第八百四十二話 先行攻撃任務(五)
その結晶樹の森を黒禍の森と名付けたのは、いつだったか。
何十年も昔のことで、正確な日時を覚えているわけもなかった。
そもそもがだ。
人間が作った暦をいまもなお活用している幻魔など、どれほどいるのだろうか。
幻魔は、時間という概念に囚われる必要がない。
生まれたときから完成した生物は、老いることもなければ、寿命などもなかった。
(成長することもありませんが)
そんなことは、大した問題ではない。
なんといっても、生まれた瞬間に完成した生き物なのだ。
生物の進化の極致。
それこそが幻魔だ。
(幻魔……ディオボロス……)
そのように名付けたのは、いまや滅び去ったはずの人類であり、人類の名残がそこにだけ輝いているはずだった。
だが、実際には、人類は滅びきってはいなかった。
わずかばかりの生き残りがいて、それらがあのリリスを滅ぼし、バビロンを破壊し尽くしたという事実を知ったときには、彼は、呆然としたものである。
(まったく……よくもやってくれたものです)
嘆息とともに、彼は、その翅を広げ、黒禍の森を飛翔する。
人類が、そのわずかばかりの生き残りでもって、鬼級幻魔リリスを討伐したのは、何十年も昔の話であるらしい。
オトロシャの〈殻〉恐府は、外部との連絡を絶って久しい。故に〈殻〉の外で起きている出来事について、彼のような立場のものですら知る方法がなかった。
ただ、オトロシャの命令に従うことしかできないのだから、仕方がない。
(まったく……)
困ったものだ、と、彼は想う。
何十年もの間、リリスの到来を待ち続けた挙げ句がこのザマである。
待ち侘びたリリスはとっくに討ち滅ぼされ、代わりにやってきたのが人類の戦闘部隊というのだから、困惑を通り越して腹を抱えて笑いたくなってしまう。
実に馬鹿げた光景だ。
幻魔大帝によって、魔天創世によって滅び去ったはずの旧世代の生物が、我が物顔で幻魔の国を蹂躙しているのだ。
ありうべかざる光景だったし、実に許し難い有り様だ。
(とはいえ)
彼は、どす黒い結晶樹の中でも特に巨大な結晶樹の天辺に降り立つと、眼下に広がる戦場を見渡していた。
この黒禍の森は、彼が管轄する地域である。
殻主オトロシャが主宰する〈殻〉恐府は、四つの地域に分けられるのだが、それぞれ、異なる鬼級幻魔によって管轄されている。
黒禍の森は、彼――鬼級幻魔オベロンに一切を任されており、故に自分好みに作り替えることも許されていた。そして、想いのままに創造したのである。
それがこの黒々とした結晶樹が乱立する樹海であり、結晶樹そのものを建材として作り上げられた町並みだ。
黒く禍々しく、そして美しい建物群は、まだまだ戦火に曝されることはないだろう。
なんといっても、人間たちの戦闘部隊は、遥か南方で激戦を繰り広げている最中であり、彼の居場所に到達するには、十重二十重に布陣する幻魔の軍勢を突破しなければならないのだ。
(それは困難)
しかし、と、オベロンは、宝石のような目を細める。
人間たちの戦いぶりは、彼の想像を遥かに超えるものだからだ。
ここしばらく、毎日のように攻め込んでくる人間たちは、旧世代の人類とは比較にならない魔法技量の持ち主ばかりだった。
現世代の幻魔たちは、魔天創世の影響によって、旧世代よりも遥かに強化されているはずだ。
それなのに、人間たちは、霊級は無論のこと、獣級をも容易く撃滅し、妖級に対しても対等以上に戦うことができているのだ。
(ふむ……)
オベロンは、その白い肌に手を当て、考え込む。秀麗な顔立ちは、美丈夫としか言い様がなく、極めて人間に近い姿態は、彼が鬼級幻魔であることを証明するかのようだ。背に生えた二対の翅は、彼の身の丈よりも大きく、模様が美しい。
身に纏うのは幻想的な装束であり、さながら異世界の王族のような出で立ちであった。
妖精王オベロンの名を冠する鬼級幻魔は、その名に相応しい姿をしているのである。
