第八百四十四話 オベロン(二)
「で? わたしたちとの交渉ってなに? ここでなら話せるようなことなのかしら? そもそも、あの場所とここで、なにがどう違うというの?」
「疑問の多いひとですね。まあ、いいでしょう。ひとつひとつ、解決していきましょうか」
オベロンは、怒濤のような質問を浴びせてきた人間に笑いかけると、ふと、思い出した。
「そういえば、あなたの名前を聞いていませんでしたね」
「わたしは朱雀院火倶夜よ。朱雀院が家名、火倶夜が名前。別に覚えてくれなくてもいいけれど」
「覚えますよ。魔天創世後、初めて知り合った人間ですからね」
「……その言い方だと、魔天創世以前には知り合いだった人間がいるように聞こえるけれど」
「ええ。いましたよ。大勢」
オベロンが、懐かしむようにいった。
「本当に大勢の人間が、わたしの周囲にはいたんです。その大勢の人間も、魔天創世で死に絶えてしまいましたが……致し方のないことです。魔天創世は、地球そのものを幻魔に適した世界に作り替えるための儀式。そのために幻魔以外の生物が死滅してしまったのであれば、それはそれで仕方がありません。人類が何度となく繰り返してきたことでしょう」
「……そうね」
地球の自然環境を人類が自分たちにとって住みやすく改造し、その結果、その地域の生態系が崩壊するといったことは、よくあったことだ。環境汚染が問題になったことなど、数え切れないほどにあり、地球全体が人類によって汚染され尽くしていたといわれることも少なくない。
そうした環境汚染を浄化したのが、魔法であり、魔法による環境改善によって、地球は息を吹き返したのだ――とは、魔法士たちの意見であり、言い分だが、それも本当だったのかどうか。
結局、そうした自然環境の改善も、魔天創世によって台無しになってしまったために判断のしようもない。
地球上のあらゆる生物が死滅すれば、自然環境などあろうはずもない。
微生物を含む動植物が死に絶え、幻魔と結晶樹だけが存在する世界に変わり果てたのだ。
魔界に。
そんな世界でなんとかして生きていこうとしているのが央都市民であり、戦団なのである。
「話が逸れましたね。そんなことはどうでもいいことです」
「そんなこと」
「そうでしょう。魔天創世も、それに伴う生物の死滅も、いまとなっては過去の出来事。もはや取り返しがつかず、どうすることもできないのですから、考えるだけ無駄なこと。いま考えるべきは、現在、どうすれば、よりよい未来に進むことができるか、ということでしょう。過去に拘っていては、進める未来も進めなくなりますよ」
「……そうね。その通りよ」
オベロンの発言にうなずきながらも、ふとした瞬間、幻魔への怒りや憎しみが溢れ出そうになるのを堪えるのは、相応の意志が必要だった。
火倶夜は、そうした感情を全身全霊の力で抑え込みながら、理性的であり続けられることを願う。
火倶夜だけではあるまい。
先行攻撃部隊の百名の導士のだれもが、オベロンに対する激しい怒りの感情を抑えるのに必死になっていた。いや、感情を露わにしているものも少なくない。
怒気が、燃え盛る熱気の如く渦巻いている。
しかし、オベロンは涼しい顔だ。彼の眼前にいるのは、人間にとっての小動物の群れですらないのだから、当然なのだろう。
人間だって大量の小虫が怒り狂っているのを感じたとして、なんとも思わない。
それと似たようなものだ。
「まず、なぜあの場では話せなかったかといえば、オトロシャの目や耳があるかもしれないからです」
「うん?」
「ここ恐府は、オトロシャの〈殻〉。殻主たるオトロシャは、恐府内の各所に己の耳目を隠しており、それによってわたしたちの行動を監視しているのですよ」
「監視? 三魔将の行動を?」
「ええ。オトロシャは猜疑心の塊のような方でしてね。忠誠を誓い、家臣となったわたしたち三魔将ですら常に疑いの眼差しを向けているのですよ。わたしたちは常に監視下に置かれているといっても過言ではない」
しかし、と、オベロンは、人間たちを見遣り、拠点内を見回した。青白い光の結界がこの小さな拠点を包み込んでいる。
