第八百四十三話 オベロン(一)
「鬼級――」
「幻魔!?」
だれかが悲鳴染みた叫び声を上げれば、先行攻撃部隊は一斉に散開し、その場から大きく飛び離れたが、火倶夜だけは、その鬼級幻魔に釘付けになっていた。
このたった百名の攻撃部隊において、もっとも力を持っているのが火倶夜であり、彼女だけが鬼級に対抗する力を持っているといっても過言ではないからだ。
昇華済みの星神力をもって律像を練り上げ、星象現界を発動させようとするが、しかし、間に合わない。
白くしなやかな鬼級幻魔の右手が、火倶夜の首元に差し伸ばされていた。
「そう、焦らないでください。わたしは、あなたたちのいう人間に優しい幻魔なのですから」
「そんな戯言、信じられると想う?」
「だったらなぜ、あなたは生きていられるんです?」
「……それは……そうね」
冷徹な、しかし穏やかさすら宿した鬼級幻魔の赤黒く透き通った目を見つめながら、火倶夜は、認めるしかなかった。
確かにその通りだ。
目の前の鬼級がありふれた人類の敵であるのならば、火倶夜は致命傷を負っているか、既に命を落としていてもおかしくはなかった。
それどころか、攻撃部隊そのものが壊滅的被害を受けていた可能性も十二分にある。
鬼級の力は、それほどまでに強大であり、圧倒的だ。
なにより、鬼級が現れると、先程まで攻撃部隊の周囲に展開していた幻魔の集団が姿を消していたのである。
まるで空間転移魔法によって移送されたかのようであり、実際、その通りなのだろうが。
「軍団長!」
「師匠! 御無事ですか!」
「これを無事といっていいのならね」
火倶夜は、杖長と弟子が駆け寄ってくるのを認めながらも、鬼級が差し伸ばしていた手を元に戻す様を見届けている。
人間に酷似し、高い知性を誇り、人語を解する怪物。明らかに鬼級幻魔としかいいようのないそれは、幻想的な装束を纏っていた。背には蝶の翅があり、冠を被っている。秀麗な顔立ちは、人間ならば美しいと断言するだろうが、相手が幻魔である以上、そのようには思えない。
本能が、そのような認識を拒絶する。
それが人間の価値観というものだ。
遺伝子に刻まれた恐怖が呼び起こされ、忌避感や嫌悪感が叫びだすのだ。
また、三メートル近い長身が、彼が人間ならざる怪物であることを明確に主張していることも関係しているのかもしれない。
「無事でしょう。わたしに敵意がない以上は、そうとしか言い様がないはずです」
「敵意がない?」
「どういうことです?」
「わたしに聞かれてもね」
そういってから、火倶夜は、山王瑛介と草薙真を目で制した。二人はいつでも相手の行動に対応できるように律像を編んでおり、その点では火倶夜も変わらない。
相手は、幻魔だ。
人間に優しいなどと嘯いているが、信用してはならない。
幻魔は人類の天敵であり、人類は、幻魔にとって糧にしかならないのだ。
だからこそ、当惑するのである。
目の前の鬼級は、なぜ、火倶夜に話しかけてきたのか。それも攻撃してくるのでもなく、ただ、声をかけてきたというのか。
「あなたは、オベロンかしら。三魔将のうちの一体……」
「御名答。まあ、見た目でわかりますよね」
「ええ」
オベロンという名を文学や伝承上の妖精王から取ったというのであれば、彼のその姿にこれ以上相応しい名はなかった。少なくとも、北欧神話の神トールや日本神話の女神クシナダには合わない。
そんな中、山王瑛介が部下たちに指示をして、防御陣を立て直し始めれば、オベロンが微笑した。
「そこまで警戒されると、傷つきますね」
「これくらいで傷つくほど繊細な心の持ち主なら、どうして配下の幻魔たちが斃されるのをただ見ていたのかしら」
「それはそれ、これはこれ、ですよ。なにをするにしても、判断材料は必要でしょう。あなたがたがどれだけの力を持っているのか、知っておく必要がありました。ですから、部下たちには全力で攻撃するように命じたのですが……どうやら、あなたがたは、わたしの想像以上の力を持っていたようだ」
「それで、わたしたちの目の前に現れた、と?」
