第八百四十六話 オベロン(四)
オベロンとの対峙は、先行攻撃部隊の百名の導士たちにとてつもない緊張感を強いていた。
当然だろう。
相手は、鬼級幻魔だ。
この場にいる全員が全力を尽くしたところで敵う相手ではなく、気分次第で、一瞬で全滅することだってありうるのだ。
情報官との通信を行う導士もいれば、オベロンと火倶夜の会話に全神経を集中させる導士もいる。そして、ほとんど全員が、オベロンの一挙手一投足に注目していて、場合によっては瞬時に魔法を使えるように律像を編み、あるいは、法機を手にしている。
法機や導衣に仕込んだ簡易魔法ならば、わざわざ律像を組み上げる必要はない。
律像とは魔法の設計図であり、相手次第では、発動する魔法の内容を見抜かれてしまうことだってありうるのだ。
故に、場合によっては、簡易魔法に頼るほうが効果的だったりするのだ。
簡易魔法は、通常の魔法に比べれば精度も威力も大きく低下するが、瞬時に発動させられるという一点においては、あらゆる魔法を陵駕する利点がある。
真も、固唾を呑んで、状況を見守っている。
オベロンは、これまで記録されている鬼級幻魔の多くと同じように、人語を解し、人間と意思疎通を図ることができるというだけでなく、発言内容からは、敵意を感じられなかった。
攻撃してくる素振りも見せないのだ。
こちらがとてつもないほどに警戒しているというのに、だ。
「奇貨置くべし」
オベロンは、静かに告げた。
蝶の翅を持つ美しい幻魔は、その怪物とは思えない容貌でもって、導士たちの表情を視ている。赤黒くも透き通った瞳は、禍々しくもあれば、幻想的ですらある。
「長らくリリスこそがわたしにとっての奇貨だと思っていたのですが、どうやら全くの見当違いだったといまこそ認めましょう。リリスは、この恐府に変化をもたらすには力が足りず、故にあなたがたに敗れ去った……そういうことなのでしょう?」
「ええ。リリスは、そう五十年前、わたしたちの祖父母の時代に討ち斃されたわ。そして、リリスの〈殻〉バビロンは、わたしたちの都市に作り替えられた。滅び去ったはずの人類が再び地上を取り戻すための、第一歩として、ね」
「五十年前……ですか。つまり、リリスは、わたしに恐府攻略の手伝いをさせた直後に討たれた、と。まったく、嘆かわしいことです。殻主のいいつけを護っていたがために外の様子を、情勢の変化を知ることが出来ず、人類が復興するべく活動していたという事実にすら気づけなかった」
オベロンの嘆息と失望は、オトロシャのやり方への反発そのものでもあるのだろう。
彼の発言、態度の一つ一つが、殻主たるオトロシャへの怒りや嘆きとなって現れていた。
「まあ、ここのところ恐府にちょっかいを出してきていましたから、なぜかこの魔界に人間がいることは知っていましたが……まさかリリスを斃し、バビロンを制圧していたとは。いやはや、人類を侮ってはいけませんね」
「そういいながらも侮っているのが、幻魔でしょう」
「否定はしませんが」
「正直ね」
「素直に行きましょう。あなたがたに嘘をいっても、仕方がない」
「なぜ?」
「わたしは、あなたがたをこそ、奇貨と見ました」
「奇貨?」
「この倦みきった状況を変えることのできる外的要因……それこそがわたしにとっての奇貨であり、あなたたちなのですよ」
「リリスを奇貨と見誤ったあなたにそのようにいわれるのは、心外だけれども」
「これは痛いところを突かれましたね」
オベロンは、火倶夜の一切物怖じしない発言には、苦笑するほかなかった。ほかの人間たちが鬼級を前に緊張し、竦んですらいるというのにも関わらず、燃えるような緋色の髪の女だけは、ただまっすぐに彼を見ているのだ。
射抜くように。
その眼差しの力強さは、彼女が歴戦の猛者であることを伝えるようだった。
