第八百四十五話 オベロン(三)
リリスの〈殻〉は、バビロンと名付けられていた。
リリス自身が、地上奪還部隊の魔法士たちにそう宣言したのだといい、それによって、央都・葦原市の土台となった〈殻〉の名が記憶され、記録に残されているのである。
バビロンの殻主リリスは、地上奪還部隊との死闘の中で一度は撃破されたものの、それは幻躰を破壊されただけであって、決着が着いたわけではない。
再度出現したリリスの幻躰を相手に苦戦を強いられた地上奪還部隊が、多数の犠牲を祓い、辛くも勝利することができたのは、伊佐那麒麟が殻石を発見したからだ。
殻石の霊石化。
だれもが想像もつかなっただろう方法によって、リリスは討たれた。
そして、人類は、霊石の結界を手に入れ、地上奪還の橋頭堡を築き上げることに成功したのである。
それが、五十年以上の昔のことだ。
そんな昔話は、しかし、火倶夜にとっては決して他人事とはいえない出来事でもあった。知りすぎるくらいには知りすぎているし、地上奪還作戦に関する様々な物語を諳んじることすら可能だった。
火倶夜の朱雀院家は、地上奪還部隊の主戦力であった朱雀院火流羅を始まりとする。朱雀院家がその使命として戦団の導士となり、戦い続けているのは、とりも直さず、火流羅の意向によるところが大きい。
火流羅自身、地上奪還作戦から半世紀が経過した今もなお、戦務局長としてその命の全てを捧げているのである。
火流羅は、地上奪還作戦の地獄そのもののような戦いの記録を、子や孫に伝えていくことを己が役割と考えている節があり、火倶夜が物心ついたときには、何度となく語り聞かされたものだった。
火倶夜の母、火留多もそうだったらしい。
たった五百人で、バビロンの大軍勢と戦い、その上で鬼級幻魔リリスと対峙しなければならなかったのだ。何度死を覚悟したのかわからない、とは、火流羅の言葉であり、神威たちもそのように語っている。
皆、そうだ。
地上奪還作戦に参加しただれもが、死と対峙したのだ。
リリスは、彼らにとって滅びそのものだった。
そして、数多くの同志、同胞が命を散らしていったのであり、ようやく勝利した末に地上の権利を全て明け渡すように連絡してきた統治機構に対し、憤慨し、二度と交渉しないと断言したくなる神威たちの気持ちも、わからないではない――。
オベロンのどうにも穏やかで、白く美しいとしかいいようのない容貌を見つめながら、火具夜の脳裏に過ったのは、そのようなことである。
央都の歴史とは、死の積み重ねであり、膨大な死の記憶こそが、人類生存圏の全てだ。
その死の最大の原因こそ、いま、火具夜の目の前に立っている怪物たちなのだ。
「リリスもまた、数多の鬼級同様、領土的野心に突き動かされる愚物に過ぎませんが、しかし、策謀家でもありました。小さな〈殻〉を拡大するため、あらゆる手を使い、近隣の鬼級どもを手玉にとって滅ぼしていったのでしょう」
「ええ、知っているわ。リリスが、恐府攻略のために手を打とうとしていたこともね」
「ふむ……」
オベロンは、火倶夜を見据えると、考え込むような素振りをした。
「リリスは……あなたがた人類に討ち斃されたと考えて、よろしいのでしょうか?」
「あなたは、恐府の外の出来事を知らないようね? オトロシャに〈殻〉の外に出ないように厳命されているとか?」
だとしても、外部の情報が入ってこないということはないはずなのだが、火具夜の質問には、オベロンも冷笑した。
「御明察。その通りですよ。まったく、我が殻主がなにを考えているのかは想像もつきませんが、そう命じられた以上は従うのが臣下の役目。逆らえば最後、滅ぼされるだけですからね」
「……オトロシャはそれほどまでに強いということね?」
「もちろん。わたしを含め、トール、クシナダが力を合わせたとしても、オトロシャには敵わないでしょう。ですから、わたしたちはオトロシャに頭を垂れ、臣従を誓ったのです。いまから百年ほど昔のことですが」
「百年……」
「なっげえな……」
「ええ。本当に、長い。長すぎます」
