいないだろう。
幸多は、遠目に見れば要塞のような外観を持つ戦団本部に辿り着くと、小雨が降る中、戦団本部正門前に人集りが出来ていることに気づいた。
各種情報媒体が入団式の参加者を撮影するために集まっているようなのだが、野次馬も少なからずいるようだった。明らかに一般人と思しき人々がいたのだ。
幸多が戦団本部の巨大な正門に向かって歩いて行くと、無数の閃光が焚かれた。報道各社の撮影機材だけでなく、一般市民の携帯端末もまた、次々と光ったのだ。動画を撮影したり、生配信しているものもいるようだった。
今日この場に集まるのは、簡易的な入団式に参加する数名の新人導士だ。が、その新人導士たちは、央都市民の関心を大いに集めていた。
それもそのはずだ。
数日前、央都全土を熱狂の渦に包み込んだ対抗戦の優秀選手たちばかりなのだ。
幸多が正門の目の前まで行けば、雨の中、雨露に触れることなく立ち尽くしていた導士によって、敷地内に入るようにと指示された。
雨の中、敷地内で作業中の導士たちは、傘一つ雨具一つ持っていない。が、濡れていないのは、魔具によるものか、魔法によるものか。
いずれにせよ、便利そうだと思わざるを得ないのが幸多の心境であり、それは子供の頃から変わらない。
戦団本部敷地内には、複数の建物が存在する。中でも存在感を放つのは、中心に聳え立つ本部棟だろう。いかにも要塞然とした物々しい雰囲気を持つ建物は、見るだけで圧倒されそうな、そんな力強さすら感じるほどだった。
威圧的で権威的な建物だった。
本部棟も、葦原市の高度制限に準拠しており、三階建ての建物なのだが、外観から抱く威圧感が凄まじい。
幸多は、導士に促されるまま、本部棟に向かった。一面硝子張りの玄関口を目前にして、傘に付着していた雨水を飛ばし、瞬間乾燥機能の使用した。それから手に収まる程度の大きさに収縮すると、。鞄の中から取りだした袋の中に傘を収めた。その状態で鞄に仕舞い込めば、傘を持ち歩く必要がなくなって便利だった。
玄関口から本部棟に足を踏み入れれば、なんだか不思議な感じがした。
幸多は、子供の頃、一度だけ見学に来たことがあった。小学校六年生の時だ。社会見学ということで戦団関連施設を巡り、その目玉として、戦団本部の本部棟を訪れたのだ。
およそ四年前。
当たり前の話かもしれないが、その頃と内装に大きな変化はなさそうだった。
受付口に向かい、案内を受ける。入団式を行うのは、二階にある戦務局区だということだった。
館内の端末から携帯端末に案内板を転送し、幻板を表示させることで道に迷わずに済む。幻板がどの方向へ移動すればいいのか、的確に指示をしてくれるからだ。
二階へ行くと、一階よりも圧倒的に賑やかだった。どこからともなく物音や話し声が聞こえてくる。様々な部局の導士たちが、それぞれの作業に熱中しているのだろう。二階には、様々な部局が混在しており、常に一定数の導士たちが作業に従事している。
戦務局区は、そんな部局が集中している区画の中にあった。
幸多がその中に足を踏み入れると、作業中の導士が一斉にこちらを振り返った。そのうち一人が幸多を睨み付けてきた。
「入団式はあっち! こっちは、作戦部の――」
気が立っていたのだろうが、険しい顔をした女性は、幸多を睨み付けたまま、しばらく凍り付き、
「ってああ、きみってまさか!?」
音を立てて席を立ち、幸多に歩み寄ってきたものだから、幸多は思わず後退った。
「皆代幸多くんじゃない!?」
その女性が大袈裟なまでの声を上げると、作業に戻ったはずの女性たちが次々と幸多に視線を集中させる。
「そうだわ、きっとそうよ!」
「うわ、本物だ」
「かわいい」
「まさかきみ、戦闘部に入るの!?」
「は、はい……」
幸多が戦務局区の外まで後退したのは、女性の圧力の凄まじさに負けたからだ。
「うっそ、まじで?」
「信じられないな……」
「でも、良いと思う」
「うんうん、いいよ、いい!」
室内からどことなく嬉しそうな声が聞こえてくるのだが、幸多にはわけがわかなかった。
すると、女性たちを注意する声が響いた。
「こらこら、皆、彼の邪魔をしない。仕事に集中なさい」
「はーい」
「だってえ」
「だってじゃないでしょ」
注意した人物は、この部屋にいる導士たちの中でも立場が上なのだろう。ほかの導士たちは、皆、彼女の指示に従って、端末と格闘する作業に戻った。
「ごめんなさいね。皆、きみを見て興奮しちゃったみたいで」