「ええ。魔法時代、混沌時代の魔法士たちとは比較にならないほどの力を持っているあなたがたには、交渉の余地がある――そう判断したのですよ」
「交渉……」
真は、小さくつぶやきながら、オベロンへの警戒を緩めなかった。草薙小隊一同は、火倶夜の周囲に展開し、火倶夜を護ることに全力を尽くそうとしている。
火倶夜こそがこの攻撃部隊の最高戦力であり、なにがあろうとも火倶夜だけは生き残らせなければならない。
火倶夜の死とは、戦団にとって多大なる損失なのだ。
火倶夜ほどの魔法士を失えば、その開いた穴を埋め合わせることは到底かなわないのではないか。
だれもがそう想うからこそ、真たちのように火倶夜だけでも護ろうと考え、行動するのだ。だれに言われるでもなく、命じられることもなく。
そんな部下たちの反応を実感しながらも、故にこそ、この状況をどうにかしなければならないと考えているのが、火倶夜だ。
まさに予期せぬ状況であり、想像だにしない事態だ。
まさかオトロシャ配下の鬼級幻魔が、火倶夜たちと交渉するために姿を見せるなど、だれが想像できようか。
「交渉? 脅迫ではなくて?」
「脅迫したとして、あなたがたはわたしの思い通りに動いてくれるのでしょうか? あなたがたは、わずかばかりに生き残った人類、その代表者なのでしょう? 人類の代理決闘者とでもいうべきあなたがたは、どのような脅迫にも屈することはないはずです。わずかばかりの生存者全員を人質に取られたというのであれば、話は別でしょうが」
「……まあ、そうね」
(随分と物分かりのいい幻魔ね)
火倶夜は、オベロンの穏やかな、それでいて強い力を感じる声音に全身を緊張させながら、考え込む。
わずかばかりの人類全体が人質に取られたも同然だったのが、龍宮戦役である。
竜級幻魔の覚醒が人類生存圏にとって致命的な一撃となりかねないからこそ、龍宮防衛のために協力しなければならず、神木神威の出陣と相成ったのである。
もし、ただ龍宮が滅ぼされるだけならば、力を貸す必要などありはしなかった。
「ですから、交渉をしましょう、という話なのです」
「どんな交渉かしら?」
「……ここでは話しづらいので、少し場所を移動しませんか?」
「どこへ?」
「あなたがたの陣地へ」
オベロンは、そういうと、翅を羽撃かせ、一っ飛びに攻撃部隊の頭上を飛び越えていった。
火倶夜たちは唖然としつつも、すぐさま陣形を整え、オベロンを追った。
追わざるを得なかった。
放っておけば、せっかく確保した恐府攻略の橋頭堡が破壊され尽くすだけでなく、オベロンに背後を突かれ、部隊そのものが壊滅する可能性がある。むしろ、その可能性にこそ、恐怖しなければならない。
相手は、鬼級幻魔だ。
現有戦力では太刀打ちできない。
オベロンの交渉がどのようなものであれ、話を聞く必要に迫られているのだ。
オベロンが待ち受けていたのは、恐府の最南端に構築された第一攻撃拠点の中であり、彼は、拠点内の構造物を物珍しげに眺めていた。幻魔特有の機械への忌避感が、その反応に現れている。
「人間の技術力は、この百年で大きく進歩したようですが……しかし、百年の進歩とは思えないほどに遅々たるもののようですね」
「仕方がないでしょう。何十年もの間、技術的な停滞を強いられていたんだもの」
「はて……まるで意味がわかりませんが」
オベロンは、この拠点内に満ちる魔力の波動を肌で感じながらも、その微々たる阻害効果には眉ひとつ動かさなかった。
要塞染みた、しかし、簡易的な拠点は、人間の技術の粋を集めて作り上げられたもののようだ。それも瞬く間に出来上がったというのだから、技術力というのは素晴らしい。
とはいえ、機械そのものへの本能的な嫌悪感ばかりは、どうしようもない。
「技術は力でしょう。少なくとも、旧時代の人類は、そうでした。魔法時代、混沌時代の人間たちは、技術の進歩を競い合っていたものですし、革新的な技術を見せびらかしていたものです。技術を停滞させることに意味があったのですか?」
「あったのよ。少なくとも、わずかばかりの人間を支配し、統制していく上ではね」
「……なるほど」
オベロンは、ようやく技術的停滞の意味を理解して、膝を打つような感覚を抱いた。