第八百五十五話 皆代幸多(二)
空は青く透き通り、どこまでも続いているように見えた。
それこそ、宇宙の果てまで望めるのではないかと思うほどに透明で、澄み切っている。
流れる雲も青白く見えたし、太陽すらも、どこか青みを帯びている。
吹き抜ける風すらも、どことなく蒼い。
なにもかもが青に染まった世界。
青白く、故に、違和感を覚える。
「なんでまた、ここに?」
問われて、幸多は、しばし考え込まなければならなかった。そういえば、そうかもしれない。なぜ自分がこんなところに迷い込んだのか、よくわからない。
いつの間にか膝を抱えて座り込んでいたことに気づいたのも、そのときだった。
ここがどこなのか理解できたのもまた、問を投げかけられたからだ。
草原だった。
だだっ広い草原は、風が吹き抜けるたびに緑の波を起こした。その波すらもどことなく青く感じるのは、きっと気のせいではあるまい。
世界そのものが青い。
けれども、決して青一色ではない。
太陽は白く、雲も白く、草は緑だ。
「意識を失ったから?」
「……たったそれだけでここに来られるのなら、いままでだって何度だって来たはずだよ」
「たったそれだけって」
幸多は、腹を摩った。意識が消し飛びかけたほどの痛みは、いまも疼き続けているような気がする。気がするだけで本当は痛くもなんともないのだが、しかし、そうした気のせいが五感を苛み、意識を揺らした。
ここは、心象世界だ。
幸多自身の心の奥底、精神の領域。
以前は、こんな場所があるなどと自覚したこともなければ、認識したこともなかった。
愛理を守れなかったあのとき、幸多はようやく自分の中に存在する彼らを認識することができるようになったのだ。
幸多と同じ姿をした、この精神世界の住人たち。
奏恵によって精霊と呼ばれるようになった彼らは、相変わらず、幸多の心の奥底に住み着いているようだった。
このだだっ広い、地平の果てまで続くような草原が幸多の心象風景だということには、納得が行く。
この光景には、見覚えがあった。記憶に焼き付いている。
物心つく前からずっと見ていたからだ。
水穂市にある実家、その前方に広がる景色そのものだった。
本来ならば草原の向こう側には、水穂市の町並みが広がっているはずだが、ここは精神世界だ。幸多にとって都合がいいものしかないのだとしても、不思議ではない。
この草原には、幸多に不都合なものが何一つ見当たらなかった。魔法社会そのものの縮図が広がる町並みも、空を飛び交う魔法士たちの姿も、魔法も、幻魔も、何一つ。
「たいしたことじゃないよ。少なくとも、死んではいないんだから」
「死ななかったらたいしたことないって考え方、良くないと思う」
「それ、自分の体に大穴を開けた奴の言えること?」
「うーん……」
幸多は、しばし考え込んで、右に顔を向けた。そこには同じ顔をした少年が一人、突っ立っていて、こちらを見ている。黒髪に褐色の瞳の少年。服装は、白黒の水玉模様の上下という幸多の普段着そのものだった。
「……明日花さん、だいじょうぶだといいけど」
「自分のことより他人のことか。もう少し、自分のことを大事にしたほうがいいんじゃないか? それだって、だれかの――母さんのためになるだろうに」
「わかってるけどさ」
膝を殊更強く抱え込み、言い返す。
彼の言うとおりではある。
自分よりも他人の安全を優先するあまり、不用意で無造作になりすぎているということは、よく注意されることだ。
日々訓練に付き合ってくれている美由理にも、杖長たちにも。
そこが幸多の最大の欠点である、と。
とはいえ、導士としての使命を果たそうというのであれば、自分の身の安全よりも、自分以外の誰かのために命を懸けるべきなのではないか。
そしてそのような考えは、導士の誰もが持つものだったし、実践しているものでもある。
それでも、その結果、母を悲しませることになっているのもまた、事実だ。
母を悲しませ、苦しめているという事実が、心苦しい。
「でも、それでも、ぼくは……だれかの役に立ちたいんだよ」
「うん。わかってる。そうだよ。それがきみの最初だ」
「ぼくの最初?」
「だれかの役に立つことで証明したいんだろ? 自分が生まれた意味を。存在意義を。父さんと母さんがぼくたちに注いでくれた愛情が、決して無駄ではなかったって。無意味なんかじゃなかったって、胸を張って宣言したいんだ」
「うん」
頷いて、立ち上がる。
青い風が吹き抜けて、頬を撫でた。懐かしい匂いがした。
遠い過去の夏の匂い。