「この結界は、オトロシャの目や耳から逃れることができるようで……だから、さっさと破壊してこいと命じられたのですがね」
「なるほど」
「破壊しろって命じられたのに交渉しようっていうのは、どういう腹づもりなんだか」
山王瑛介が疑念に満ちた目を向けても、オベロンの表情に変化はない。まるでオトロシャの監視下から逃れることができて、清々しているとでもいわんばかりだった。
「オトロシャは、わたしたちの支配者ですが、トール、クシナダはともかく、わたしとしては、オトロシャの支配から脱却したいという強い想いがあるのですよ」
「勝手にすればいいじゃない」
火倶夜がそのようにいえば、オベロンは苦笑せざるを得なかった。彼女の意見ももっともではあるが。
「できるのであれば、とっくにやっていますよ。しかし、わたしの身に刻まれた殻印がそれを許さない」
オベロンが火倶夜たちに背を向けると、翅を大きく広げて見せた。彼が見せたかったのは、翅の付け根の部分らしく、そこには確かに殻印が刻まれている。
複雑怪奇な紋様が、禍々しく輝いているのだ。
「この殻印がある限り、わたし自身がオトロシャに刃向かうことはできませんから、こうして、交渉の席を設けたというわけです」
「意味がわからないわね」
火倶夜は、こちらに向き直ったオベロンの涼やかな目を見た。透き通ったような赤黒い瞳は、幻魔特有の輝きを帯びている。人間の遺伝子に刻まれた潜在的な嫌悪感を呼び起こす輝きだ。
「オトロシャに逆らうことができず、しかしオトロシャの支配を脱却したいと望むあなたは、一体なにを求め、わたしたちに接触したのかしら?」
「五十年」
「え?」
「およそ五十年ほどの昔のことです。いえ、もっと前だったかもしれません」
「なんの話?」
「地上奪還作戦のことかしら」
火倶夜たちは、口々にいった。人類にとっての五十年前の出来事といえば、地上奪還作戦か、その直後に行われた央都開発計画が思い浮かぶ。
だが、オベロンが語るのは、人類史にとっての出来事ではなかった。
「一体の鬼級幻魔が、この地を訪れました」
オベロンの脳裏には、そのときの光景が浮かび上がっている。
時間という、年月という概念に拘らない幻魔にとって、五十年という歳月も決して長いものではない。なにせ人間や数多の動植物のように年老いることがないのだ。
どれだけ時間がかかろうとも、大した問題ではない。
記憶はいつまでも鮮明なまま劣化せず、想いだそうとすれば、一瞬にして全てが完璧に思い出すことができた。
雨の日だった。
この魔界の空を覆う膨大にしてどす黒い雲が、大量の雨を降り注がせていた。どこもかしこも土砂降りで、この〈殻〉全土が水浸しになるほどであり、トールの歓喜の声が響き渡ったのも思い出せるほどだ。
トールは、雨が好きだったのだろうが、どうでもいいことではある。
オベロンは、翅が濡れるのを嫌って結晶大樹を屋根にしていたものであり、だから、南方からの訪問者に真っ先に気づけたのだろう。
女魔は、ごくごく当然のように〈殻〉の中に侵入し、阻害効果の影響を受けながらも、歩いてきたのだ。その悠然とした足取りには優雅さがあり、気品があった。
「彼女の名は、リリス。幻魔大帝の寵姫として鬼級幻魔の中でも特に有名な彼女は、その庇護下において大いなる権勢を振るっていましたが、エベルの死後は、エベルの側近たちに追われ、恐府の南西に小さな〈殻〉を構えていました」
「小さな〈殻〉……ね」
「ええ。本当に小さな〈殻〉でした。それがあれほどまでに拡大することができたのは、リリスの手腕と見て間違いないでしょうね」
オベロンは、リリスを高く評価しているようだったし、実際、リリスは有能な幻魔だったのだろう。
リリス文書には、リリスが〈殻〉を拡大するための計画がびっしりと書き込まれていたし、事実その通りに事が運んだからこそ、リリスの〈殻〉バビロンは、それなりの大きさになったのだ。
リリスは、謀略家である。
陰謀と策略によって周囲の鬼級幻魔を追い落とし、己が領土の拡大を成し遂げたのだ。
しかし、そんな鬼級幻魔も、人類の必死の反攻作戦の前に敗れ去ったというのは、運命の皮肉というべきなのか、どうか。