導士が想わず漏らした言葉に応じるようにして、オベロンが頷き、嘆息を漏らした。
その様子を見て、火具夜の頭の中に閃くものがあった。
「あなた……もしかして退屈してる?」
「……そうですね。そういってもいいかもしれません。恐府が現在の規模にまで拡大したのがおよそ百年前ならば、リリスと出逢ったのも五十数年前。それ以来、なにひとつ変化しない日々を送るのは、いくら幻魔に寿命がないのだとしても、人間のように時間に追われることがないのだとしても、退屈極まるのも致し方のないことでしょう」
「それで……暇潰しにわたしたちに話しかけてきた?」
「それもありますが……外部からの侵入者であるあなたたちならば、外の世界のことをよく知っているでしょう。少なくともわたしたちのように〈殻〉に閉じ籠もっているようなものたちよりもずっと」
「まあ、そうでしょうけれど」
火倶夜は、オベロンの怜悧な眼差しを見つめながら、彼が己をも皮肉っているような発言をすることに驚きを覚えていた。
オベロンの冷笑は、自分自身に向けたものでもあるようだ。
「だとしても、どうして今回なのかしら? これまで戦団は何度も恐府への攻撃を行ってきたはずよ。数え切れないくらい何度もね。接触する機会ならば、いくらでもあったはず」
「殻主様の目と耳の届かない場所でなければ、このように言葉を交わすこともままならないんですよ。オトロシャは、わたしたち三魔将の誰一人として信用していませんから、常に監視の目を光らせ、警戒している。まあ、いずれもが寝首を掻こうと必死ですから、当然の対応ですが」
「寝首を掻くって……あなたたちは、オトロシャに忠誠を誓ってはいない、と?」
「当たり前でしょう。わたしたちがオトロシャに従ったのは、そうすることでしか己が命を守る方法がなかったからに過ぎません。生き延びるためならば頭を垂れることも厭わない、そんな鬼級もいるということです」
オベロンは、臆面もなくいってみせると、軽く頭を振った。
「まあ、ただ臣従するというのではなく、隙を見て殻主の命を奪うつもりだというのが、わたしたち三魔将の共通の思惑だったのですが」
「……それから百年もの間、恐府に変化はなかった」
「はい。オトロシャは、百年前からほとんど姿を見せなくなり、また、外征を指示することもなくなりました。わたしたちにできることは、恐府に攻め込んでくるものどもを撃退することだけ。倦むには……退屈するには、十分すぎるでしょう?」
「……そうね」
「変化が起きる可能性はあったのです。およそ五十年前、リリスが訪れたときにね」
「リリス……ね」
「彼女は、オトロシャ打倒のための秘策を考えるといい、わたしに協力を求めました。そしてそのためには、恐府の力を削ぐ必要がある、と。わたしはリリスに協力を約束し、実際、今日までそのために活動してきたのですが……しかし、どうやらわたしの活動は、無意味だったようで」
「まあ、そうなるわね」
オベロンが苦笑とともに、導士たちを見回すようにした。彼が現状にとんでもなく嫌気が差しているらしいということが伝わってくる。
リリスは、斃れた。
人類によって討ち斃され、バビロンは、央都の、葦原市の土台となったのだ。
それによって、オベロンの長年の思惑が破綻してしまったというのであれば、彼に多少の同情をしないではないが。
しかし、相手は幻魔である。
幻魔がこれほどまでに感情豊かであり、まるで人間のように考え、人間のように活動しているということもわかりきっていたことだが、だからといって、同情する理由はない。
幻魔は、敵だ。
滅ぼすべき大敵なのだ。
「リリスならば、わたしの倦んだ心になにかを芽生えさせてくれるものだと想っていたのですが、どうやら、そうではなかった。まったく、残念でなりません」
「それはご愁傷様」
「……ですが、あなたたちがいる」
「はい?」
火倶夜は、虚を突かれたような気分になって、オベロンの目を見た。
赤黒くも澄んだ瞳は、火倶夜を真っ直ぐに見ていた。