第八百五十七話 央魔連(一)
幸多は、自分の腹に手を当てた。
病衣の中に手を突っ込み、肌に触れるも、当然のように穴はなく、違和感もなにもあったものではない。いつも通り、普段通りの感覚がそこにある。
体内の様子を確かめる方法はないが、愛に診てもらったのだから、なんの不安もなかった。
愛曰く、完璧に回復しており、いつでも退院していいということだった。
しかし、今日はもう夜も遅いからせめて朝になってからにして欲しいともいわれたので、幸多は、こうして病室に留まっているのである。
(夜遅い……か)
壁に掛かった時計を見れば、十一時を大きく回っていた。
「十一時、回ってますけど……」
「え?」
明日花がきょとんとしたのは、幸多が恐る恐る話しかけてきたからだったし、その内容が全く想定していなかったものだからだ。
明日花は、愛が幸多の容態を確認し、病室を後にするのを見届けてからも室内に残り続けていた。
それからしばらく沈黙の時間があったのは、幸多が何事かを考え込んでいる様子だったから、中々話しかけられなかったからに過ぎない。
「夜中、なんですよね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「どうかした……って」
幸多は、明日花がこの状況を全く気にしていないことにこそ、驚いた。
「あの、天空地さんって」
「明日花でいいわよ」
「ええと……明日花さんって、流星少女隊の隊長ですよね」
「そうよ。いまをときめくアイドル小隊のね」
「そんなアイドルが、夜中に出歩いてていいんですか?」
「ここ、戦団本部よ。なんの問題もないでしょ」
「それは……そうかもしれませんけど」
「まさかとは思うけど、アイドルが異性の導士と二人きりのこの状況を心配してくれてる?」
明日花は、幸多の顔を覗き込むようにして、聞いた。幸多の困り果てたような顔を間近で見れば、彼の大きな目の中に浮かぶ褐色の虹彩の透明さに気づく。
天井照明の穏やかな光を浴びて、幸多の瞳は、いつになく輝いていた。だからだろう。鏡のように反射し、明日花の顔が映り込んでいる。
「あはは。そんなこと心配する必要なんてないない。あなたとわたしは同僚で、なおかつ、あなたはわたしの命の恩人だもの。命の恩人に多少の時間を費やすことくらい、当たり前のことでしょ」
明日花は、幸多にごく自然と笑いかけて見せた。
そんな明日花の屈託のない笑顔が、幸多には爽やかさを感じさせるし、だからこそアイドル小隊の隊長であり続けられるのだろうし、一番人気なのだろうと確信する。
明日花には、接する人を魅了する力がある。
「当たり前……」
「うん。当たり前」
明日花は静かに断言すると、伸びをした。
いつの間にか午後十一時を回っていたという事実には驚かされたが、まだ、時間はある。
その時間を彼のために使いたいというのは、我が儘などではあるまい。
彼は命の恩人であり、そんな彼のために休養日を使い尽くすのは、むしろ当然ではないか。
先ほど彼にいったように、明日花は、そんな風に考えるのである。
明日花は、幸多に色々と話をしてくれた。
幸多が意識を失っている間になにがあったのか、あのあと、鬼級幻魔はどうなったのか、明日花が知る限りのことを教えてくれたのだ。
幸多が致命傷を負って意識を失った直後、伊佐那美由理が第七軍団の杖長を引き連れて現場に到着したという話は、先程聞いた。
そして、その後、明日花は、上からの指示に従い、幸多を戦団本部に搬送するべく、全速力で空を駆けたのだという。
「空を?」
「だって、その方が早いじゃない。なんといっても、あなたは瀕死の重傷で、一刻を争う状態だったもの」
だから、明日花は、流星少女隊の四人で力を合わせ、幸多を戦団本部へ運び込むべく空を駆け抜けたのである。大和市上空を一っ飛びに飛び越え、大和市と葦原市の間に横たわる空白地帯をも突破して、だ。
空白地帯を飛び越える際、幻魔の群れに遭遇したが、そのことはいわないでおいた。
幸多に余計な心配をさせたくなかったからだ。
そして、大した問題にもならなかった。下位獣級幻魔が十体程度だ。流星少女隊の敵ではない。