幸多に困ったような顔で謝ってきたのは、幸多より上背のある女性だった。橙色のショートヘアと若草色の瞳が特徴的な女性導士。
幸多は、困惑を隠せなかった。
「ええと……どういうことですかね」
「それは後で。必ず紹介する機会が来るわ。今は入団式に遅れないようにしないと」
「あ、ああ、そうですね」
「ついてきて。こっちよ」
幸多は、その女性が案内してくれたことに心底ほっとした。端末の指示に従って踏み込んだ先が間違っていたなんて、普通に考えてあり得ないことだったが、しかし、その間違いも仕方のないことだと思えた。
入団式が行われる部屋は、幸多が足を踏み入れた部屋の隣にあり、あの部屋とも繋がっていたからだ。
あの部屋を突き抜けることが一番の近道だった、ということだ。
女性が扉を開き、幸多を室内に促す。
幸多は、室内に入った瞬間、室内を支配する異様な緊張感に飲み込まれた。
室内は、決して狭くはなかったが、広すぎるというほどの広さもなかった。少なくとも大勢の入団希望者を招集して、式典を行うには手狭すぎる。
今回の人数ならばこの広さで十分だという判断なのかもしれない。
天井照明の光は穏やかで、柔らかく室内を包み込んでいる。
室内は飾り立てられているわけではないが、いくつもの幻板が織り成す装飾は、幻想的で美麗といっていい。
そんな幻想が踊る室内に並べられた椅子のほとんどは、先客たちによって占領されていて、左端の一つだけが空いていた。
そこが幸多の席だといわんばかりだった。
幸多がその席に向かう間、ほかの席に座っている入団希望者たちがこちらを見た。皆、対抗戦で戦った学生たちであり、優秀選手賞を受賞した人ばかりだった。
星桜高校の菖蒲坂隆司、天神高校の金田朝子、御影高校の金田友美、そして、幸多の隣には、叢雲高校の草薙真が座っていた。
背筋を真っ直ぐに伸ばして座しているその姿には、上品さすら感じるのは気の所為ではあるまい。彼は、良家の生まれだ。
「まさかきみとはな」
幸多が椅子に座るなり、草薙真は、多少の驚きを込めて、いった。
真からしてみれば、想像だにできないことだった。椅子があと一つしかないということから、天燎から一人だけしか来ないということは想像がついた。そしてそれはいかにも天燎らしい判断だと思ったものだが、しかし、まさか皆代幸多が来るとは思ってもみなかったのだ。
「驚いた?」
「まあ、な」
「だろうね」
幸多は、真の反応を当然のことと受け止めたし、ほかの希望者たちの反応も似たようなものだと感じていた。だれだってそう思う。幸多が彼らの立場ならば、同じように思っただろう。
幸多は、そんなことよりも真の態度の方にこそ、驚きを禁じ得なかった。
あれだけ恨みがましく、妬み嫉み憎しみに囚われていた人物とは思えないほどの涼やかさが、彼の横顔から感じられたのだ。
それは、幻闘を終えてからの彼から感じていたものでもあった。
室内には、入団式を待つ学生しかいない。
入団式とはなにを行うものなのか、その内容は、幸多たちにはまったく知らされておらず、故に、ただ待っていることしか出来なかった。
すると、部屋の扉が開いた。
「お待たせしちゃったかしら」
「まだ約束の時間にはなっていませんよ」
「そう。だったらいいのだけれど」
穏和な女性の声と、粛々とした男性の声による会話が聞こえてきたかと思うと、室内が一気に華やいだ空気感に包まれた。
幸多たち入団希望者が一列に並んで座っている正面には、大仰な作りの机と椅子があった。戦団戦務局におけるそれなりの立場の導士が用いるものであることは、疑いようがない。
その椅子に向かっていったのは、真っ赤な髪が極めて特徴的な女性であった。幸多には、一目でその女性が誰なのかがわかった。
朱雀院火留多だ。
戦務局戦闘部長を務める人物であり、星光級導士、つまり星将に任じられるほどの魔法士だ。そして、魔法の名門である朱雀院家の当代当主を務めている。央都で知らないもののいない有名人でもあった。
彼女の後に続いて室内に入ってきたのは、二屋一郎である。三十二歳という若さで戦務局戦闘部の副長を務める彼は、やはりそれだけの才能と実力を持っているに違いない。煌光級一位という階級も、彼の能力の高さを示している。
「まあ、緊張しないでね。そんなにたいしたことをするわけではないし、儀礼的なものだから」
火留多は、歴戦の勇士を前にして凍り付いたように強張った学生たちを目の当たりにして、穏やかな微笑を投げかけた。