奇貨。
オベロンは、そんな人間だからこそ、奇貨と見ていいのではないかと考えるのだ。
この停滞しきった状況に少しでも変化をもたらすには、やはり、なにかしら外的要因が必要だ。
かといって、オベロン自身が外に出るというのは、不可能だ。殻印を刻んでいる限り、オトロシャに逆らうことは出来ない。オトロシャの命令は絶対であり、遵守しなければならないのだ。
恐府を外敵から守る、ただそれだけは。
「しかし、考えておくべきでしょう。あなたがたは、リリスを打倒することはできた。ですがそれは、相手がリリスだったまでのこと。オトロシャは、リリスとは比較にならないほどに強大な力を持った鬼級です。鬼級が束になっても敵わないほどに絶大な力を誇る――ですから、わたしからの提案を頭の隅にでも置いておいてください」
そういうと、オベロンは、火具夜の返事を待たずして羽撃いた。鱗粉が舞い散り、オベロンの姿が掻き消えてしまう。
すると、警報が鳴り響いたものだから、導士たちはすぐさま反応した。
大量の幻魔が、第一拠点に押し寄せてきていたのである。
「これは……」
火倶夜は、三体のベヘモスが前方の視界を埋め尽くすようにして突貫してくる様を目の当たりにして、憮然とした。
「第二拠点は潰されたと見て良さそうね」
「オベロンの野郎、それが目的だったのでは?」
「まさか」
火倶夜は苦笑とともに地を蹴ると、炎の翼を広げた。紅蓮の炎を身に纏って飛翔し、第一拠点の眼前に迫ったベヘモスに接近、その巨大すぎる顎を蹴り上げる。猛火とともに天高く舞い上がった一体のベヘモスには、導士たちの攻型魔法が殺到する様を見て、火倶夜は、さらに二体のベヘモスを相手取った。
超特大質量が二体、左右から押し寄せてくるが、彼女は構わない。両腕を左右に伸ばし、炎の壁で巨大獣の突進を受け止めて見せたのである。
幻魔は、ベヘモスだけではない。
様々な獣級幻魔が、大量に押し寄せてきており、先行攻撃部隊の導士たちの迎撃も凄まじく、魔法が乱れ飛んでいた。
「オベロンが去ったのは、この攻撃を察知してのことでしょうけれど、わたしたちを撃退するだけなら、オベロンだけでやってのけられたわよ」
『まあ、確かに』
『だとしても、オベロンの野郎。この地域の管理者だって話なら、幻魔に攻撃を止めさせるくらい出来たはずでは?』
「出来たでしょうけど、しなかったんでしょう」
『なぜ?』
「オトロシャに気取られるわけにはいかなかった……というところじゃないかしら」
火倶夜は、二体のベヘモスを燃え盛る炎で包み込んで頭上に放り投げると、落下してくる超特大質量を挟み込むようにした。三体のベヘモスが空中で激突し、爆砕するという凄まじい光景が展開される。
そこへ無数の魔法弾が叩き込まれ、爆砕に次ぐ爆砕が巻き起これば、さらに多量の魔法が第一拠点の周辺を飲み込んでいく。
第一拠点そのものが、根底から破壊されていくかのようだった。
「……四度目の正直、とは行かなかったわね」
『五度目の正直と行きましょう。何度だって挑戦すればいいんですから』
弟子からの通信に、火倶夜は、苦笑した。
一度失敗したって何度だって挑戦すればいい――とは、火倶夜が真に何度となくいってきた言葉だ。
真は、そんな彼女の言葉を実践してきたからこそ、実感として理解してくれているのだろうし、実際、そうして彼の魔法技量は大きく伸びてきている。
いずれは、戦闘部を担う人材である。
火倶夜は、そんな真が幾多の実戦を潜り抜け、より優秀な導士として成長してくれていることを実感していた。
今回の戦いも、彼にとって大きな経験となり、糧となるだろう。
オベロンとの遭遇も、そうだ。
全てが、導士にとっての糧となる。
糧としなければならない。
この地獄を生き抜くための。