赤黒い目も、宝石のように透き通った美しさがあり、ほかの幻魔にはない輝きを帯びていた。
「あれは……」
火倶夜が目を鋭くしたのは、妖級幻魔フェアリーを焼き払った直後のことだ。
不意に視線を感じ取った彼女は、上空に目を遣った。どす黒い結晶樹が並び立つ森の奥深く、天高く聳える大樹があった。その大樹もまた結晶樹であり、無数の枝葉がどす黒くも透き通った光を帯びていて、禍々しさを見せつけていた。
そんな巨大な結晶樹の頂点に、なにかが立っている。
人の形をしたなにか。
背後に広がる大きな翅は、蝶の翅のようであり、陽光を浴びて美しく輝いていた。
幻魔らしく、幻想的に。
「鬼級幻魔を肉眼で確認」
『鬼級幻魔を確認、了解しました』
「まあ、向こうがこっちに手を出さない限りは、無視するに限るわよね」
『作戦部も火倶夜様の考えに賛同しています』』
「よねえ」
情報官との通信を終えると、火倶夜はすぐさまその場を飛び離れた。炎の尾を曳くようにして後退すれば、無数の魔力体が飛来して、地面に激突、炸裂する。どす黒いばかりの大地が抉れ、粉塵が舞い上がって視界を黒く塗り潰した。
幻魔の大攻勢は、留まるところを知らない。
先行攻撃部隊は、第二目標地点を通過し、第三目標地点を目指している最中だった。そのただ中で、幻魔の大軍勢に襲われたのである。
が、無論、想定内の出来事であり、誰一人取り乱すことなく対応した。
まず防手たちが鉄壁の防御陣を構築すれば、補手たちの補型魔法による能力強化が行われ、攻手たちが苛烈なまでの攻型魔法を乱打する。
それによって幻魔の大群に大打撃を与えたのも束の間、幻魔側も一気呵成に攻め立ててきたのである。
防御陣を食い破るように突貫してくる獣級幻魔ユニコーンの群れが、その額の角から雷撃を迸らせれば、無数のアンズーが空中から稲妻の雨を降り注がせた。またしてもベヘモスが現れたのは、部隊の直上であり、空間転移魔法によって転送されたのは明らかだった。
超巨大質量によって防御陣ごと押し潰そうとしたのだろうが、これには、今度こそ草薙真が対応した。彼は、天高く飛び上がって七支宝刀を発動し、超火力の連打によってベヘモスを吹き飛ばし、粉砕して見せたのである。
そんな弟子の活躍を見届けている暇はなく、火倶夜は、幻魔の群れの中でも特に凶悪な妖級を相手に戦わなければならなかったからだ。
そんな激戦が繰り広げられている最中に鬼級幻魔を発見したとして、それに手を出そうなどと考える愚か者はいまい。
蝶の翅を持つ鬼級幻魔は、先行攻撃部隊の現在地から遥か遠方にいる。
もちろん、鬼級程度ならば一足飛びに肉迫できる程度の距離ではあるのだが、だからこそ、火倶夜は、目の前の幻魔の殲滅に注力するのだ。
鬼級がなにを考えているのかはわからない。
こちらが消耗したところを攻撃してくる可能性も低くはないが、果たして、そこまでするだろうかという考えもあった。
鬼級である。
人類を劣等種と見下し、自分たちこそ万物の霊長であるといって憚らない鬼級幻魔からすれば、人間たちが消耗しきるのを待つなど、耐えられないような屈辱ではないか。
「だとすれば、なにか良からぬことを企んでいるとみるべきでしょうかね」
山王瑛介が漆黒の大鎌を振り回し、ユニコーンの群れを薙ぎ払いながらいってくる。胴体を寸断されたユニコーンたちは、断末魔を上げながら最期の魔法を発動させるも、それらは瑛介を護る魔法壁に遮られて消え失せた。
「相手は幻魔よ。やることなすことろくでもないわ」
「そりゃそうだ」
「人類に友好的な幻魔もいるらしいけどね」
「ははっ、本当にいるのなら一度くらいあってみたいものですが」
「いるじゃありませんか、いま、目の前に」
「はっ――」
火倶夜が、息吹とともに飛び退き、同時に瑛介を蹴り飛ばしたのは、いままさに眼前に鬼級幻魔が現れたからにほかならなかった。
蝶の翅が舞い、膨大な鱗粉が、その鬼級幻魔を包み込んでいた。