それから、明日花は、医療棟で妻鹿愛、日岡イリアに幸多を引き渡した。既に手術の準備は万端整っており、速やかに行われ、終了するまでそれほど時間はかからなかった。見事な手際と言わざるを得ないし、明日花たちはあまりの速度に驚いたものだった。
その間、大和タワーの戦場では、鬼級幻魔と第七軍団の激闘が繰り広げられていた、という。
明日花は直接見たわけではないものの、詳細は聞いている。そして、その詳細を幸多に伝えたのである。
伊佐那美由理と荒井瑠衣らが星象現界を発動させ、杖長たちが強力な攻型魔法を叩き込むことによって、鬼級幻魔に大打撃を与えることには成功したようだ。
それこそ、真星小隊と流星少女隊とは比較にならない結果だったろう。
だが。
「結局、鬼級は取り逃してしまったそうよ。やっぱり、鬼級は鬼級。正面から相手にするのなら、最低限、三人以上の星将が必須だったんでしょうね」
そして、だからこそ戦団も複数の星将を現地に派遣しようとしていたのだ。
美由理以外の二名の星将、葦原市を担当している第八軍団の天空地明日良と第十一軍団の獅子王万里彩に出撃命令が下されていた。しかし、二人が現場に到着したときには、鬼級幻魔は姿を消してしまっていたのである。
名も名乗らず、ただ暴れるだけ暴れ回った知性の欠片すら見当たらない鬼級は、しかし、自分が窮地に陥ったことを理解すると、煙幕のような魔法を使い、混乱の中逃げ去ったのだという。
「鬼級が逃げた……」
「普通なら、考えられないことよね。低位の幻魔だってそう簡単に逃げたりはしないわ。余程の致命傷を受けたって、ね」
「うん」
「でも、あの鬼級が〈七悪〉と関係しているのなら、どう?」
「〈七悪〉と? それなら……」
合点が行く、と、幸多は、明日花の目を見て頷いた。明日花の翡翠色の瞳が、幸多を真っ直ぐに見つめている。
普段着の彼女は、アイドル衣装を纏っているときとは全く異なる雰囲気だ。しかし、容姿の良さを隠せていない。それどころか、引き立たせているのではないかと思うくらいだった。
とはいえ、見とれている場合ではない。
「あの鬼級は、〈七悪〉と関係している可能性が高いらしいわ。そう判断されたのは、翌日以降の調査でのことよ。流星少女隊念願の新曲発表会が、魔法犯罪者の襲撃で中断されたことは、もちろん、覚えてるわよね?」
「うん。長田刀利……だね」
幸多の脳裏に、長田刀利と対峙した瞬間の光景が過った。
長田刀利との問答は、幸多に考え込ませるものだったが、おかげである種の解を得られた気もする。
自分がなぜ生きているのか。
なぜ、生まれ落ちたのか。
そして、なぜ、生きていくのか。
「……長田刀利は、央魔連大和支部の幹部だった。だから戦団は、当然のように央魔連の責任を追求した。しなければならなかった。当たり前よね。長田刀利本人が死亡したからといって、それで彼の罪が消えてなくなるわけじゃないわ」
明日花は、椅子に座り直すと、薄型の万能演算機を膝の上に置いた。起動し、幻板を二枚、出力する。一枚を自分の目の前に配置し、もう一枚を指先で弾くようにした。
実際には触れることのできない立体映像は、しかし、魔素への干渉によって擬似的な接触を可能としており、だからこそ、自由自在に動かしたり、大きさを変えたりといったことができるのだ。
幸多は、空中を流れるように移動してきた幻板を手で受け止め、目の前に固定した。魔素を宿さない幸多が幻板に干渉できる原理は、体内の分子機械にあるようだが。
「もちろん、央魔連は、長田刀利の犯行への関与を全力で否定したわ。長田刀利単独の犯行であり、央魔連は一切関知していないことだ、とね」
「それも当然だよね」
たとえ本当は関知していたとしても、そう言い切るのが組織というものだろう。
もっとも、幸多としては、央魔連の言い分が嘘ではないと思いたかったし、ましてや大和支部が関与しているなどとは考えたくもなかった。
央魔連大和支部の支部長は、幸多の伯母・長沢望実なのだ。
望実にとって予期せぬ事態であろうこの大事件は、彼女にとてつもない衝撃を与えただろうし、計り知れない心労の中にいるのではないだろうか。
さらにいえば、叔母・長沢珠恵も、央魔連の幹部である。
出雲支部の支部長である珠恵にとっても、長田刀利の暴走は、頭が痛い出来事に違いない。