「ちょっと、考えてた」
「うん?」
「父さんと母さんにとって、ぼくの存在が重荷になっていたんじゃないかって、さ」
「あんな奴のいうことなんて、真に受ける必要ないと思うけど」
「そうだけどさ。それでも、考えるよ。考えないといけない。だって、ぼくは、存在そのものが父さんと母さんにとっての負担だった。それは否定しようのない事実だと思うから」
だから、と、幸多はいうのだ。
頭の中を過るのは、長田刀利の言葉だ。
刀利が突きつけてきた言葉の数々は、幸多を動揺させ、精神的優位を確立させるためのものではあったのだろうが、同時に、圧倒的な現実でもあった。
幸星と奏恵を取り巻く環境は、幸多の誕生によって大きく変わった。それまで央魔連で魔法士としての職務を全うしていた幸星も奏恵も、幸多が完全無能者だからこそ、職を辞し、魔法士であることすら止めたのだ。
ただ魔法が使えないだけでなく、魔法がもたらす恩恵に預かることもほとんどできない幸多には、魔法の存在そのものが猛毒なのではないか。
両親はそのように考えたのだろうし、また、魔法を使わなくとも生きていけることを証明しようとしたようだった。
それは確かに愛情だった。
純粋極まりない深い愛情があればこそできたことだろうし、だから、幸多は、真っ直ぐに育つことができたのだと確信している。
両親の無償の愛が、幸多を包み込んでいた。
けれども、と、考えるのだ。
幸多が魔法士として生まれ落ちていれば、あるいは、ただの魔法不能者ならば、幸星も奏恵も央魔連を辞めることなく、魔法士として生き続けることができたのではないか、と。
自分という存在が両親の人生に与えた影響の大きさ、深さは、直視しなければならないことだ。
そして、だからといって、刀利の言葉を額面通りに受け取る必要がないのも確かだ。
「だから、ぼくは、恩返しをしようと思う」
「恩返し?」
「ぼくを生んでくれた母さんに、ぼくを愛してくれた父さんに、ぼくを受け入れてくれるひとたちに」
幸多が、心象世界の住人を見れば、彼は微笑んでいた。考えていることなど全てお見通しだといわんばかりの表情だ。
「だったらさっさと起きなよ。また母さんを悲しませることになるんだからさ」
「うん……わかってる」
頷き、顔を上げる。
すると、青ざめた空に意識が吸い込まれるような感覚があって、目の前の景色が一変した。
まず、真っ白な天井があった。天井照明の柔らかな光は、目覚めたばかりの幸多にも優しい。どうにも見慣れた感覚ががあるのは、ここが戦団関連施設だからだろう。
おそらく、大和基地内の医療棟の一室ではないだろうか。
大和基地の医療棟に世話になったことはないが戦団施設の内装はどこも似通っているという話だったし、大和タワーの一番近い医療施設といえば、大和基地になるはずだ。
幸多が、そんなことを考えながら身動ぎした瞬間だった。
「やっと気がついた」
聞き覚えのある声が飛び込んできたのでそちらを向くと、天空地明日花がこちらを見ていた。普段着の彼女は、しかし、その普段着すらも舞台衣装のように思えるほどに可憐だった。そして、室内の椅子に腰を下ろした彼女は、膝上に置いた端末を触っていたようであり、手を止め、幸多に目を向けている。
その周囲には複数の幻板が浮かんでいた。
「天空地さん?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「なんでここに?」
「暇だからだけど」
「暇……?」
予期せぬ一言に困惑を隠せずにいると、明日花は、端末を閉じ、脇に置いた。腰を上げ、寝台に歩み寄る。
幸多の様子を見れば、彼の腹に開いたはずの穴が完全に塞がっていることも一目瞭然だ。もっとも、そんなことは既にわかりきっているから、明日花が安堵したのは、彼が意識を取り戻してくれたからにほかならない。
「あれから三日も経ったのよ。その間、あなたは意識を失っていた。それで、暇な誰かが付き添っていたってわけ」
「それはまあ、わかりますけど……でも、どうして天空地さんが?」
「だから、暇だったからっていってるでしょ。本当なら新曲の発表会で市内を巡る予定だったんだけどさ。あんなことがあったでしょ。それで、広報部も慎重にならざるを得なくなって、予定が全部なくなってしまったってわけ」
「それで、暇だと?」
「ええ。そうよ。でも、あなたの部下は、忙しそうね」
「そういえば……」
幸多は、室内を見回しても明日花以外誰もいないことに気づいて、不思議な顔になった。